3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

日経のミチクサ先生 伊集院氏の回復を祈る

2020-01-31 17:17:32 | 文学ノート
日経で連載されているミチクサ先生(著者:伊集院静)を毎日楽しみに読んでいる。
先日、伊集院氏が重篤な病で入院したとのニュースが入った。
読者としてはミチクサ先生の原稿を最後まで入稿しておいたかとご本人の病状とともに心配してしまう。

今は漱石と子規が登場人物の中心で、これから、子規の結核、漱石の失恋・・・と話が佳境に差し掛かるところなのである。
日経の小説は真面目に読むのは始めてである。
いつもデジタル版で早々に読む。

先日、不眠に陥り何気にipadでミチクサ先生を呼んでいたのだが、午前2時半に更新されていることに気づいた。
朝刊というのは、午前2時半に更新されるんだ。
新聞の関係者というのは大変な仕事だなあと思う。
とかなんとかいいながらミチクサ先生を楽しみにしている読者の一人としては伊集院氏の回復とこの小説が滞りなく連載終了にいたってほしいと願っているのである。
漱石と子規の話であれば1年以上は連載可能であろう。
大塚クスオコの登場まではなんとかお願いしたいものである。

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人は短歌することで救われるのだろうか 加藤英彦氏のすばらしいエッセイ

2019-03-25 15:43:03 | 文学ノート
毎日新聞2019年3月25日 東京朝刊
歌人 加藤英彦氏のエッセイに感動してしまいました。

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生きづらさの内景=加藤英彦

 最近、生きづらさを耳にすることが多い。陰湿ないじめや構造的な雇用の不均衡、性差への偏見や出口の見えない生活不安など、ただ普通に生きたいだけなのに幾つもの壁に阻まれる。


・非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている 萩原慎一郎

 メディアで大きく報じられて話題となった一首である。作者もまた過酷な労働を強いられる非正規雇用であった。中高生のころ執拗(しつよう)ないじめに遭って精神の不調を囲い、社会ではひたすら頭をさげ続ける日々のなかで非正規の友に「負けるな」と呼びかける。それは自らにむけた痛切な声でもあったろう。

 制度の抑圧や社会との軋轢(あつれき)はいつの時代にもあったし、生きづらさなど今に始まった話ではないと人はいうだろうか。そうではない。昔と較(くら)べてどちらが苦しかろうが、当事者には今の絶望的な生きづらさが全てなのだ。圧(お)し潰されそうな咽喉(のど)からもれた吐息はだれにも聞かれてはならない。出口を塞がれて彼はひたすら短歌の創作に救いを求めた。しかし一昨年、歌集の入稿を了(お)えた直後に萩原は自殺する。三十二歳であった。『滑走路』が彼の遺歌集となった。

・螺旋階段ひとりだけ逆方向に駆け下りていくあやまりながら 虫武一俊

 虫武は極度なまでに内向的な青年である。周囲との関係性をむすぶ以前に、数歩後ずさりして背をみせて螺旋階段を駆けおりてしまう。その心の闇は量(はか)りがたい。彼も非正規雇用だが、それは社会の不合理以上に自身の内部深くに棲(す)みついた生きがたさと私には映る。歌集『羽虫群』はそんな苦悩に満ちているが、彼はいま伴侶を得てゆっくりとその淵から脱しつつある。

 自らの内部に芽ぶいた生きがたさや、社会という外界が強いてくる生きづらさの前に文学は非力である。それでも外気に触れるわずかな気孔程度にはなるだろう。むしろ、萩原や虫武の短歌に救われた人は多い。病んでいたのは彼らではない。社会が私たちが病んでいるのだ。(かとう・ひでひこ=歌人)

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萩原慎一郎氏の「滑走路」という歌集、手元にある。
御三家の一つの私立中学にみごと合格したところまでは良かったのに、入学してからいじめにあって精神を病み、人生が傾いていく。
その中で歌う事が彼のよりどころであった。それは確かだ。傾いた人生を歌い、すばらしい作品を次々と生み出した。初の歌集が出版されることとなる。しかし、歌集の原稿を入稿したあと、自死するのである。なんともやるせない結末なのである。彼の成功を祈っていたのに自死だなんて、それはないだろう。なぜなんだ、とみな思っている。自死という選択に納得がいかない。

彼の場合、歌うことで救われたとも言えず、歌は自死へのひたすらな歩みだったとしたらどうなのだろう。歌うことは生きることにつなぐものでなければならないというわけでもない。だから、歌のその先に自死があってもそれは仕方のないことなのだろうか。
それでも、歌うことは生きることである、今の私を表現する手段と思いたい。
「自らの内部に芽ぶいた生きがたさや、社会という外界が強いてくる生きづらさの前に文学は非力である。」
だけど、わずかな気孔程度であっても、文学は最後までその息苦しさから逃れるための最後の手段であってほしいと思うのである。

追記
中学入学時のいじめ、なんとかならなかったのだろうか。
無策のこの中学の対応は本当に問題である。いじめた連中はしゃーしゃーと出世をして生きているのだろうね。















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大岡信を送る谷川俊太郎の詩に涙する  波音で 君を送りたい

2017-04-12 17:45:03 | 文学ノート



 4月5日に86歳で亡くなった詩人・評論家の大岡信(まこと)さんとの親交が、約60年に及ぶ詩人の谷川俊太郎さん(85)。「一人で死を悼みたい」と沈黙を守ってきたが、朝日新聞に書き下ろしの追悼の詩を寄せた。

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本当はヒトの言葉で君を送りたくない

砂浜に寄せては返す波音で

風にそよぐ木々の葉音で

君を送りたい

 

声と文字に別れを告げて

君はあっさりと意味を後にした

朝露と腐葉土と星々と月の

ヒトの言葉よりも豊かな無言

 

今朝のこの青空の下で君を送ろう

散り初(そ)める桜の花びらとともに

褪(あ)せない少女の記憶とともに

 

君を春の寝床に誘(いざな)うものに

その名を知らずに

安んじて君を託そう

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こんな時にも文学はいつもそこにあって、私たちの心を揺さぶる。
時代が揺らいでいても文学は文学なのだ。
私たちは、文学を大切にしなければならない。
戦争を始めてはいけないのだ。
涙がこぼれそう。


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100分de名著 中原中也 穂村弘出演

2017-01-26 14:18:07 | 文学ノート
ああ、そうだった。
中原中也がいたよね。
今、NHKEテレでやっている。
中原中也。

穂村弘が、詩人の原型っていっていた。
中原中也に一度はみんなかぶれる。
高校ぐらいのとき、ダダイスト中也に。

筆者も御多分に漏れず、一度は虜に。

高校時代、自室を締め切り、中也をそっと朗読してみたりしていた。
録音してみたりもしていた。

だれもが一度はあこがれる中也。

100分de 名著、ひさしぶりにまじめに見た。
録画していたのだが、録画だとだいたい飛ばしたりするものであるが、まじにみて、しかも、3回も繰り返してみてしまった。
大田治子は真面目に解説していて敬服、穂村弘が面白すぎる。

で、穂村のツイッター読んだら、抱腹絶倒だった。

歌人であり詩人であり、童話作家の穂村。

詩人が歌人になったと思われる穗村。

ほこりをかぶった我が家の書棚の奥に中也詩集、そのとなりは立原道造、そのとなりは寺山修司。
吉原幸子がならび、日本文学アルバム(新潮社)が並ぶ。
そして、アポリネール、ランボーが見える。

わが若かりし頃の思い出。
だんだん思い出してきた。

高校時代、詩をつくっていたその人は、ヤサ男であった。中也の読みすぎみたいな奴。
100円でホッチキス止めの詩集を学園祭で売っていた。

階段の踊り場で、その人は故意に定期を落として、あ、落ちましたよって言ってあげたが、それが、のちに下心があった、ということがわかって、ふん、月並みで軟弱な奴と以来目を合わせることさえしなくなった。という小さな事件を思い出した。

私も詩を書いていた。
朗読が好きだった。
詩だけでなく、鴎外や漱石なんかも朗読してみたりしていた。

休日の夕方、母が夕飯の支度をしていた。
父は床屋にいっていなかった。
私は自室に閉じこもり、中也を朗読し、バッハだっただろうか、ギターでバッハを弾いていたものだったように思うのだが、それをBGMに録音をして楽しんでいた。
ギターの奏でるバッハがもの悲しさを一層引き立たせていたように思う。

青春の日々ははるか遠い。
久しぶりに中也の詩に触れ、穂村の話を聞いて、ひどく懐かしく、ひとり深夜のリビングで思わず不覚にも目が潤んでしまった。

社会的責任を果たすべく、そして、女性の自立、と懸命に働いてきて、それには後悔はしていないけれど、そう、中也のような芸術を中心とした生活には程遠い毎日。

これでよいはずがない、と思い、中也詩集を開く。
中也の悲しげな瞳が、もう戻れないと言っている。

人生とははかないものである。後悔の塊である。
どちらも選べない引き裂かれる。






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NHK 漱石の三四郎を深読みする

2016-12-11 13:45:48 | 文学ノート
漱石没後100年記念企画なのか、NHKで三四郎を深読みしていた。
結構楽しめた。
場所和敬塾というのが謎だったし、小倉、島田、猪瀬、朝吹、それから、女優の鈴木杏

なんで女優いつもいれんだ?と思ったが鈴木杏はきらいではないので、まあいいか。
それにしても、帝大文系エリートの三四郎を語るには物足りない作家たちであった。
悪くないが、なんでまた、早稲田や外語なんだ?朝吹は慶応だったね。
よってたかってあれこれだべっていた。もっとスマートな作家を並べるわけにはいかなかったのだろうか?

美禰子の婚活という視点でみると確かに楽しめると思う三四郎。

雷鳥をめぐって、物理学者寺田虎彦や画家黒田清輝が登場。

最後は東大法学部に取られてしまって終わり。
みんな失恋。

という結末はわかる。

物理学者が好きだったかも。
でも、なかなか学者として一人前になりそうもないし、ブラコンの妹もいて邪魔するし、
芸大出の画家もいいけど・・・・。自由奔放すぎて安定性というところでちと不安。

三四郎はかわいいし将来有望かもしれないが、まだ、子供。
ということで、美禰子は待ち切れずに、親の進める東大法学部と結婚することにするのである。

美禰子は大塚クスオコとも重なるのは私だけか。

大塚クスオコ、漱石の思い人。これがかなりの美人であるが、
友人の文系男子、東大の教授になった友人に取られてしまった。
永遠の恋人、クスオコ。それから、門なんか読むとクスオコとの関係を発展させているように思え、漱石の妄想が広がっているように思える。

決断できない男の漱石は三四郎そのものか?
本当にいる周りの人間をいろいろミックスして登場させているところが面白い。

迷った羊、自律的に生きようとおもう女性は1000人に一人ぐらいはいるのだろう。
999匹の羊は羊飼いの言いなりになってみんなと同じ行動をとるが、1匹はそうではなく、自分の生き方を貫こうとする。が、社会がそれをゆるさないから、それに自らのジェンダーバイアスもあり、迷い子になってしまうってことなのかも。

野々宮が美禰子に送った大きなリボン、本郷3丁目の「かねやす」で買ったのだろうか?
本郷あたりを歩くと漱石の足音が聞こえてきそうである。
12月9日は漱石の命日。没後100年に改めて漱石の足跡をたどりたくなる。



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