Nonsection Radical

撮影と本の空間

診断名

2010年05月27日 | Weblog
某月某日
自動車税、固定資産税、自動車損害賠償責任保険(自賠責)を払ったら、急に眼の前が暗くなり寝付いてしまった。
病名は 再生不良性金欠
来月は車検。
立ち直れそうもない。
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眠すぎて眼が痛いので

2010年05月25日 | Weblog
某月某日
昨日は頑張って書き込みしすぎて本日ネタ切れ。体力切れ。時間切れ。マジ切れ。
まあ藤原さんのは題名からして円満を装った縁切り話。
木村伊兵衛と名がついているので気にしただけだが、賞など別になくても構わない時代になっているのではないか。
個人的には賞とか式というのは無縁でいたいので関係はない。
式といえば、出陣式とか壮行会とかなんであんなのやるのかね。
オリンピックでも入村式などあるが、あんなセレモニーって他の国でもするのかね。
でも、象印賞とかがっちり賞はちょっと魅力あるかも(笑)。
3万円、5万円、7万円、運命の分かれ道・・・

最近の画像は「駅前シリーズ・鶴巻温泉編」です。
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140文字では書ききれない

2010年05月24日 | Weblog
某月某日
5月23日づけの藤原新也さんのトークで、朝日新聞が主催する写真の新人賞「木村伊兵衛賞」の審査員交代の顛末が書かれている。
これを知ったのはツイッターのmitzkanoさんの書き込みでだが、mitzkanoさんの感じるところとsatoboのとは多少違っていたので返信したのだけど、140文字ギリギリまで使っても伝える事が難しいかと、ここで141文字目から書き加えるなり。
詳しくは藤原さんのトークを読んでとなるのだが、藤原さんはじめこれまでの審査員の方は、賞の趣旨に沿って新たな新人を選出する事に努力を重ねてきたと思う。
それでも受賞者に対して選出の疑義をとなえる事も近年多くなってきたと思うが、そりゃ仕方ないだろうと思う気持ちもある。
ないものからは選べないのだ。
ネット社会となり、これまでとは違う情報社会となり、写真を撮っている人の情報もずっと知れ渡る事となった。
つまり多くの写真家の「写真情報」をネットでも知る事が出来るようになったのだ。
それらを見る限り、「第三の新人」と呼べる世代はまだ訪れていないのではと思える。
そう思うのはsatoboの個人的なもので、そんなに写真の事を知っているわけでもないし、評論など出来る力もない。
でも、何十年か生きてきて、写真も見続けてきたけど、では今を表現する力を持った写真家が現れているかと言えば、いないよなぁを思うのだ。
草食系写真が多いのだ。
それが時代を反映していると言えばそうだが、はたして表現して草食系なのか。
草食系が撮影した写真と、草食系の写真とは意味が違うだろう。
個人的には「表現」なんてものは何でもアリだと思っているので、色々な意味でビックリするようなものが出てくる事を期待するのだけど、なかなか写真以外でもそうだけど、スゴい人は出てこないよね、そうそう。
だからといって、これまでに評価の定まった表現方法に従ってみても「時代遅れ」である。
時代遅れだからダメだと言うのではない。
そういう表現をしてきた人はそうすればイイ。
ただ、「これからの」新人が同じ表現をしてもダメだという事だ。
今更、土門拳のリアリズムを再現しても「時代」が違うだろうという事だ。
今の時代の表現は何か?
それを表した写真、写真家に今と今後を期待するのが筋だろう。
そういう賞のひとつが木村伊兵衛賞だと思うのだ。
でも審査員が交代するそうだから、どうかな?
こんなんじゃ、ダメだよ!
という審査員(文芸賞にもいるタイプ)では、新人は出てこない。
芽をつぶして、自己自慢(それも過去の)に浸るだけだ。
かといって、そんなものをぶっ飛ばす若手もいなさそうだ。
実力はあるけど、それが個性的で将来が期待され、時代とともに生きる人かと言われれば未知数という人が多いだろう。
ハッキリ言って選ぶ方も選ばれる方も人材不足なのだ。
だから木村伊兵衛賞はこれにてオシマイというのが現実的でイイのではないか。
賞なんかなくても表現者は出てくる時には出てくるものだ。

体制側の偉いサンが列席する「報道写真」って、やっぱりヘンだと思う。
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蘇民将来

2010年05月23日 | Weblog
某月某日
「伊勢神宮と出雲大社」新谷尚紀著 講談社選書メチエ を読んでいるんだけど、漢字が多いし、難しい話なので難儀している。
その中に「蘇民将来」の話が出ていたのだが、それを読んで去年の夏に行った南知多の事を思い出した。
南知多の細い路地を徘徊していたら、各門戸に護摩符のようなものが張ってあった。
そこには確か「蘇民将来之子孫也」と書いてあった。
そのときはこれが何の意味かわからず、蘇民将来という名からして渡来人系の人の子孫の集落なのであろうかと勝手な想像を働かせ、札自体も検索で出てくるような立派なものではなく、単に門戸にペタッという感じで張ってあり、長辺15センチほどの小さなものであったの撮影はしなかった。
それがこの本の話から民間信仰である事を知り、また自分の行った場所へとつながった事に面白さを感じた。
Wikiでは伊勢志摩地方で盛んとあるが、知多半島など「お向かい」なので、こちらでも信仰が流れてきているのだろう。
まったく知らない事ばかりで、また本を読んだだけでは実感出来ない事ばかりあると恥じ入るお年頃である。
やはり知識とフィールドワークを兼ね揃えてこそ、「遊び」というのは楽しくなるのだろうと思う次第だ。
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ゲージツよりもゲンジツだ!

2010年05月22日 | Weblog
某月某日
平日の朝はラジオを聴いているけど、ラジオに画像を投稿してワイワイする番組があって、これがまた楽しい。
NHK第一でJOAKから放送しているんだけど、「今朝」見た風景や各地のお天気を画像で投稿して、お天気おねいさんとパーソナリティの歌のおねいさんと局アナおじさんがワイワイお話を交わすという他愛ないものだ。
もちろんラジオを聴いているだけではその画像は見えないのだが、番組HPのコーナーで画像も見る事も出来る。
でも、画像を見なくても話だけで十分楽しめるのだ。
画像はたぶんデジカメで撮ったものだろうし、シロートが撮ったものだからたいしてウマくもない。
撮る人もゲージツなど意識していない。
眼の前にあるゲンジツを撮って投稿している。
これが、これで、イイんだと思う。
「写真」としてこんなに有用な使い方があるのだ。
何か見たものを伝える。
そして見たものを言葉で伝える。
基本的な事だけど、そういうものが最近は少なくなっている。
テレビという媒体はすでに放棄してしまったようだ。
テレビで伝える映像はただ動いている「色」である。
そこには伝えたいという気持ちは備わっていない。
「伝える」ものは思想や情報など中味の事じゃないよ。
伝えたいという「気持ち」」の事。
その気持ちがなくて、ただ「絵」として放送しても、やはり伝わらないのだ。
その気持ちが、このラジオの投稿者にはあるようだ。
だから気持ちが共有出来るのだ。
今ラジオでは気持ちを共有する事を大切にしているようだ。
そのために色々な事を試している。
ラジオで料理番組なんてのも、すごく想像力が働いて面白い。
そう。想像力が大切なんだ。
色々な事を想像させる力が豊かな表現力と言えないか?
やたらと技法、技巧に凝って、それがさもゲージツであるかに振る舞う音楽、映画、小説、トーク、写真などあるが、どれだけ想像力を喚起するものがあるか。
そこでフルイにかけられるだろう。
また、どれだけ想像力を発揮出来るかが受け取る側の力量だといえる。
そういう点で、この番組は受け手として、送り手として豊かな感情で放送出来ていると思う。
それがまたリスナーに伝わって、新たな画像で気持ちを伝えようと思わせるのだ。

こういう事は、いろいろな媒体が本来持っていたものなのに、現在忘れられ、あるいは軽視されている。
もう一度取り戻す時期に来ているのではないか。

書き忘れたが、番組は「ラジオビタミン」通称「ラジビタ」だ。
ビタミンのビがヴィでないところがイイ。
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