3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

ほっかぶり社会における生活保護制度―性善説に立ち続けられるのか

2012-05-31 10:43:57 | 現代社会論

毎日新聞 2012年05月29日 東京朝刊によれば、河本準一さんの母の生活保護問題 対策全国会議などが、冷静な報道と議論求める声明を発表したとのこと。




 人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんが、母親が受給していた生活保護費の一部返納を表明した問題に絡み、生活保護問題対策全国会議(代表幹事・尾藤廣喜弁護士)と全国生活保護裁判連絡会(小川政亮代表委員)は28日、冷静な報道と議論を求める緊急声明を出した。
 声明は、小宮山洋子厚生労働相が生活保護基準の引き下げや扶養義務の厳格な適用に向けた法改正を検討する考えを示したことを批判。「雇用や他の社会保障制度の現状を改めることなく、生活保護制度のみを切り縮めれば、餓死者・自殺者が続発し、社会不安を招く」とし、制度への理解を欠いた議論や安易なバッシングを戒めた。


私は、基本的にこの貧困が激増する今日の日本において、生活保護制度は最後のセイフティネットの根幹としてその重要性を十分わかっている。さらに、制度をきびしくすれば、反動で多くの本来受給すべき人々まで切り捨てることになるという危険性がある制度であることもわかる。
全国会議の人権派弁護士の活動や戦後、ずっと生活保護をめぐって人間裁判を闘ってきた、そして今も闘い続けている生活権保障のわが国を代表する学者の小川政亮先生は心から尊敬している。が、しかし、最近の生活保護の不正受給の実態をみると、戦後の絶対的貧困から抜け出そうと個人も社会もみな必死になっていた時代における生活保護制度のあり方とどうも生活意識が違うのではないかと思うのである。

生活保護制度に関する調査研究はもっともっと生活意識の劣化、ほっかぶり社会における生活保護の実態を明らかにしなければならないのではないか、従来の性善説、福祉の精神のもとづく生活保護制度の考え方では収まらない、部分にこそメスを入れる必要があるのではないかと思う。

貧困はみえにくくなっているが、精神の荒廃が絡み、また、労働市場の矛盾、つまり、最低賃金のほうが生活保護より低いという矛盾、福祉の罠をどうにかしなければならないなどなど、あまりに多くの課題があって、理念や人権を振りかざしただけでは到底無理になっているのだ。

さらに重要なことは、生活保護の相談窓口には専門的なソーシャルワーカーが必ずしも配置されていないということなのである。戦後の生活保護行政はある意味で素人の窓口職員によって、良心的な職員のボランティア精神によって担われてきた。行政職の事務職員が配置転換でやってきてど素人が対応しているのが実態。福祉職など専門的訓練を受けてきた職員を採用している自治体はわずかだ。

貧困とはなにか、なにもわからず、わずかな研修、保護費の計算方法のみぐらいしかわからずに相談窓口にすわっているのが実態だ。専門家は少ないのだ。

社会保障学者や弁護士、良心的なソーシャルワーカーのみなさん、生活保護の負の部分にぜひメスをいれてほしい。




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ディースカウ、畑中良輔、そして吉田秀和が逝き、戦前を引き継ぐ文化は終焉した:巨匠を追悼する 

2012-05-28 10:30:25 | 音楽ノート



吉田秀和の訃報を読んだ。22日になくなったそうだ。NHKFMの番組、最後に聞いたのはいつだったか。忙しさに紛れ聞きそびれることも多かったことを後悔している。
いつでも元気で永遠に続くと思っていたが、それはなかったのだ。
吉田秀和氏がなにをとりあげどう解説するか、多くの音楽ファンは常に注目していたから、羅針盤が失われたようなものだ。日本の知の巨匠を失い、われわれは路頭に迷ってしまいそうだ。
18日のディースカウの死、あとを追うように22日に亡くなったのだなあ。


そして、24日には畑中良輔が亡くなった。畑中先生といえば、声楽の世界で知らないものはいないくらい有名な先生だった。
奥様の更予先生も声楽の世界で知らないものはいないくらいの存在。全音のイタリア歌曲集、ドイツ歌曲集、コンコーネの編はすべて畑中良輔編となっている。

こうやって、巨匠が次々と亡くなっていくと本当に寂しい。
巨匠たちの影響力は多大だったから、いつまでも元気で存在し続けると若い世代は信じ込んでいるところがあったが、もう頼ることはできなくなった。
戦前期の奥深い芸術文化を伝えることができる巨匠を失い、いよいよ軽薄短小なアキバ文化は興隆し、クラシックは衰退していくのかと思うと、やるせない。


Dietrich Fischer-Dieskau、1925(大正14)年5月28日 - 2012年5月18日没

吉田 秀和、1913年(大正2年)9月23日 - 2012年5月22日没

畑中 良輔、1922(大正12)年2月12日 - 2012年5月24日没

巨匠の連鎖する死はこれで終わりにしてもらいたい。

戦前期の重厚な芸術文化の流れをどう継承し、戦後に引き継ぎ、視聴率や皮相的なカルチャーに凌駕されることなく、新しい形を作っていくか、巨匠を失った後、残された世代にとって、実はこれからが正念場なのかもしれない。

吉田秀和を悼み、今日は、2011.10.1の名曲のたのしみ、の録音、ラフマニノフについて語っている番組を聴いて過ごそう。
そのときは、まだまだ元気なお声で、ラフマニノフについて語っていたのに、人の命は儚いものである。
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生活保護の矛盾ー受給者208万人時代における不正受給

2012-05-27 09:32:55 | 現代社会論
芸能人の生活保護の不正受給をめぐって、にわかに生活保護制度が脚光を浴びている。


高額な収入が息子にありながら、母親が生活保護を受給しつづけていたという週刊誌の記事に社会が反応した。

そもそも生活保護の受給者が208万人を超え、それは昭和27年の水準であることはすでにこのブログでも述べた。
見えない貧困の姿、潜在化する貧困は把握しがたい。
生活保護を知らず、餓死してしまうものもいる。
また、請求してもきびしく跳ね除けられるような窓口対応に辟易し、死んでも生活保護なんかもらうものか、もう二度と福祉事務所の敷居はまたぐまいと決心するひともいるだろう。

反対にだまっていればわからない、もらわなきゃそんそん、というような不届きなやからもいるのだろう。

必要なところにとどかない生活保護、補足率10%程度ともいわれている。
矛盾に満ちた制度、生活保護制度。

今回の芸能人の不正受給の問題で、この制度に光があたることは大変良いと思う。
もしかしたら、社会保障と税の一体改革で生活保護にどうしてもメスをいれなければと考えている政府の回し者が、女性セブンに芸能人の記事を書かせたのかと勘ぐりたくなるようなグッドタイミングである。

福祉事務所は地域ごとに窓口対応が異なり、全国一律といいながらけっこう違いがある。
また、暴力団勢力などが強いところでは、不正がまかり通ることもある。窓口の職員だって命が惜しいので、自分のお金ではないし、支給してしまってもだれも困らないしと思うこともありそうだ。
ちょっとまえにさいたま市だったか、警察官が常駐する福祉事務所が窓口があったが、けっこう良い手かとも思う。

ずいぶん前に、福祉事務所のワーカーと話す機会があった。そのとき、窓口の職員は次のように話した。

いつも怖い体験をしていますよ。窓口に日本刀なんかちらつかせて生活保護だせと脅される。危ないから警察に電話するんですが、警察だってこわいからすぐにこないんですよ。目の前が警察署なんですがね。警察だってこわいんでしょうね。刺されてもしょうがないとおもって対応するしかないんです。

福祉事務所のワーカーは本当に気の毒である。沢山のケースを担当しなければならず、年に1-2回訪問調査することになっているが、丹念に調査する時間も労力もかけられない。
公務員削減の煽りは、結局こういうところにでる。
だから、収入のある息子が実はいるとか、実は、生活費を支援してくれる恋人がいるとか、そういうことがあってもわからない。地域住民の「タレコミ」がいちばんかもしれない。

扶養義務者との関係も何十年も音信不通だったら扶養義務を課すことはないのだが、音信不通ということにして実は送金あり、扶養能力があるにもかかわらずほっかむり、ということも今回の芸能人のケースをみれば明らかで、この扶養義務者との関係はとても見えにくい。
逆に、いるのにいないといっているような嘘がいえるから不正受給が可能で、そういうことが言えない人は、ひとり静かに都会の片隅で孤独死するのだろう。


アメリカで、生活保護への締め付けが厳しくなったときに、福祉事務所のワーカーが母子家庭に突然、夜明けにベッドルームを突撃訪問して、そこに男がいたら、その日から生保打ち切りというような、かなりプラバシーをおかすような調査が行われていたということを聞いたことがある。そこまでするかどうかわからないが、とにかく、生活保護は生活費という生存に関わる問題であるので市民の関心も高いので、慎重かつ公平に対応しなければならない。
とてもデリケートなのである。


支給額の問題もある。
生活保護額は憲法25条生存権保障にもとづいて、支給額が決定されている。最低生活費にかんする研究はイギリスをはじめとして我が国にも膨大にあるが、けっして科学的根拠に基づかない額ではない。
しかし、高齢者の国民年金とのギャップを考えるとこの支給額も再検討せざるを得ないだろう。


この問題をとりあげている「掲示板」をちょっと覗いてみると、「近くに住む女が、生活保護をもらっているくせに、実は男がいて、一日中ゲームして遊んでいる。なんとかならないのか」「生活保護もらってその日に競馬で全部すった奴がいるが、どうなんだ」というような、ものすごい生活保護受給者へのきびしい投書が並んでいて驚く。

右肩上がりの経済成長期だと自分たちの生活が比較的安定していて、明日に希望が持てるので、そういう時には人々は生保に対してもけっこうゆるい。不景気になり、将来の生活の見通しが立たない、となると人々は「努力しないで」生活費を支給されている生活保護受給者へのまなざしはきびしくなる。ましてや収入があるのにそれを隠して受給していたなんてことになるとこれは許し難い、はげしいバッシングとなる。


おわらい芸人の生保不正受給で、似たようなケースの世帯は震え上がっているだろう。辞退、返還、告訴などを繰り返し報道することで、フリーライダーを抑制する意図がないわけではないだろうし、ある程度、功を奏するだろう。

性善説にたつ福祉制度、でも、それは、右肩上がりの経済成長の時代なら成り立ったのだろうが、今はそれは通用しないのではないか。
生保の適正化、不正受給をまず厳しくとりしまる必要があるだろう。それは犯罪であることを国民に知らせるためには良い機会である。

私個人は生保は生存権保障の切り札だとおもっているし、この制度をよりよく成熟したものにしたほうがよいと思っているので、けっして単純に選別主義をとなえるわけではない。しかし、あまりの最近の一般市民のモラルの逸脱はひどく、一回はうみをだしたほうがいいと考えるのである。国民年金料の未納率の高さもひどい。これもフリーライダーの予備軍、否、そのものであるので、今から厳しく納入をさせる政策を取る方がよい。将来、大量の生活保護層を生み出さないためにも、今、それをしなければ日本の未来はないだろう。

年金、生活保護、ここにメスを深く入れない限り税との一体改革はありえない。




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ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウについて梅津時比古氏のエッセイ

2012-05-25 10:59:01 | 音楽ノート
すべての新聞をチェックしているわけではないが、やっとまともだと少しおもえるディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの追悼エッセイを読んだ。
梅津時比古氏は毎日新聞の記者だから、毎日新聞に掲載されるのは当然だろう。CDなどの解説をよく書いている人なので、音楽ファンにはなじみの名前。

ディースカウのコンサート、しかも1982年のケルンでその歌曲リサイタルを聞いたこと、なにげなく、日本ではなくてケルンだというところを匂わせていて特権階級を嫌う梅津氏とはいうものの、特権的臭いをただよわせているところに若干の違和感をもつが、まあ、それはよしとして、詩と音楽の緊張関係を突き詰めるその歌唱法をとりあげていてなるほどと思った。

ドイツの敗戦の傷痕による自信喪失、しかし、これまでのドイツ文化を否定するのではなく、主知的に新しい形で捉え直したとディースカウの歌唱法を高く評価している。


しかし、ここでわたしとしては、ディースカウの戦争体験について触れるべきかと思う。なぜなら、戦争の傷痕は彼にとって、特別な大きなものだったと思うのだ。

彼には寝食を共にしてきた知的障害の弟がいて、その弟は、ナチスのキャンプで死亡させられているという。ドイツはWW2において加害者であるが、しかし、ディースカウは被害者でもあり、ナチスへの痛烈な批判精神をもっていたことは確かだろう。ユダヤ人ではないが、しかし、同じくらい排除の極みを知るものとして、その戦争体験は特別なものだったと思う。それは、この世代の人々が同様に抱えている悲しみでもあるかもしれない。

彼がドイツに帰国したのは、1947年6月だったという。冬の旅の最初の録音は、1948年とのこと。絶望の淵にたつ青年の心を描く「冬の旅」を詩と音楽、歌い手とピアニストの迫真にせまるぶつかり合いのなかで芸術を追求し、それによって、絶望を昇華させ、かすかな希望を見出していこうとしていたのではないだろうか。


シューベルトを歌うことによって、絶望を経験し、しかし、そこから芸術によって希望を見出す。
シューベルトを歌うということはそういうことなのかと思う。絶望のなかにも一条の希望の光を見出す作業なのか。


ディースカウを超える人はこの先でないだろう。それは当然である。

あのすさまじいWW2の経験を経た歌い手はもういない。

大正14年生まれ、昭和の元号とともに生きた人々はどんどん減っていく。
残された我々は、なにをすべきか。
ディースカウの冬の旅、が、単なる冬の旅ではなく、その向うに深い悲しみを抱えていることを理解しながら聴き、また歌うことしか今はできない。



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ディスカウの死をなげく真の音楽ファンは日本に何人いるのかークラシックが衰退する日本

2012-05-24 08:27:18 | 音楽ノート
ディスカウの訃報が告げられ本当に悲しかったということについてはすでに書いた。

その後、少しは新聞などで取り上げられている。しかし、どれもディスカウがとりあえず有名な歌手らしいのでとりあげているだけというのが見え見えであるような記事が多い。
ディスカウを聞き込み、ある時期いれ込んだ経験が少しでもある人が書いているか、というとそうではないような記事が多い。

すごい人だったんですね、初めて知りました、というようなトーンなのでがっかりする。
クラシック音楽関係者ならだれもが知っているのだろうと思うが、どうもそれもあやしい。

NHKなどでもクラシック関係の番組がバラエティ化し、恐ろしく低俗になっている。
多様な番組づくり、多様な層をターゲットにしなければならない苦労は認めるが、あまりに俗っぽい。

NHKの番組、クラシックにかぎらず、軽薄短小な番組づくりになってしまっているところがすでに日本の文化が衰退していっていることの証しである。

これからディスカウの追悼番組がどのような内容で作られるのか、新聞でどのように取り上げられるのか、見ものである。
見るたびに読むたびに落胆する気がするのだが。


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