3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2020.11.02 バルコニー便り with コロナの時代はまだまだ続くらしい

2020-11-02 12:10:08 | 日記
気がつけば11月である。
机の上の2ヶ月カレンダーは最後のページとなり、今年ももう終わりが見えてきた。
今年は忙しく、月ごとに仕事の締め切りが有り、気がつけば結構いろいろやったことになって、少しうれしい。
春から自粛生活で在宅時間が長くなり、はじめは毎日プールに行っていたが、感染リスクがあるかもしれないということでやめてしまった。
で、毎朝、ウオーキングすることにした。
もう半年続いている。
早朝は早朝の文化というか人的ネットワークがある。
毎朝お会いするご夫婦とか、ランニングしている大学の偉い先生らしき人とか、犬の散歩の人とか・・。結構楽しく知り合いとまで行かないけれど、ああ、今朝は少し遅いですね、とか、互いに目で挨拶したりしている。
住いの周りは坂が多いので結構運動になる。
長いだらだらした坂、趣のある坂もあり、最初は長くて途方にくれたが、今はすたすたと登れるようになり、いつの間にか健脚になったようである。
このところ会議はすべてWEBなので対面式会議などめったにない。
たまにリアル会議があり久しぶりに人にあうとその人がぽっちゃりしていたりすると、おかしくなる。
先方は、おや、少しお痩せになりましたか?というようなことを言ったりするので、ええ、ウオーキングを少しやりまして・・・。といいながら、いつまでも太っていると思うなよ、心で言ってみたりして。
初めて会う人なのにWEB会議だとどうもその人がどんな人かわからない。背が高いのかそれとも小さいのかもわからない。顔のしわなんかもわからないので年齢も不明である。
ただ、書斎から会議に参加するような時はその人の本の並べ方とか、本箱に囲まれている感じとか、好きな絵がかかっていたり、壁の感じや、たまに広い庭が背景になっていたり、その人となりがわかるというもの。
CNNなんかみていてもそれぞれが私ってこんなひとよ、とでもいうように調度品とか本箱とか、その中の本なんかも何気なく伝えたいんだなあ、というような背表紙なんかがみえるとそれなりに面白いものである。
リアルじゃなくてもWEB会議は一つのパフォーマンスなのである。

毎日、早朝ウオーキングとWEB会議に明け暮れているが、この調子で2020年も終わり新しい年がはじまっても変わらないと思われる。
コンサートも行けず、歌のレッスンも思うように行けず、不満がたまるけれど、マスクと手洗いと社会的距離を保っていればなんとかなりそうなので、しばらくはこの生活を継続するしかないのだろうね。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本学術会議の6名任命拒否について 菅総理は説明をきちんとしなければなりません。

2020-10-11 10:30:34 | 日記
このところ日本学術会議の6名の先生方について総理大臣が任命を拒否したという話で持ちきりである。
いろいろな人がいろいろな事を勝手に発言していてなんとも日本のメディアも一般市民もだれもかれもテキトーになったのだと改めて思う。
日本学術会議と学士院の違いもわからない人もいるようである。
世の中に向かって発言するなら、それなりの立場からであればなおさら事前にかなり調査をして発言すべきなのに、何も自分では調べもしないでテキトーに者を言う人が多すぎてそれがまた大衆受けするようなものであったりすると手に負えないほどばかばかしい論調ができあがっていたりするので、どうなってしまったのかと思う。

さらに別の中国の百人計画だかの話にいつもまにかもっていってしまってそっちに6名任命拒否の問題の論点をいつのまにか移そうというようなやからもいて、何を言っているのかとおもう。
6名の任命拒否の理由を明らかにすればよいだけのこと。それでこの問題は終了するのである。しかし、それができないらしく、理由をいうととんでもない事を日本政府はやっていることになって世界のアカデミーから批判を食らう事は確かのようで、それができないということなのだとおもうのだが、とにかく理由を明らかにぜずに任命しません、というのはいくらなんでも小学生相手でも通用しないでしょう。
学級委員を子どもたちが投票で決めたのに、その子ではだめです、といって担任の先生が没にしたとしたら子どもたちはなぜと聞くだろう。理由もいわずに没にしたら子どもだって怒るだろう。

とにかく菅総理は総理なのだから、すべての国民が納得いくような説明をして6名を任命拒否した理由を述べなければならない。
先日、菅総理はこの名簿を見ていない、というような事を記者会見でのべたとのことだが、これが本当なら総理は能無しの無能力者としてこれまた糾弾されるべき問題になるだろう。
6名拒否を知っていたのか?知らなかったのか?
それが問題である。
知らないではすまされないし、知っていたのであれば理由をいわなければならないし、どっちに転んでも菅は結局総理の器じゃないってことを国民にさらす事になる。
こんな総理についていても利はないと思うまともな自民党議員は離れていくとおもうがそうはならないところが日本の病理であり、そこが最大の問題なのである
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相が退任して菅官房長官が -大丈夫か日本

2020-09-13 16:10:02 | 日記
先日、病気を理由に安倍首相が首相職を辞することになった。
で、テレビはすでに後任として菅官房長官をというトーン一色である。
まだ、自民党内でも決定していないのにマスコミはもう菅だという。
なんという違和感。

コロナ対策が後手後手に周り、布マスク2枚、PCR検査もろくにできず、Stay Homeの動画は自宅でくつろぐ姿の安倍首相に国民が怒髪天になり、にっちもさっちもいかなくなり、首相在任期間、佐藤首相の最長を超えたんだからもういいといわんばかりで退任を発表。本当にいい加減だ。
無能なコロナ対策への国民の批判をかわそうと、そしてかわいそうな首相というイメージをつくりたかったのだろう。ユーミンがお疲れ安倍首相涙が出る、というような発言をして気の毒な安倍首相演出に一役買っていた。事前の打ち合わせどおりなんだろうね。
ユーミンというのは安倍友らしい。安倍、電通、ユーミン、というような広告会社と芸能人をつかって世論作りをするなんて汚い手である。
これで国民は、とくに若者たちはころっとだまされて、安倍が病気で退任はかわいそう、という世論ができあがった。
政治学者がユーミンのこの言動について批判的につぶやいたところ、その内容が過激であったためにこの政治学者に批判が集中。

安倍首相かわいそう、安倍の変わりは誰だ、菅でしょう、というラインがいつのまにかできあがった。
間髪をいれず、土曜日だったかの番組で石坂浩二が次は菅さんでしょう、発言、に私は芸能人を巻き込んだマスコミを動員させたできすぎたシナリオに憤った。石坂浩二なんて・・・・・・と思った。
後継者は自民党でよいかもしれないが手続きがむちゃくちゃである。
こんなやり方は恥ずかしいばかりである。
で、その後、茶番劇のような総裁候補選びショーがはじまった。
石破、岸田、菅がテレビに出てきて討論のまねごとのようなことをやっている。
かわいそうなのは、次は君といわれていた岸田である。
広島では河村アンリによって自分の派閥の何とかと言う国会議員が落選し影響力がどんどん低下した。そもそも知名度はたかくはなかったがなんか気の毒である。
それにしてもテレビ討論をみていて次期総裁の菅の歯切れの悪さに???日本国中、落胆した人も多いと思うのだ。自分のほうが話ができるなあとか、何を言っているのかわからないとか、中身がないとか勉強不足とかそもそも頭が悪いんじゃないか、とか、心底、菅を推してやろうなんて思う人は少なかったのかもしれないというのが率直な気持ちである。自民党員は違うだろうが。

コロナはその国の本当の政治力、医療、IT力などについて比較するバロメータになりつつある。
こんな茶番劇の総裁選をやっているようではすくなくとも政治力としては最低なんじゃないかと、大丈夫か日本と心底心配してしまうのである。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナとともに生きる時代に 2 無策の政府に憤る

2020-08-21 15:23:52 | 新型コロナウイルス
WEB会議に明け暮れていたら、立秋をすぎお盆も過ぎ、暑いのだがそれでも日は短くなっているようである。少し前はリビングの随分なかの方まで日が差し込んでいたが、短くなっている。連日、うだるような暑さで日本列島40度越えである。それでも確実に季節はかわっているのだ。
アジサイがきれいに咲いていた梅雨の頃はとっくの昔で、桔梗が咲き、今は百日紅。
新型コロナウイルスが世界で取り組むべきウイルスであると認識されてから、半年以上たった。マスクマスクテストテストということでみな戦々恐々としている。こんなときには利他主義で、とJacques Attaliは言う。
こんなときだからこそ、福祉国家がまた求められているように思う。
自由主義で自己中心で失敗は自己責任で、なんでもかんでも自力がよいというような文化、思想がまかり通っていたが、そもそもそんなことは無理なのである。
われわれはもとより弱い存在なのであり、医療や保健や福祉、教育とか住宅とかそういうものは自力で得られる人ばかりではないのだから、支えあいの制度を構築すべきなのであり、それが戦後もとめてきた国家的な枠組みであった。
にもかかわらず、あるときから規制を緩和することがよくて、正規社員より非正規で自由な働き方ができるほうが良いというようなことが流布され、その気になっていたらリーマンショックがやってきてどん底を味わった人も多いのではないだろうか。
第二次世界大戦後の混乱期に近い低成長の時代である。コロナの時代というのはそういう経済的困難な時代なのである。コロナの時代にふさわしい産業に構造転換するべきであることは百も承知であるが、それでも社会から落伍していく人たちもいるはずで、そういう人びとにもう一度、チャンスを得られるようにするためにも社会保障や社会福祉の支援は大切だと思うのである。だれもがうけられる医療、保健所の機能を増大させ、子どもの支援など手厚い福祉サービスこそ今必要である。そのための財源はどこから調達するか?
公務員や少し大目の年金を受給している高齢者や大企業、そのサラリーマンたちはけっこうゆとりのある生活をしているので、そこから消費税でも所得税でも法人税でも徴収して税収を確保していくべきだろう。なんらかの対策をとらないととんでもないことになる。
だれも気がつかないわけではないだろうに。なぜやらないのだろうか。
わかっているけどやれないのだろうか。政治が動いていないのは不満である。
夏休みなどとっている暇はない。
政治家は成果主義の最たるものである。身を粉にして世のため人のために尽くすのが政治家なのになにをぼやぼやしているのだろうか。
無策の政府にいらいらがつのる今日この頃なのである。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナとともに生きる時代に 1

2020-08-08 12:39:57 | 新型コロナウイルス
コロナというウイルス抜きにものを語ることは許されない時代になった。先日WHOのあの有名なテドロス氏がこのウイルスの影響はこれから数十年続くだろうと述べていた。5~6年ではなく数十年とは。
もう私が生きている間はコロナと闘いともに生きる、だれもがそういう人生を送るということになったのだ。
どちらにしてもこれまでの政治経済社会文化的枠組みは変えなければならないだろう。ウイルスは時期を選ばす国境を越え、社会的階層もなんのそのである。
さらに厄介なのは社会的弱者に強くウイルスの影響が反映されることであり、また、その影響は階層を超えて拡大するということであるので、自分だけ助かればよいという自国ファーストとか自分の家だけ助かるとかそういうケチな感覚では収まらないということである。
自分だけワクチンをうって助かっても、多くの人がウイルスに感染し、重症化すれば社会は回らないのであり、エッセンシャルな部分の仕事はだれからがやらなければならず、誰かがやってくれているから大丈夫という社会ではなくなるということなのである。
だから、国を超えて情報を共有し資源を互いに調達しあったり、励ましあったりしながらなんとか上手くやっていく手段を人類そのものが学ばなければならない。
総裁のイスにこだわって感染症対策をまともにやれないなどというのは、致命的であり、そんな知能指数が低いものは政治にかかわることがこれからは許されない時代になる。そういう政治家は要らなくなるだろう。
自国民だけでなく人類そのものの未来を見据えて今何をすべきか何に税を投入すべきか、を瞬時に判断し説得力のある説明と実行力が政治家には求められる。そういう政治のあり方を心から指示するような経済界にならねばならぬ。国民も同調圧力や忖度政治に慣れている場合ではない。危機なのだ。のんべんだらりとワイドショーを見ている場合ではないのである。
女たちもやれ専業主婦だの三歳児神話などいってないで、どんどん社会のために働く、男も女も感染症拡大で必要な仕事が新しく生まれているのだからそこで能力を発揮すべきなのである。保健医療福祉分野などは多くの人材を必要としているのだから、そういうところに高い賃金を払うような社会のあり方が求められている。少子高齢社会で労働力は不足している、コロナショックで経済は低成長になる、だが、社会的に必要な仕事はあり続けるのだから悲観することはない。労働の流動性をたかめ、性や年齢や障害などで差別せず、多くの人が社会に働きに出ればよいのである。

だれかが多くの富を独り占めするようなこれまでの社会の有り方はゆがんでいたのだ。ウイルスの襲来によって人類はもっと団結するように転換を迫られているのである。我々は在宅ワークに切り替え、長時間労働長時間通勤をやめ、あまった時間は地域のために費やすようにしてエッセンシャルワーカーの仕事の負荷を少しでも減らせるように働くべきなのである。
そういうスタイルこそが新しい日常なのではないだろうか。
これからは自分の利益を追求するのではなく、ウイルスに感染しないように感染した人を気遣い元気な人は静かに社会のために働く、そういう時代がコロナの時代なのである。そういう時代がきたということを我々は知るべきなのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする