3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

「哲学の木」の伐採に胸がいたむ、無能すぎる

2016-02-26 12:14:02 | 現代社会論
美瑛にある「哲学の木」、人気のスポットだったそうなのだが、それが、伐採されてしまったとのこと。
胸が痛む。この木のことは、今回の伐採の記事で初めて知ったのであるが、写真家などにとっては有名なスポットだったそうだ。

美しい美瑛の景色を代表する木だった。
木の所有者は苦渋の選択で伐採を決めたという。

木は私有地にあり、煮るなり焼くなりは、基本的には木の所有者の思いのままである。

しかし、景観はどうか。
景観は私有ではない。
景観を考えれば伐採はなかっただろう。

写真家が私有地にはいって写真をとりまくり、で、田畑がむちゃくちゃになってしまって困って、万策尽きたのだろうが、
それでもなお、伐採しないで別の方法はなかったのかと思うのである。

木を切るのは簡単である。
半日で終わる。
しかし、その木によって形成された景色、その文化的な価値は、膨大なものであろう。それをいとも簡単に伐採するとは、苦渋の選択をした木の所有者には申し訳ないが、その選択を支持できない。

土地所有者が困ったから伐採する、そんなに簡単ではないはずである。

個人の所有物なのか、景色は。
違う。

一本の木、自分の庭にある木、でも、それは私有財産を超えた価値を持っている。

簡単に伐採するのはいかがなものか。

知恵を絞って、みなでこの木の維持保存のためにもっとやれることがあったのだろうに。

本当に残念である。

自治体でも文化庁でも、この木とその周辺の景色を文化財として、保護するということもあり得たのではないか。
残念でならないのである。

自然に恵まれた北海道の人はたった一本の木と思うかもしれないが、都会の人間にとっては、素敵な景色がいとも簡単に切り刻まれるのは見てられない、身を切るような痛みを感じる。

とにかく残念でならないのである。

勝手に木を切ってはならないという法律を作ってほしいのである。
勝手に木を切って景観を汚すとはコップ21に反するのである。
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国立大学でなぜ卒業式に君が代をうたわなければならないのだろうか

2016-02-22 10:41:50 | 現代社会論
2016.2.22

馳浩文部科学相は21日、金沢市で記者団に、岐阜大学の森脇久隆学長が卒業式などで国歌「君が代」を斉唱しない方針を示したことについて、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べた。

 卒業式や入学式での国歌斉唱は昨年6月、当時の下村博文・文科相が全国の国立大学長らに要請していた。岐阜大は前身の旧制学校の校歌を式で斉唱しており、森脇学長は今月17日の定例記者会見で、これまで通りの方針で臨む考えを示していた。

 馳氏は21日、金沢市内での講演で「岐阜大学の学長が国歌を斉唱しないと記者会見した」と指摘。その後、記者団に「(下村氏の要請は)大学の自主的な活動についてああしろ、こうしろと言うものでもない。学長が(斉唱しないことに)言及することはちょっと恥ずかしい」と語った。


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国立大学だけでなく、私立大学も多くの税金が投入されているので、国立大学ばかりが標的になるのはどうもおかしいと思うのだが。とにかく国立大学の運営には国費が投入されている。だからといってそれが君が代をうたうかうたわなかに影響するのだろうか。君が代をうたわせるために国費を投入しれいるわけではあるまい。

大学は高等教育機関である。世の中の文化、科学技術、政治経済、あらゆる分野の礎を築くのが仕事である。
国費が投入されるのは当たり前である。未来をになう人材を作るのだから、昨日今日結果がでるわけではないし、教育とはそういうものである。

国歌をうたうかうたわないかとはまったく関係ないと思われる。

そんなこといったら、大学の自治は奪われる。
大学自治を奪うやり方、それは、北朝鮮や中国ならいざ知らず、成熟した民主的な国家である我が国にはふさわしくない。

教育、文化には金は出すが中身には口をださない、それが、文化国家のあるべき姿である。

文科省があれこれ言うのはおかしいのである。
大臣が岐阜大学の学長の発言に「恥ずかしい」といっているらしいが、そういう大臣こそ大学の自治を知らないようで恥ずかしいのではないかと思ってしまう。

戦前期の治安維持法の時代に逆戻りするつもりなのか?
それだけは避けたいと思うのである。
強権的に国歌をうたわせる、そいういう文科省の姿勢は、アカデミックな世界には禁じ手である。
ますます、反発を食らうのである。
ますます、岐阜大学の学長を応援したくなるのである。
岐大につづく国立大学はないのであろうか。
国立大学の学長は、がんばってほしいのである。
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介護職員の給料を倍増せよ

2016-02-21 11:46:26 | 現代社会論
介護職員の給料を倍増する。
そして求人難を解消する。
介護の仕事の価値を高めよう。

多くの人がこの仕事にかかわりその意義を認めよう。
そうすることによって我々の老後の安心は作られるだろう。

人生の最期によい介護が得られること、それが成熟した社会のあるべき姿だろう。
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高齢者施設での虐待はなぜ増えるのかー介護の仕事は3Kなんかじゃないのに

2016-02-20 19:25:54 | 現代社会論
川崎市の介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入所者の男女3人が転落死した事件
殺人容疑で逮捕された元職員、今井隼人容疑者(23)はストレスを募らせていたとのこと。

まず、構造的な人手不足である。
高齢者介護施設、保健施設もそうだが、介護保険の介護報酬でやっている。
この介護報酬の額が減額されているのである。
だから、どこの施設も人件費を削減せざるを得ない、という。

介護保険は社会保険であるから、社会保障の費用でやっている。
我々から徴収した保険料に税金を投入しそれに利用料を加えてやっているのである。
しかし、このところ社会保障費用は抑制されている。
消費税をもっと上げない限り、または、所得税や贈与税など、とにかく税金をあげない限り、介護報酬削減、抑制の傾向は続くであろう。
で、介護報酬の削減は低賃金につながっているのである。
低賃金なので人が集まらない。で、介護人材は枯渇し、この仕事の意義と重要性を理解しがんばって働く人の重労働はますます苛烈になる。
負のスパイラルである。

介護現場では、少ない人数でやりくりせざるをえない。慢性的な人手不足。

人手が足りないので、いろいろなところに求人広告を出すが、なかなか集まらない。
介護は3Kなどといってあまり尊敬されない仕事としてイメージされているので、ますます、人が集まらない。
とにかく来てくれた人はありがたい。未経験でも3時間だけでもなんでもいいから働いてくれということになる。

しかしだ。
この介護という仕事ほど高度な仕事はないと思えるほど専門性に富むものである。

忍耐強くなくてはならない。
また、認知症や高齢者特有の病気についての知識が医者並みに必要である。
さらに、ある程度の経験がなければ力仕事は別としてろくな介護はできないのである。
さらに、高齢者は症状が急変することもあるので、とっさの判断、正しい危機管理ができるものでなければならない。
それにコミュニケーション能力がものすごく高くなければならない。無言でやれない仕事である。工場じゃないからね。
365日、24時間の仕事である。人の暮らしには切れ目がないのだから。

スーパーやコンビニの店員の2倍は給料を払うべきである。

公立学校の教師ぐらいは給料が出ていいのである。
また、資格だけでなく、現任研修の機会が豊富になければならない。
長時間労働はさせてはいけない。ストレスフルな仕事なので、ほっておけば虐待や殺人も起きる可能性はいつでもあるのである。

このまま人手不足が続けば、介護の仕事は盗癖があるとか殺人鬼になりそうな人格に問題ある人ばかりが集まってきそうで怖い。

そういうことは知らずにやれ管理体制がどうのとかいっているが、それだけではないことを我々は知るべきである。

そういっているワイドショーのコメンテーターも今からすぐ近くの介護老人施設に手伝いに行くとか、介護報酬アップのために政府に働きかけるとかしたほうがいいのである。
自分は部外者だなんて顔していても要介護になったら介護労働者のお世話にならなくてはならないのである。
質が高く暖かい人材をたくさん養成しておく必要があるのに、そういうことを真剣に考えることなく今日まで放置し続けてきたそのツケが今まさに突き付けられているのである。

介護は3Kの仕事なんかじゃないのである。
とても崇高な仕事であって安心できる高齢社会の基礎を護る仕事なのである。

そういう仕事のことを真剣に考えなければならないのである。

老いも若きも今すぐ施設に行って、掃除でもガラスふきでも話し相手でも電話番でもなんでもやって
介護労働者の労働軽減のために一役買ってほしいのである。

私の知っている介護労働者の人たちは本当に気持ちの良い優秀な人たちである。
彼ら彼女らの仕事ぶりに報いるために心底応援したいと思っているのである。

とにかく、介護老人施設の職員を孤立させてはいけない。
社会がこの仕事の価値を再評価し、よい人材養成のために後押しをする雰囲気をつくらなければならない。

自宅でのんびり、奥様ランチしている専業主婦よ、介護現場をささえるためになにかやるべきなのである。


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雨の土曜日に老いを考える

2016-02-20 17:47:56 | 日記
今日は雨である。
朝は少し太陽が出ていたが、午後から暗雲たちこめ、雨になった。
バルコニーに雨が降り、遠くの家々が雨に煙る。
美しい景色である。
いつまでも雨の景色を楽しみたい気分である。

先週は学恩のある先生の偲ぶ会だった。
最後の何年かをご一緒した。

親しくさせていただいた先生がだんだんいなくなり、自分の番がやってくるのかなあとぼんやり思う。

若い時分は、年を重ねることが想像できなかった。
中高年期の自分を想像することができなかった。

子どものころ祖父母や両親の暮らしぶりを見ていたが、彼ら彼女らの心のうちは本当はわからなかったのだなあと今、自分がその年になってつくづく思うのである。
ただの年寄りと思ってたが、本当は若者と少しも変わらずいろいろな感情を抱きながら暮らしていたのだということである。

見かけは老けるが精神は様々な人生経験を経て、その人なりの熟成を果たすものである。若者に負けない瑞々しい感性を持ち続けている。
年を重ねるということは結構素晴らしい経験なのではないかと思えてくる。

雨の土曜日になんとなく、そんなことを考えているのである。

しかし、世の中は年齢が若いというだけでちやほやするところがあり、むかつくのである。

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