Nonsection Radical

撮影と本の空間

そういうもの

2017年03月27日 | Weblog
一連の”騒ぎ”もシラをきり通して結局はなかったことになってオシマイという流れに。
たまたま”末端”の不始末で表沙汰になったというだけで、”本体”の流れになんら影響を与えないということ。
これを不正ととらえるか、シモジモには関係のないある層での当然のおこないと考えるかは、どこの層に属しているかで変わってくるのであろう。
そういうなかで垣間見えたのは、シモジモが上の層の考えに従う必要もないし、そんなことしても何の得にもならないということ。
末端はあくまでも末端であり、上の層に属することもできないし、あくまでも都合の良い”使用人”程度でしかないということ。
だから上の層の唱える「愛国」などというのは、「滅私奉公」とかあくまでも上の層に仕えるための「行儀見習い」程度でしかないということだ。
それをこれまで勘違いして、あたかも「われわれ国民」のための国などと思って、また勘違いして上の層とシモジモが同じ身分で暮らしていると思い、シモジモが上の層の考えと同様に振舞うことが愛国であるなどと思ってきたことこそが間違いであったのである。
だから不始末をしでかした「愛国」を旗印に活動してきたオッサンは、シモジモである理由から簡単に上の層から切り捨てられてしまったわけだ。
上の層にとっては、自分たちの”世界”を維持することが「愛国」であって、それ以外のことなど何の興味もない。
たとえ国が滅びようとも、国民がどうなろうとも、自分たちの”世界”=すべてなのである。
それは「先の大戦」の時にもそうであったし、敗戦によっても解体されることはなかったのは、その体制を維持することが連合国にとっても上の層の”世界”を維持するということであったのだ。
世の中はそんなふうにできているんだとライブで見せてくれた今回の騒動を、アベサンとかアキエサンとか庶民感覚で呼んで身近に感じていたシモジモの人たちは、シモジモにもわかりやすい部分だけで伝えるテレビを通じてどのように理解したのであろうか。
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幽霊の不思議

2017年03月20日 | Weblog
世間の幽霊ってどうしてハダカじゃないんだろう。
乏しい知識では、幽霊って肉体からタマシイとかが抜けたものって感じじゃないですか。
まあ、そういうものだとすると、肉体から抜け出るのは肉体の中にあったものなんですから、当然抜け出たものはハダカじゃないとおかしいでしょ。
一部では、死んだ時に肉体からタマシイが抜け出ると、わずかに肉体の重さが減るなんて話もあるけど、じゃあ身につけている衣服とかも軽くなるんでしょうか。
そんな話は聞いたことがない。
そもそも衣服にタマシイがあるのかね。
兵隊の幽霊なんてものが装備品を装着していたりすると、靴とか銃とかからもタマシイが抜け出ているんですかね。
でないとそんな姿の幽霊って”見えない”はずですよね。
ということはモノにもタマシイがあって、なぜかそれを身につけていた人が死ぬと同時にモノも”死んで(?)”一緒に幽霊として”登場”するということになるのですか。
まあ有機物ならそういうことも考えなくもないわけでもないかもしれないと思えなくもないかもしれないけど(笑)、鉄とか指輪とか無機物はどうなのよ。
銃にタマシイが宿っているというんですかね。
ちょっと無理。
ならば当然幽霊は身のまま、つまりハダカであるはずでしょ。
ところが世間ではなぜかみんな身に衣類をつけている。
不思議だよなぁ。




経堂農大通り商店街 1
東京都世田谷区経堂1丁目
撮影 2017年3月1日 水曜日 15時00分
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ホームでステップ

2017年03月14日 | Weblog
向かい側のホームに普通のおばさんが立っている。
服装はズボン姿の(パンツとは言わない)地味目のもので、どこにでもいるおばさんである。
なんとはなしに見ていると、確かめるような動きでダンスのステップを踏んでいる。
ダンス教室の帰りなのだろうか。
無知なのでダンスの種類はわからない。
ステップを踏む姿は背筋が伸び、足の運びは軽やかだ。
カッコイイのである。
電車が来るまでの数分間、繰り返し練習する姿を眺めていた。
そこで、自分も”返礼”にステップを踏もうと思ったが、他人から見ると単に地団駄を踏んでいるだけだろうと思い、諦めた。


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マスク美人

2017年03月06日 | Weblog
インフルエンザの流行と花粉症の影響でマスクをしている人も多い。
そういう自分も冬季は常にマスクをしている。
一番の効果は、寒い時にでも吸う空気が冷たくないので寒さを感じないところだ。

そういうマスクをしている人の中で、特に個人的に目を引くのは”当然”ジョシにで、中には個人的見解でカワイイなぁとか美人だなぁと思う人も少なからずいる。
外観的に見えているのは目元だけなんだけど、その目元が印象としてカワイイ、美人を判断する基準になるわけだ。
自分には想像力がないので、目元だけで顔全体をイメージすることはできないのだけれど、なんとなくそこはかとなく感じるものはある。
ところが、その美人さんがマスクを外すと、アリャリャとなることが多いのだ。
もちろんカワイクナイとか美人でないというわけではないのだが、なんとなくそこはかとなく思い描いていた御尊顔とは違うということはわかる。
どう違うかハッキリしないけれど、なんか違うなぁと思うのだ。
よく考えてみれば、顔の3大パーツ「目、鼻、口」の1/3しか見ていないのだから、印象など描きようがないのだけれど、平安時代の高貴な御方のように目だけを見せて殿方を魅了するたとえもあるように、目はかなり重要なパーツであるのは確かだ。
確かであるが、それだけではやはり1/3の印象でしかないわけで、全体像との違いは逃れられない。
マスクを外した顔がカワイクナイとか美人でないというわけではないので損した気分にはならないのだけれど、やっぱりマスクをした顔の方が好きなのは違いない。
自分のことをさておいてこんなことを言っているが、きっと自分もマスクを外すと、単なるエロオヤジからスゴいエロオヤジへ印象が変わるのだろうな。
心外である!
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相席

2017年03月05日 | Weblog
このあいだラーメン屋に入ったら「相席願います」の声が。
相席(あいせき)というのは、テーブル席で先客がいても残りの席にあとから来た客が座ることで、見知らぬ同士が席を同じにして食事を共にするわけだ。
現在のように他人との距離感に”敏感”な人たちには「しんじられな〜い」”制度”なんだけど、昔はこれが普通だった。
だから逆にお一人様でもテーブル席に座れ、お店にとっても効率が悪くなることもない仕組みだった。
そういうものを経験している世代ではなんとも思わないことなんだけど、現代では戸惑う人も多いのではないか。
それが久しぶりに相席という言葉を聞いて、懐かしさと共に、当たり前じゃんという思いと、いい店だよなぁという思いがわいてきたのであった。
きっと時代錯誤と言われるのであろうが、なんでもかんでもプライバシーということで他人との距離感がはかれない時代になっている中で、たまにはこういうことで自分のバリアを取り払ってみることも必要なんじゃないのかなと思う。
”公共”の場に”私”を持ち込んで公共とはなんぞやという思いを抱くことが多いのだけど、そういう勘違い系の人たちが多くなっている時代だからこそ、”私”の制限が”私”とは何かということを考えるきっかけにもなるのでないか。
といいつつ、上からの制限のために”公共”を持ち出すことには非常に拒否感はあるのだけれどね。
そういう”公共”とこういう”公共”とは違うんだということ。
私的空間と公的空間の振る舞いに区別をつけるということは当たり前と思うのだ。
外に出ても自分の空間を優先して振舞うというはトラブルばかりでうまくないじゃないのかと思うのだ。
当然プライバシーにも個人的権利にも差異が出てくるものだろう。
往来を歩いていて「見るな」というのは勝手すぎる考えだ、の類の話である。
当たり前といえば当たり前の話なんだけど、その当たり前が通用しない”個人的見解”を持つ人が増えてきたんだよね。
それに伴いトラブルも増えているわけだし。
コメント (2)
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