3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

朝日の取材力の乏しさ:日揮社員のプライバシーは守られず

2013-01-26 13:48:27 | 現代社会論
朝日の取材力は低いのではないか。
本人の実名報道にこだわり、大事件であるし、なにより追悼になるからと大義名分をうって遺族から情報をあつめたとはいえ、インターネット上の写真を使った記事でお気軽なつくり。
1.26の朝刊を読み、この程度の取材をして、追悼になる、とおもっている記者の実力とはなんだろうと思う。

これでは、取り上げられた家族はもとより本人が一番憤っているのではないか。

表面をなぞっただけの記事。軽すぎる。これだから今やメディアは信用されないのである。

ジャーナリストの脚力が明らかに落ちている。取材対象への向かい方が軽薄であり、人間的な洞察力に欠く、他人の人生、仕事、つまらん視点しか持ち合わせていない。社会派でもなんでもないではないか、これでは。

記者の脚力の減退、この10年、とくにそう思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大越キャスターの言明は間違っていると思う:NHKの実名報道

2013-01-25 16:35:04 | 現代社会論

「企業戦士」たちの死2013年01月23日 (水)
http://www.nhk.or.jp/nw9-okoshi-blog/100/144212.html

大越キャスターはまず、企業戦士ということばに違和感を示している。
筆者も企業戦士という言い方は好まない。しかし、企業に身を捧げ、家族を日本に残し仕事に専念する彼らは、やはり「マイホームパパ」ではなく、日本の経済を中枢で支える「企業戦士」である。それ以外の言葉を私は思いつかない。


「日本人7人の死亡が確認されたその日、菅官房長官は、日揮側との協議の結果として犠牲者たちの氏名を公表しなかった。だが私たちは、取材の結果、氏名が明らかになった犠牲者のうち、2人を実名で報道した。家族の了解のもと、その証言とともに、犠牲となった人の人となりや仕事に向き合った姿勢を伝えるためだ。余計なことを、と思う人もいるかもしれない。亡くなった人とその家族のプライバシーを侵害し、取材ラッシュによる第二の苦しみを強いるつもりかと。しかし、ぼくは自分たちの報道が間違っているとは思わない。亡くなった人にはその人なりの言い分があると考えるからだ。そして、その人がもはや声を発することができなくなった以上、家族に彼の思いや、残していったものを語ってもらうのは、決して間違っていないと信じている。」と書いている。

それはこの人の単なる思い込みではないのか、そう自分に言い聞かせ、あの取材は間違っていなかったといいたいのだ。「亡くなった人にはその人なりの言い分があると考えるから」と言っているが、考えたのは大越であり、本人やその家族の意向を反映しているとは言えないのだ。いつのまにか自分が代弁者であると思いあがっているのではないか。家族の了解をとったといっているが、どうとったのか、息子はそれをゆるすだろうか、すくなくとも、息子の妻は許さないと思うがどうか。「・・・信じている」といっているように「信じている」のはほかの誰でもない大越自身だ。

そして、実名報道について次のように述べる。

「ぼくたち記者は、この問題に否応なく向き合って来た。岡山で事件を担当していた新人の頃、大きなニュースとなった詐欺事件の初公判を取材した時のことだ。検察の冒頭陳述が終わり、裁判所を出ようとすると、被告の妻と思しき女性から腕をつかまれた。
「逮捕の時だって、起訴の時だって、散々ニュースになったじゃないですか。もうこれ以上、あの人を出すのをやめてください」。
ぼくは黙ってその女性の顔を見つめるしかなかった。結局、デスクと相談の上、この初公判のニュースも実名で放送した。その判断が100点満点だったと言い切る自信はない。しかし、事件の悪質さや、社会的な影響の大きさを考えた場合、その核心である人物のディテイル(詳細)を、安易に「ぼかす」ことはすべきでないと思うのだ。」

このケースは被告の妻であり、日揮社員は被告ではない。なんという誤認識かと思う。

大越はさらに次のように続ける。

「今度の人質事件の場合はどうか。亡くなった人たちに責められるところはない。むしろ、仕事への情熱と責任感を持って過酷な地に赴任した人たちであり、家族の中には、その誇らしい足跡や、遠い異国で散った無念を知って欲しいと思う人もいるはずだ。であればなおのこと、私たちは家族の同意を得て、実名で報道する努力を怠るべきではない。」

「・・・・無念を知って欲しいと思う人もいるはず」とそれは単なる想像でしかないだろう。


「アメリカでは、対テロ戦争で今に至るまで多くの兵士たちが命を落としてきた。その都度、政府は速やかにその人の名前と顔写真、亡くなった状況を公表し、追悼の言葉を捧げる。今回、亡くなった人質たちは、武器をとって戦う人たちではない。だが、総理自らが「企業戦士」という言葉を使うほど、その貢献に命がけの重みを見出すのなら、やはり彼らの死は原則として実名で公表されるべきだろう。テロの理不尽さを知り、犠牲者の無念にできるだけ近づこうとするのならなおのことだ。真実はディテールにこそ宿るのである。」

これもまた、勘違いである。
日揮の遺族は公表されたくないと言っているのだ。それは未来永劫ではないかもしれないが、とにかく、悲劇に遭遇して慟哭しているものに、取材をする神経はどうなのか。

本人の意思は確認できない。家族は公表を拒否している。なのに、わざわざ南三陸までいって、心のケアが必要なほど悲しんでいる年寄りにインタビューをし、大した内容でもないものを映像にして流す。私は見ていて苦しくなった。これはNHKの暴力であると思った。激しい憤りを覚えたのだ。
大越の弁解じみたこのコメントを読んで思わず、何もわかっていないし、これが天下のNHKのキャスターのレベルかと失望した次第である。

実名報道拒否という痛烈なマスメディアに対する拒否反応に対応できずにいる。
従来のやり方をとってしまって、ことの重大さにあとから気づき、多くのクレームが寄せられ、それでも間違っていなかったと念仏のように自分に言い聞かせているだけではないのか。

家族の取材拒否に苛立ち、手当たり次第に情報を集め、年取った南三陸の母親の居場所をつきとめ、まるめこみ「了解」をとって流した。その程度である。

朝日の記者に非難が集中しているらしいが、NHKも同罪である。

視聴者はみな、この事件でわがことのように思い悲嘆にくれる家族を思いやっている。実名拒否の家族の意向に皆、納得している。メディアは変わらなければならない。

日揮の悲劇、その理不尽さを世界に発信する、そういう役割を果たすべきときに、なにをやっているのだろうか。内向き日本のメディア。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKでお父さんといっしょ、が始まるらしい

2013-01-25 09:39:14 | 女性の地位
おとうさんといっしょ、がはじまるらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
NHKは4月から幼児向けの新番組「おとうさんといっしょ」をBSプレミアムで放送すると発表した。

 子育てをする父親「イクメン」を応援しようという狙いで、週末の朝に、歌や体操で親子一緒に楽しめる内容になる。新キャラクター「シュッシュ」と「ポッポ」も登場する。

 放送は日曜午前8時から。1959年から続く長寿番組「おかあさんといっしょ」(Eテレ)との連動も検討しているという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


NHKのEテレは最近、がんばっている。
とうとうはじまるのね。

いつも「おかあさんといっしょ」では、母子密着しすぎなので、やはり「おとうさんといっしょ」がいいだろう。
でも、やはり、日曜の8時なのね。

月から金働いて、土曜はちょっとゆっくりして、日曜の朝はおとうさんが育児をやりますよ、という設定。

毎日おとうさん、ではないところが、すでにイクメンではないのだが。
育児は24時間365日だから、日曜の8時だけならだれだってできるし、と、言いたくなるが、とりあえずの前進だからケチはつけないでおこう。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディアの暴力的権力:実名報道をめぐって

2013-01-25 08:38:23 | 現代社会論
メディアは絶対的な権力をもってこの国を支配しているということを自覚すべきである。

日揮社員の家族はNOといっていた。にもかかわらず、メディアはこれでは、問題が明らかにならない、とか、大事件を風化させてはいけない、というようなもっともらしい言説をあげ、新聞でも、実名報道の正当性を声高に掲げ、非公開を支持するようなコメントは小さく取扱い、ある種の実名報道は正当であるという世論を形成した。

メディアに逆らったら後で何を書かれるかわからないから、みんなびくびくして、はい、お説ごもっともと、だれも、識者も辛口のコメントはいわない。

そういうことである。
メディアは思い上がっている。自分たちは常にただしく、正義の味方なのだからなんでも許される、というその態度を改めるべきである。
NHKだってそうだ。田舎に行けば、NHKさまさま、民放はだめでもNHKは取材できる。年寄はとくにそうだ。そこにつけこもうとすればできる。

大きな権力をもって遺族や生存者、会社に取材していることを忘れてはいないか。

第一、新聞記者や放送局の人間がどれだけ日揮の仕事を理解しているか、不明である。
工学部の人たちが深いつながりを持って、最高顧問も現場作業員も同じ釜の飯を食い、身の危険をさらして、はるか遠い異国で仕事に情熱を傾けてきたのか、多分
マスメディアの人々は知らないと思う。かといって筆者がわかっているかというとそういうわけではないのだが。

そんなことを知る由もない彼ら彼女らに取材が遺族にできるのか、プラントで働いたこともないような人は、友人にもゼロ、文科系まるだしの記者たちになにがわかるのだろう。素朴な疑問である。


メディアの人間は多様だから、一概に一言で批判するのはよくない。しかし、取材対象に対して、ほとんど基礎知識もないまま、低レベルの質問、またはお涙ちょうだい的な質問ぐらいしかできずにいるのを見ると、このテロの被害者家族が、実名報道NOと突きつけたのは、理解できる。ただ一つ、彼らの尊厳を守りたいということだったのだと思う。また、これまでのメディアの行動にたいする厳しい評価なのではないか。

被害にあった人の写真がTVにでていた。Face Bookからとったものやインターネットの画像検索でひっかかった写真だった。本人からすれば、その写真じゃないものにしてほしいと思ったかもしれないのにだ。日揮は国際的な知名度が高い大手の会社であるので、社員のレベルも高く、プライドも高いから、当然肖像権個人情報を守りたいだろうに。

しかし、その一方、前述したようにメディアを敵に回したら大変で、そうかたくなになれず、結局、屈して実名報道となったのではないかと想像している。日揮だって、メディアを敵に回したくない。


新聞の購読数をあげる、視聴率稼ぎ、スポンサーの言いなり、こういうスタンスでは、世の中をかえるような取材はできないものである。
メディアはみずからの暴力的ともいうべき権力を自覚しなければならない。それが良識というものである。

実名報道された遺族に思いやりをと思う。
夫や息子の名前が新聞にのり、あれこれ書き立てられる。その新聞は用が済めばまるめて捨てられる。そんな風に消費されたくはないのだろう。

残されたものにとっては一生の問題、マスメディアや野次馬にとっては一瞬のTVプログラム、一日のある紙面に過ぎない。
こう思うとやるせない。

この事件を風化させてはいけない、とメディアはいうけれど、いつも風化させているのは当のメディアではないか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

介護保険に過度に依存はよくないのか?日経のらいふプラス

2013-01-24 00:46:46 | 現代社会論
2013.1.23の日経夕刊
らいふプラスという欄、「介護保険、過度の依存は禁物」記者は山口聡。

介護保険制度は「要介護高齢者の自立支援」という本来の役割を果たしていないとの批判が強まっているとのこと。
制度に依存する人を増やしているという。

家族の言いなりはいけないとか、高齢者の状態、その状態をつくった原因をきちんと調べ、生活していくうえでの課題を把握し、目標を設定して・・・ケアプランを立てる。
プランを立てるのはケアマネといわれる専門職だが、適切なプランができていない例があるという。

あれこれ書いてあるが、ざっと読んで、この記者は、高齢者の自立というのがまるでわかっていないというのが第一印象である。

私は、だいたい、高齢者の状態、その状態をつくった原因をきちんと調べ、生活課題を把握し、目標を設定して・・・というフレーズがすでに許せない。
それが専門家といわれているケアマネのお仕事だそうだが、まず、高齢者の状態とはなにか、である。

状態など、すぐわかるものではないし、その状態を作った原因をきちんと調べ・・・、だって? そんなことすぐにわかるわけがない。
そういうのを理解できるのは、10年ぐらい福祉事務所でまともにやってきたワーカーぐらいだ。昨日今日の、しかも、経済も住宅も家族の葛藤もわかっていないようなケアマネ(失礼)など、、生活課題などわかるはずがない、と強く言いたい。

それにだ。なによりも問題と感じるのは、利用者主権ではなかったか。それを家族のいいなりなどと、いわれても困る。
適切な情報を提供し、決めるのは本人だ。本人が予想外にも「依存」してしまったのは、SWが十分でなかっただけのことである。それにしても依存だとかいいなりだとか、ケアマネはどんな権限があるというのだ。専門家といっても医師でもないし、弁護士でもない。だいたい治療ではないので、あれこれいわれたくないというのが正直なところ。生活の仕方なんて自由ではないか。なんの権限をもって依存、言いなりなどというのであろうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

厚労省は、ケアマネージャーの資質向上と今後の在り方に関する検討会を設置しているとか、これも、あまりにも稚拙なやり方である。
もともと、ケアマネなど、生活をみる視点を教えられていない。また、在り方検討会など、ケアマネの業界の代表の後押しみたいなものであり、ケアマネ、そのものの意味や存在価値、生活の基本枠組みなどを議論する場ではないし、今のケアマネの関係者、業界の代表者はそのような能力がある人がいるとはいえない。

両親の在宅要介護生活を見ていると、高齢期の生活の実態を把握するためには、未熟なケアマネなどまったくもっていらないと思うのである。見識のある家族のほうがずっとよいプランがたてられるし、地域の実情に精通している当の本人が一番サービス業者の情報をもっていたりする。なによりも、本人および家族は余計なケアマネに状態や原因を調べられたりしたくない。介護保険はすべての高齢者に開かれたシステムのはずである。おせっかいなケアマネの助言などあまり参考にならない。ケアマネは不要である。

それにしても、これを書いている日経の記者。底が浅い。
高齢期の生活支援の基本は、豊かな第三ステージを社会が創出するということ、介護保険はそのツールの一つにすぎないのである。


この記者のプロフィール:山口 聡 1964年京都府生まれ。1987年京都大学文学部卒、日本経済新聞社入社。地方部、長野支局、経済部(厚生労働省を担当)を経て、2004年から生活経済部編集委員。10年間にわたって年金制度など社会保障問題を担当している。

厚生労働省の情報しか知らない、まるで素人のような50才ぐらいの記者。厚労省の発表をなぞるだけでは記者とはいえない。だいたい、この記者の記事に生活の匂いがない。高齢者のリアルな生活を掘り下げてから、高齢者の自立を促す支援とはなにかをもっとまともに考えて書いてほしい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする