Nonsection Radical

撮影と本の空間

親の責任だろ

2009年06月30日 | Weblog
某月某日
ガキに専用電話なんか必要なのかねぇ。
単純にそのことを議論する事もない。
ガキの専用電話に毎月数千円以上も払ってやる親の気が知れない。
不況ってウソだろ?
安全の為にというのなら、当然通話機能とショートメッセージ程度でいいだろ?
ネット接続機能など安全とは無関係だし。

親が子供の安全の為にカネをかけて何が悪い!
じゃぁ、当然子供のしでかした事に親は責任を取るのだろうな。
最近のガキはませていて、オトナと同じように陰口や陰湿な意地悪、虐待、陵辱をしているらしい。
もちろん子供は親の背中を見て育つのだから、親も同様な事をしているのだろう。
いつも誰かのうわさ話、陰口、文句、嫌み、妬み、嫉み、不平、不満、失望、絶望、等等等・・・子供の前で繰り返しているのだろう。
それをまねて同様な事を子供もしていくのが「家庭教育」というものだ。

そうやって起こした子供の「不祥事」に対し、子供のやった事だからとか、知らないとは言わさないのが「親の責任」というものだ。

親が買ってやったケータイで子供が引き起こす事件、事故、不祥事、不純異性交遊等等等はすべて親の責任である。
その覚悟があるからガキにケータイなどという文明の利器を与えているのだろう。
でもガキはサルと同程度なのだから、文明の利器など使えるのか?
結局サルより頭のいいガキは使いこなして、勉強の時間も作り、もっと頭が良くなる。
サルより頭の悪いガキは、サルセン状態でケータイばっかりいじり、勉強などしないから、もっとサル以下になる。
これはゆとり教育以前の問題ですよchoseiさん!(笑)
コメント (2)
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お久しぶりぶり ぶるぶりぶりっこ

2009年06月29日 | Weblog
某月某日
鬱であっても寝ているわけにはいかないのが貧乏人。
その間にも仕事へ行き、自分はタフなネゴシエーターだと自分に言いきかせ集会に出て、その結果また疲れて・・・(笑)
cheseiさんの再開ブログを見て、satoboも頑張ろうと、目標閲覧者3人以上(笑)を掲げての再開です。

本日の話題は、アートの買い方。
写真を含めてアートの市場というのは買う人と売る人がいて成り立つ。
買った人がまた手放して売る人にもなる。
そうやって作品が循環しながら売買されるのが市場である。

satoboも写真、絵画含めて何点かの作品を買って持っているのだが、これらはいわゆるアート市場で購入したものではない。
特に写真の場合、市場なんてものはほとんど日本に存在しない。
もちろんいくつかのギャラリーで売買されているのは知っているし、実際にその場に立ち会った事もある。
でもその規模は他のアートに比べるときわめて限定的だ。
その市場を大きくしようと様々な人が様々な手法を考えて努力しているが、肝心の客が増えないようだ。

まあその筋の話は、今日の話題とは外れるので置いておく。

satoboの買い方は手放す時に値段がつく「リセールバリュー」とは別の買い方なのだ。
それを持っていたい、いつでも見たい、それが好きだという気持ちから作品を買うのです。
だから実際にはそれがポストカードであっても印刷でもいいのです。
グラビアのピンナップを壁に貼る気持ち。
もちろん本物の方がいいには決まっているけど、手に入らない時も多い。
佐伯祐三の絵など手に入るわけがない。
それでも美術館に行って実物を拝見し、その記憶を頼りに画集を眺めてイメージするのですね。
それは宇多田ヒカルをDVDで見て、昔(すでに40年も昔だ)実際に名古屋駅で見た藤圭子のお人形さんのように白く華奢な姿を思い浮かべるのと同様である(同様には思えんが)。

そういう気持ちで作品を買うと、納得がいけば「法外」でも構わないのだ。
絵でも写真でも無名あるいは新人であれば基本的には市場価格は0円である。
市場的価値がないからだ。
でもそんな事は好きなら構わない。
市場の基準で見ずに、自分がこの価格なら欲しいと思う値段なら納得価格なのだ。
それは市場性を無視した行為なのだが、もともと売り払う、あるいは利殖として考えているわけではないので、いくらで引き取ってもらえるかは考えないでいいのだ。
よく街頭で客引きをして、儲かるからと、どう見てもアートに興味のない人に、どう見ても価値のない絵を売る商売があるが、それとは対極の買い方なのだ。

叔父が池田満寿夫のパトロンの一人であった。
だから池田の作品が叔父の家に無造作に飾ってあった。
もちろん最初は無名である。
しかし初期の作品を叔父の家に行って眺めていると、叔父が応援したくなるわけがわかった。
抜群にイイのだ。
細かいところがどうのではなく、見た瞬間に線が輝いて見えるのだ。
それで叔父は池田作品が好きになり、買い集めたのだ。
その後池田は「有名」になったが、作品はある時から輝きを失った。

そんな血を引いているのか、自分が気に入ったものは手に入れたいと思う気持ちが素直なのである。
だから市場価格のある作品の値段が下がっても落胆する事はなく、安くなったのだからむしろ買いやすくなったと思うのである。
これが後悔しないアートの買い方なのだ。
コメント (5)
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申し訳ありませんが

2009年06月26日 | Weblog
ひどく鬱状態が進行しているため、しばらくお休みさせていただきます。
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ハンドルネーム 匿名

2009年06月25日 | Weblog
某月某日
ネットではハンドルネームを使用する人が多い。
satoboも佐藤某をもじっているのだが、自分でも冴えないと感じる。
東京8x10組合連合会では心菊斎苛地を使用するがこれは狂歌名である。
江戸時代にはしゃれた名前をつける人たちがたくさんいた。
それは狂歌や黄表紙の作者として名乗っていた。
たとえば、手柄岡持とか、酒上不埒、宿屋飯盛なんて面白いでしょ。

そんな感じで現在にも面白い名前をつけてネットで動き回ればしゃれているのではと考えているのです。
でも実際に名づけるとなるとなかなか難しい。
桑原据膳とか畦超為とかはダメかねぇ。
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通勤ラジオ

2009年06月24日 | Weblog
某月某日
小さなラジオを買った。
これまではラジオ付きウォークマンを使っていたのだが、これが結構重いのと、かさ張るのと、イヤホンコードが絡むので新しいのが欲しいなぁと物欲を膨らませていたのだが、ヨドバシのポイントが貯まっていたので、それを付け足して名刺サイズのラジオを買ってしまった。
重さもかさも半分以下になったし、イヤホンコードが巻き取り式(それも掃除機のように)で絡む事がないのがありがたい。

それで会社の行き帰りにラジオを聞くのだが、なんとなくNHKがいい感じなのです。
もっとも最初から民放は野球中継ばかりなので帰宅時にはチューニング(死語)を合わせないのですけど、NHKのアナウンサーの語り方が心地よいのです。
余計な感情表現というか単にでかい声を張り上げる民放のアナウンサーとは違い(それでもテレビのアナよりはマシだが)、聴き取りやすく理解しやすい語りなのですね。
特に男性アナウンサーはイイ。
女性アナは、いろいろタイプがある。

まあラジオを聞こうと思う切っ掛けは、通勤の行き帰りにあまりにも雑音が多すぎてヘキヘキしているからなのだが。
どうしてみんな声高に喋るのだろう。それも中身のない話を。
コーコーセーのバカ話は若いから許せるけど、オヤジオバン世代の会社の愚痴話を声高に喋るのは機密保持の観点からも問題だし、うるさいし、つまらない。
思わず聞き耳を立てる色っぽい武勇伝を声高に喋ってくれれば、ラジオなど買う必要もないのだから。
コメント (2)
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