Nonsection Radical

撮影と本の空間

7月29日 書類

2022年07月29日 | Weblog
48時間勤務もようやく終わろうとしていた時に、姉から連絡があり、相続に必要な書類を送れと。
炎天下、勤務明けの寝ぼけ眼でコンビニで発行、署名捺印、郵送。
我が家のプリンターは感光面の汚れで印刷すると部分抜けするので適さず。
ようやく手続きが終わると午後3時。
そこから飯を食って仮眠。
明日からも同様のシフトで来月8日まで。
体力は保つだろうか。
今年も夏休みはなし。

枕元に置いてある読みかけの本の山にニャンコのゲボが。
読み終えた後は高く売れそうだと思っていたのがベトベトカピカピ。
廃棄処分行き。

郵便局へ自転車で行く途中。
朦朧として生垣に倒れ込み手の皮を擦りむく。
年寄りはこうやって怪我をしていき・・・
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7月25日 晴働雨読

2022年07月26日 | Weblog
目覚めればすでに雨。
久しぶりに調べ物のための読書。
多少気温が低いのでエアコンは稼働させず。
読んでは気になる部分を抜き出してノート(電子的)に書き出す。
バブルの真っ最中の頃、この時代をどのように理解するべきかと様々な人が分析を試みたのだが、社会の中心だったおじさん達は年齢的には中年で全共闘以前の人たちが中心。
思考というのは自分中心にしか働かないので、どうしても前近代的時代背景、あるいは家父長制を背負った思考となるが、もちろん当時はそんな自覚は当人らにはない。
だから当時の人がどのように考えていたのか明らかになる。
そのために当時の本を読んでいる。
前近代から近代、そしてポストモダンへ、などと当たり前のように語られるが、時代は前後し、重なり合い、境界などはっきりしない。
しかしわかるのは、1940,50年代生まれのおじさん達は前近代、家父長制を意識なく背負っていて、新たな時代に戸惑いを覚えていること。
そんなふうに考えてどうするつもりなんだ?すでに決まった道を踏襲すれば楽だし安定するじゃないか、と、自分で決めて歩かなければならない時代の到来を避けようとする姿が若者分析に現れている。
歴史的には、戦後からの高度成長も、80年代からのバブル成長も終わりを告げて、安定した道などない時代が来たことがわかるんだけど、当時はなんとなく感じる不安感をカテにチャレンジする右往左往が軽薄に感じていたのだろう。
そして当時「こんな若者が大人になった将来はどんな軽薄な社会になっているのだろうか」と危ぶまれた社会は、ひたすら安定した道を探し求める保守的な空気が蔓延する不景気なものとなった。当時の若者達によって。
どこで方向転換したのだろうか、というのが実は研究のテーマなのである。

読書の合間に洗濯物のアイロンがけ。
ズボンの裾直し。

年金もらいながらそこそこ働いて、休みには撮影か読書。
これが理想なんだけど現実はひたすら過労状態。
来年は抜け出したい。

投稿後、思いついたが、あの時代の家父長制を背負った男どもが、実は家に不在で結果的に父権主義をぶち壊してしまったという笑えない話。
街を浮遊する若者には言及しても、その親である父親に関する話は出てこない。
そこには、家のことは母親に任せてあるという”甘え”が男にはあったのだろう。単なる責任回避であるのだが。
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7月25日 カレー風味

2022年07月25日 | Weblog
年寄りというのは気がつかずに年寄りくささを醸し出しているものだと自覚している。
で、毒には毒をと匂いで誤魔化す作戦に走っているのだが、さすがに現在では仁丹とかチックの匂いは論外なので、そこはかとない香りを安価に醸し出すシャレを利かせたいとあがくジジイである。
以前はダイソーで中高生のジョシが使うコロンを使っていたのだが、最近は販売されていないのか売り場で見当たらず、仕方ないので男性化粧品売り場で、これまた安っぽい甘い匂いのフレグランスを買っていたのだが、久しぶりに売り場に行くと安い商品は見事に駆逐されていた。
どうしたものかとネットで調べると、どうやら販売が中止になっているようで、在庫限りの販売となっている。
仕方ないのでチープなものなのでまとめ買いをして死ぬまで安っぽい匂いに包まれていくことにした。
街場で嗅ぐオッサン連中の”あの”独特な香りは何を使っているのだろう?そういうのには疎いのでわからないのだ。

というわけで、今夜はカレー風味のトマトスープ。
どうやら夏の定番食となりそう。
米にぶっかけてほぼインド1ルピーカレー。
40年近く前に行ったインドでどれだけ安いものが食えるかと試した結果が1ルピーのシャビシャビの瓜入りカレーで、味はほとんどなくてさすがに喉を通らなかった。
それを彷彿させる味なのだが、とりあえずは喉は通る。
当時旅行者が安いと言って食っていたのが5ルピーぐらいで、自分は普段は2,3ルピーだったな。
ずいぶん自分も立派になったよ。

仕事部屋のエアコンが限界というが、来月はほとんど仕事で家にいないのでエアコンはこれにて使用中止としよう。
動画変換もしばらくは行わないのでPCを守ためだけにエアコンを使用している理由がなくなった。
ニャンコには可哀想な思いがするが。
ちょっとどうなのよと文句が出ているシフトがまもなく始まるのだが、人によっては夏休み期間中は仕事にあぶれる人もいるので働くしか選択肢はない。
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7月23日 続伸

2022年07月23日 | Weblog
東京都では連日3万人以上のコロナ感染者数を続け、全国的にも20万人を超える。
そうなっても他人事であるのは非感染者のつぶやきであるが、さてそれもどれだけ続けられることやら。
あまりに無関心な人が多く(大阪の人の感想でも驚くほど他人事である)、上記の人数や表面上の数字だけで判断する人が多いため、実質”医療崩壊”していても、「これでいいのだ」と思っている人が多くいて、今後日本の医療基準はコロナ対策を基準にされるのではと危惧する。つまり放置である。あとは自力救済。それが階級社会という姿であるのは欧州を見ていても感じる。

みんなが興味を抱かない原因の一つに数字が意味することがわかりにくいというのがある。
主にYahooのコロナサイトをいつも見ているのだが、そこには「現在感染者数」「累計感染者数」というのがあって、「退院者数」というのがある。
しかし「入院者数」という表示はない。
これは何を意味するのか?
表示される数字を単純に足し引きすると、どうやら現在感染者数は入院患者数ではと”推察”される。
でも世間には自宅療養している人が、入院数の何十倍もいるというがその数字はどこに含まれているのだろうか?
すべてが「退院者数」という表示が謎を生むのである。
いずれにしても感染対策は安いマスクだけという話。
それにしても死亡以外は無傷と思う思考には発想の貧困を疑い、他の日常の生活での発想は大丈夫なんかいやと思う。

連日の肩こりに”サロンパス”(通称)を両肩に。
多少は効果があるのか、肩を気にしない時間が増えた。

”減塩食”を進めているが、基本的に塩を使わず、使用具材に含まれる塩分を利用。
味がしないと言えばしないが、だからどうのとは思わないし、素材の持つ自然の風味が、とも思わない。
単に「メシ」としての機能しか求めない。

ここのところスーパーで買うキャベツ、レタスにナメクジがいる率が高い。
取って捨てるだけだが、”あの”ネバネバが葉についていて洗うのに注意を要する。
また実際には”姿”が見えなくても部分的にネバネバするところがあり気持ちが良いものではない。
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7月21日 寝不足

2022年07月21日 | Weblog
相続等の手続きでさっそく必要な書類を寄こせと連絡が来るので、仕事中の昼休みに作業。
印鑑登録カードが前夜寝ずに探したが見つからず途方に暮れていたのだが、コンビニでマイナンバーカードを使って印刷できると知り、今回ほどマイナンバーカードを取得して良かったと思ったことはない。
コンビニで必要書類を印刷して郵便局で速達配達。
炎天下歩き回って貴重な昼休みは終了。
その後は寝不足と空腹で夜中まで仕事。
腎臓対策のために塩分とカロリー制限もしなくてはならずジャンクも早々食べれない。

勤務明けの帰りにスーパーでニャンコ缶とトマト缶レタスを購入。
レタス入りのトマトスープ(無塩)を作ってぶっかけ飯とする。

昨日の東京のコロナ感染者数が2万超えだったが今日は3万越え。
今月中には全国感染者数が20万人は行くと思っていたが、予想より早そう。
新規感染者数も現在感染者数もとっくに前回の波を超える高さ。
街の現状を見ればなぜ増えたかは明らかなのだがね。
現状の対策は安い不織布マスクの装着だけで、三密もソーシャルディスタンスも、検査による早期発見もすべてしないことに何も思わないメンタリティが問題。
むしろ今後のインフルエンザとか他のワクチン接種さえも避ける動きがあれば他への影響も大きい。
自らが罹患する事は自由だが、他人にうつす可能性があることを考えないとね。
自分の”信念”を通すか他人へのリスクを減らすか。
老親や幼児に感染させ、こんなはずじゃなかったのにと後悔しなけりゃいいが。

最近電気自動車の事を考えている。
案外”ブーム”は短いのではと。
というのは、電気自動車のキモはバッテリーだが、バッテリーの寿命がきて交換となった時にその値段の高さに交換をためらう人が多いだろうと思うからだ。
テスラでの交換が250万とかで騒がれたが、そこまで行くと中古市場では実質価値はゼロになるだろう。交換して売るなら250万+になるのを買う人がいるのか?
つまり電気自動車は一代限りの使い捨てになるのではと思うのだが。
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