satoboの写真日記

言いたい放題の酔っぱらい日記

無理が通れば、どうりで納得

2012年05月31日 | Weblog
明日から衣替えだ。
厚いコートを脱いで出かけませんかぁ?
コートの下には鎧を着ていたのが見えた今日一日だった。
まずネットでこんな記事が知らされた。
さすが日本の管理はしっかりしていたようだ。
ただ、仏作って魂入れず、ISO取って運用せず、のことわざ通り、キチンと決めた事を守らず、机上の管理としていたのだけれど。
理由は簡単で、部署に権限が与えられていなかったのだ。
たとえば、製造現場では品質保証部門が営業や経営部門より”強く”、どんなに営業や経営が出荷を要請しても、品証がOKを出さなければ出荷出来ない。
品質を保証出来なければ出荷を止める権限が与えられているのだ。
独立した権限がある事で顧客に対して品質保証できるという考えからだ。
もちろんこんな事はない!
そんな権限が与えられていないのだ。
つねに納期や経営判断が優先される。
その結果、不具合に泣くのだ。
同様にどんなに立派な防災対策をたてても、それを実行する権限がなければ机上の空論となるのだ。
そして実際、そうなった。

いくつ政治生命や責任を持っているのか、野田総理が”自己責任”で事故の責任を負うと個人保証し(苦笑)、大飯原発を再稼働する事に実質Goサインを出した。
これまでも言ってきた通り、再稼働する事はわかっていた事なので驚く事でもない。
呼応するように(呼応したんだけど)、いつの間にか広域連合のリーダーのようなそぶりを見せていた橋下が再稼働容認発言をし、あたかも広域連合の総意であるような振る舞いをマスコミが流し、ボケとツッコミの関西漫才のセオリーに則って府知事が「キミ、それは違うやろ」とツッコミを入れて、「お時間です。チャンチャン」と舞台を降りていく。
一通り各首長が言いたい事を言って一段落した頃に後から現れて、声だかに反対反対と叫び、自分の立ち位置を確保して他の広域連合の人々が霞むようになると、一転賛成と唱える。
優れた筋書きである。
これには他県の首長も形無しだろう。
してやられたのだ。
最初から反対する気などないのはわかるだろう?
誰がバックについて応援していたんだ?
関西の財界だよ。
だから財界のタイコ持ちらしい働きをしただけなんだ。

で、期間限定で再稼働など、まるで「閉店セール」のようにいったいいつになったら店を閉めるんだ?となるに決まっているじゃないの。
冬になって、また夏になってと、閉店セール第二弾、第三弾とするのか?
そんな期間限定なんて、ユニクロと同じで信じられるものか。

で、夜になって「希望の牧場代表吉沢が、警戒区域内にジャーナリストを不正に同行させたとして、南相馬警察署へ任意同行されました 現在も取り調べ中です」というツイートがあった。
福島で生き残った牛を世話している人だ。
これは政府が原発再稼働という方針を決めた事で、それに反する活動を行うものを取り締まりの対象として警察が動き出したと見る向きもある。
だから今後はデモなども活発に制圧していくことが考えられる。
すでに公安では、デモ主催者を極左扱いしているという話もある。

一方、可哀相なのは原発再稼働を容認した福井県おおい町の人達だ。
町がハッキリとカネのため、と口にした事で、今後あらゆる場面で周囲からの非協力的な扱いに耐えなければならない。
国策の中に投げ込まれて、否応なしに原発中心の生活を選択させられたのに、今後は国のためにとか、関西の電力事情のためにとか言えなくなってしまったのだ。
これを自己責任としてイイものであろうか。

当然再稼働したからといって、都合良く(汗;)地震や津波で原発が被害を受けるわけがないのだけれど(通常の配管や電気トラブルなどは起きるけど、それはヒミツ)、上記のように、あるいは原発事故を見ての通り、ストレステストなどというハードの面には目を向けるけど、運営管理に関してはまったく改善(つまり決めたルール通りにするという事)されていないようなので、今後も”ずっと”何かあれば、あの日のように右往左往することになるのだ。
それだけは今後も変わらずに課題として、課題として”だけ”残り続けることは覚えておこうよ。
再稼働の日には、国民みんなが心配で注目するだろうから、なごませるためにも枝野に「再稼働しても、直ちに安全に影響がありません」と言ってもらいたい。

それはそうと、以前の首相が言った「脱原発宣言」てのどうなったの?



有馬温泉 路地を歩く3
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最低限の最低限とは

2012年05月30日 | Weblog
北原みのり著「毒婦。」の事をつれづれなるままに考えるのだけど、わからないというのが今の感想。
たとえば何かに関して意見を持つとか、まとまった考えが出来るにはどれぐらいの情報とか知識が必要なんだろう。
少なくとも読んだその一冊とか、数冊では、それで自分の意見とするには不足だろう。
まずはその著者のこれまでのものすべて、そして著作のおしまいに掲載されている参考文献をすべて読むぐらいでないと、その著者の言いたい事はわからないだろうし、ベースになる知識も備える事が出来ないだろう。
まあそれで数十冊か100冊オーバーぐらいか。
それから同様の他者の文献も当たり、反論するものにも当然目を通す事になる。
そうやって、どのような状況でどのような事が論じられ、それぞれの主張、反論、正しい事、間違っている事をピックアップできて、初めて自分の立ち位置がおぼろげながら見えてくるのではないのか。
もちろん世の中は刻々と変化していくので、継続的に注視していく必要がある。
まあそれぐらいで1000冊ぐらいか?
それぐらいして「自分は”今”こう思うんだけど・・・」程度の認識が出来るだろうか。
それも次々に読みこなしていく文献によって、変化し、転向し、認識を新たにし、確信していくのだろう。

ところがそのような最低限度の事もしていないような話を平気でネットで繰り広げる人がいるようだ。
すぐに底が見え、非論理的で、感情的でありながら、それを自分では気がついてもいないような、すぐに反論されて恥をさらすようなレトリックを”披露”し、「ハッキリ言って、あなたハズカシいんですけど」と言いたくなる”論”を執拗に繰り返す(つまりちっとも進化していない)。
そんなものが飛び込んできた身にもなって欲しいよ。
面と向かってなら「バカ」と言ってやれば済むのだが、文字だとそれも理解出来ないようだ。
元々言いたいだけなのだから。
さすがに声で「バカ」と言ってやると多少は通じるのだ。

文字にしてエラソーな事を書くのなら、自分が何を知らないかを理解し、それをいかに隠して賢く見せるかぐらい努力が必要なのだ。
そうじゃないと「無知の恥」になってしまうのだ。



有馬温泉 路地を歩く2
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木嶋佳苗はニャンコなのかもしれない

2012年05月29日 | Weblog
北原みのり著「毒婦。」を取り急ぎ読了。
読んでいる最中になぜか苦笑が出てくる事しばし。
楽しみは完全オトコ(それも完全オヤジ)目線の佐野眞一著「別海から来た女」との読み比べだろう。
佐野本はそのうち購入。

苦笑の理由は自分でもまだよくわからないが、「なにやってんだよ、君たち」という感じか。
真面目さを求めているんじゃないけど、真面目に真面目な事をしているのを周囲から見るとおかしいという感じかなぁ。
劇場型犯罪という言葉があるが、この社会での出来事が、映画やテレビドラマではなく、小さな閉ざされた空間の劇場で繰り広げられる喜劇や悲劇や不条理劇であるような、実際には目の前で行なわれている現実なんだけど、どこか現実とは違う話である第三者感が漂ってくるのだ。

北原本から読める木嶋佳苗は、読んだ後このパソコンに向かっている最中に何度も散々「ニャ~」と鳴きながら自分のして欲しい事(おかかが欲しいよ、お水が飲みたいよ、ドアを開けてよ、遊んでよ)を訴え、そして結局は意のままにsatoboを動かすニャンコのような存在に感じる。
ニャンコはワンコと違って独立した存在としてあり、それがニャンコ自身にも自覚で来ていて、キッチリ対等な関係である事を認めさせているのだ。
そういう点で、「毒婦」と共に「魔性の・・・」という言葉を賛辞とともに加えたい。

しかしさぁ、被害者や裁判関係者もさぁ、オトコに都合いいそんな”理想”のオンナがいるという前提をなんとか出来んのか?
ほとんど”原理主義”じゃないの?
どんな原理か知らんけどさ。
そんな”理想”を前提にオトコを生きていると、何もかもが夢物語に思えてくるんじゃないのか?
たとえそれが、居酒屋での放言やグチや泣き言レベルでのオトコの世界であってもさぁ。

もう少し時間を置いて考える事にしよう。



有馬温泉 路地を歩く1
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OSAKA (コンポラ風味)

2012年05月28日 | Weblog

















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気分はフリードランダー

2012年05月27日 | Weblog
昨夜、リー・フリードランダーの画像を見ていたら、久しぶりにモノクロ写真を撮りたくなってコンデジひとつ持って大阪に出かけた。
気分のものなのでモノクロモードにしての撮影だ。
こういうところでフィルムカメラを持ち出さないのは”たしなみ”である。
デジタルだアナログだという気持ちはこれっぽっちも持ち合わせていない。
何でもいいんだ。
カメラだって何でもいいんだ。
satoboのは何年も前のものだけど、こうしてネットで小さな画像を見せるだけなら十分”実力”以上のものが写っている。
せっかく小さな性能のイイものが現れたのだから、それを使えばいいんじゃないの?

普段から何でも撮るので、今日はフリードランダーの気分で”しばり”をかけて、いかによけいなものを撮らないか、目を向けないかに努力した。
こういう事もたまには楽しいかも。
しかし、生まれついての田舎者。
おっしゃれなものだけをクールに撮ろうとするのだけれど、だんだん目がいつものように泥臭いものに向きだし、それを無視するのに苦労した。

フリードランダーなら35ミリで撮影気分なんだけど、そこはそれ、50ミリオンリーで撮るのがへそ曲がりなところ。
その50ミリの画角も、最近ちっともファインダーを覗いていないので、目の前にフレームが浮かんでこなくて前後に行ったり来たりのダンスステップ状態。
でもまあ何十枚か撮影して、これ以上はオッサンの視線になる~という状態で中止。

帰宅後、フォトショエレで小細工して終了。
これでイイのだ。
これがsatoboの”写真”なんだから。
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