ネットでちょっと騒ぎになっているのは、相手が嫌がっているのに無理矢理撮影し、発表するのは「表現の自由」「芸術」なんかじゃない、暴力的だ、取り締まる事も必要だとの事。
まあよくある話ではあるのだけれど、思ったのは撮影するのも取り締まるのも一緒くたにした話だなぁという事。
確かに「表現の自由」はある。
あるけど、だからといってその表現が無傷で批難されない、時には取り締まりの対象にはならないわけではないという事。
もちろん芸術だからという事も対象にならないわけではない。
それぐらいの”覚悟”は当然持って撮影しなければならない。
そういう”リスク”はあるんだけれど、どうしても表現したいという無謀で野蛮な衝動が表現というものに向かわせる事もある。
それが表現者であろう。
確信犯なのだ。
一時は謝罪する事もあろうが、何度も同じ事を繰り返す。
厄介で、迷惑な存在だけど、時には人々に影響を与えたりもする。
一方、表現を受け取る側は、今回のように批難する事もあれば、時には賞賛する表現に出会う事もある。
それが「表現」というものだろう。
しかし、両者は別の存在なのだ。
それを自分だけの「論理、倫理、正義感」などで相手を判断するからすれ違うのだ。
相手には相手の価値観があり、それを認識した上でそれぞれが主張をしないと「どうしてそんな事が理解出来ないんだ」と不毛な争いになる。
”そんな”表現など必要ない、存在を許さないというのもひとつの考えだろう。
だけど表現は選別できないんだよ。
あらゆる表現が現われてくるんだ。
だからひとつの事を許さないという時には、すべての事が許されなくなる。
実際にそういう時代を繰り返してきたんだから。
表現を取捨選択して受け取るつもりが、すべての表現を許さない時代を作るかもしれない。
それは表現の自由を”乱用”した者の責任かもしれないが、表現の取り締まりを望んだ者の責任でもある。
明日からしばらくお休みです。
旧年中はお世話になりました。
本年もよろしく御願いします。(あと4日しかねえぞ本年は)。
築地場外市場 2 波除通り
東京都中央区築地4,6丁目
撮影 2014年8月11日 月曜日 11時05分
まあよくある話ではあるのだけれど、思ったのは撮影するのも取り締まるのも一緒くたにした話だなぁという事。
確かに「表現の自由」はある。
あるけど、だからといってその表現が無傷で批難されない、時には取り締まりの対象にはならないわけではないという事。
もちろん芸術だからという事も対象にならないわけではない。
それぐらいの”覚悟”は当然持って撮影しなければならない。
そういう”リスク”はあるんだけれど、どうしても表現したいという無謀で野蛮な衝動が表現というものに向かわせる事もある。
それが表現者であろう。
確信犯なのだ。
一時は謝罪する事もあろうが、何度も同じ事を繰り返す。
厄介で、迷惑な存在だけど、時には人々に影響を与えたりもする。
一方、表現を受け取る側は、今回のように批難する事もあれば、時には賞賛する表現に出会う事もある。
それが「表現」というものだろう。
しかし、両者は別の存在なのだ。
それを自分だけの「論理、倫理、正義感」などで相手を判断するからすれ違うのだ。
相手には相手の価値観があり、それを認識した上でそれぞれが主張をしないと「どうしてそんな事が理解出来ないんだ」と不毛な争いになる。
”そんな”表現など必要ない、存在を許さないというのもひとつの考えだろう。
だけど表現は選別できないんだよ。
あらゆる表現が現われてくるんだ。
だからひとつの事を許さないという時には、すべての事が許されなくなる。
実際にそういう時代を繰り返してきたんだから。
表現を取捨選択して受け取るつもりが、すべての表現を許さない時代を作るかもしれない。
それは表現の自由を”乱用”した者の責任かもしれないが、表現の取り締まりを望んだ者の責任でもある。
明日からしばらくお休みです。
旧年中はお世話になりました。
本年もよろしく御願いします。(あと4日しかねえぞ本年は)。
築地場外市場 2 波除通り
東京都中央区築地4,6丁目
撮影 2014年8月11日 月曜日 11時05分