3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

Alfred BrendelのSchubert Impromputs D899を聴く

2011-10-31 07:22:46 | 音楽ノート
iPodに何が入っているかで、その人の趣味がわかるものだ。私の場合、当然ながら、クラシック、それもドイツ歌曲シューベルトとシューマンばっかりはいっている。

そのほか、アンスネスのショパン、それからグリークのピアノ交響曲、ラフマニノフのピアノ交響曲などもお気に入りで、いつも聴いている。

アルフレッドブレンデルのベートーベンの最後の3つのソナタもお気に入りである。


昨夜は、何気なく、いつもは聴かないシューベルトD.899、D.935を寝ながら聴いた。だんだん目が冴えてきて、2時間、聴き込んでしまった。

なんて骨太で我が道をいく演奏なのか。その堂々とした音色は、どこからくるのだろうか。

1931年生まれだから、戦争で傷ついた世代である。その気骨のある演奏の源はその精神の強さにあるとおもう。WW2で受けた心の傷もまたその演奏の底に流れているのだろうと思う。


D.899は私がまだ、ピアノを将来の生業としようかと思っていた頃、弾いていた重く暗い思い出の曲である。挫折したまさにあの曲である。あの頃は、この曲がこんなにも憂いを秘めながらも強さをもつ曲だと気づかず、ただ、音符をおい、つまらぬ演奏で終わっていたことを今になってはっきりと思い知らされている。

私はただ、シューベルトD.899を弾くには未熟すぎたのだ。

今ならもっとましな演奏ができただろう。しかし、あれを弾くにはピアノから遠ざかりすぎている。

歌曲もピアノもすべての演奏にいえることだろうが、表現にはその人の人生すべてが投影される。どんなに高い技術をもっていても、その向こう側にいくには、内面の成熟が必要なのだろう。過去の人生と歴史をすべて投影した演奏ということだ。

ブレンデルのシューベルトはやはり20世紀を代表する演奏だと思う。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労働の再定義

2011-10-30 13:13:14 | 現代社会論
筑波大学の田中洋子さんがある雑誌に「労働の再定義」という短いけれど示唆に富むエッセイを書いている。

20世紀全体、雇用労働以外の労働が家庭内の女性の領域として扱われ、その社会的役割はほとんど無視されてきたこと。しかし、20世紀末から大きな変化が起きている。
女性が社会進出しそれとともに家族の問題が浮上、グローバルな競争のなかで失業が不安定労働が増えてきたことを背景に労働そのものの認識に変化が起きているという。

1997年にドイツの社会民主党支部が出した労働の未来報告書では、労働を次のように定義している。「労働とは、生業、自己労働、家事労働、介護労働、団体やサークルなどの名誉職的な労働、福祉などのボランティア活動を含む社会的労働、自分を伸ばすための教育労働などのすべてをさす」という。

ドイツ政府の家族・高齢者・女性・青少年省諮問報告書「第7家族報告書」を紹介している。それによれば、多様な労働を時間で表す。
そして、ケア時間、教育時間、社会的時間という3つの労働時間が保障されるべきとする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドイツの報告書はわれわれがこれまで、軽視してきたケア労働などに光をあて、それを保障することの重要性に気づかされる。雇用労働だけでないものをあわせて考えていくということ、つまり労働の再定義をする必要があるということであろう。

我々はこれまで、労働者の時間を考えるとき、24時間のうち、労働、睡眠・休養、余暇と区分してきた。

これを組み換え、雇用労働だけでなく、育児や子どもとの会話、世話、家族の介護、パートーナーとの時間もケア時間として積極的に位置づけようとするものである。
また、自己研鑽のための時間も多様な労働時間の教育時間として考え、地域社会の活動なども社会的時間として捉え直そうという視点である。
余った暇ではなく、労働を雇用労働だけでなく多様なものとして捉え直し、そこから生活のあり方や労働時間や社会システムを考え直そうとする。

ケアや自己研鑽、社会的活動などを雇用労働と同等にとらえ、労働に組み込んでいくことで新鮮な生活と労働の姿が見えてくるものだ。

ものがあふれ、これ以上過剰な電気もいらない。ケアや自己研鑽、社会的活動を雇用労働より以上に重視する生活がもっとも新しいのかもしれない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公的年金制度の意義を考えよう

2011-10-28 13:33:49 | 福祉政策
年金について、たとえば、年金制度破綻の元凶は役人、特殊法人、特別会計にある、とする意見がある。

「何のことはない。サラリーマンらがせっせと積み立てた年金原資は役人の天下り先の特殊法人や「官のサイフ」と呼ばれた特会に流れ、浪費され、枯渇しただけなのだ。これじゃあ、どんなに保険料を納めても、穴の開いたバケツで水をくんでいるのと同じ。役人の怠慢のツケをなぜ国民が負担するのか
厚労省は09年、年金にかかる財政検証結果を発表。年金積立金の運用利回りを「名目4.1%」と設定していたが、昨年度の実績はマイナス0.3%と惨憺(さんたん)たるものだった。その責任も取らず、ツケをすべて国民に押し付けようとしているのだ。
 こんな厚労省の暴走に加担している野田政権は国民を不幸にするばかりだ。」


なるほど、確かに年金積立金運用に問題はあるだろう。しかし、だからといって年金制度そのものを崩壊させていいものだろうか。

今は、年金制度を良い形で持続可能な制度にする方法を考えるしかないのだ。

老齢年金だけではなく、障害年金や遺族年金などを考えると、年金制度はなくてはならない社会システムである。すくなくとも先進国ではそういうことになっている。運用上の問題があるからといって年金制度そのものを否定するのはいかがなものか?

公的年金制度を否定して、私的な保険や貯金でやっていけると思ったら大間違いだと思う。それが無理だから、皆で保険料をだしあう制度をつくったのだから。イギリスがどのようにして無拠出の老齢年金制度をつくったか、そのプロセスをみればわかる。ドイツもしかり。労働者の老後や疾病障害に対応するためである。


公的年金制度はだれが政権をとろうとも必要な制度である。崩壊させてはならない。

公的年金制度を否定するのは、財務省の役人がひどいから、税金納めない、ってごねている税金逃れがいるが、そういうのと基本的に同じ構造をもつと思う。

もちろん原資の運用については透明性をはかることは前提であり、これまでのむちゃくちゃな運用の責任は当然、きちんととらせなければならない。

国民と政府の間の信頼関係を確立しつつこの制度を育てていかなければならない。
老後の生活資金の不安や若くして交通事故などで障がいをもったときにどんなに公的年金制度があることで救われることか。

人間は人生のいつのときでも強者でいられるわけではないのだ。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生案内といえば―明川哲也の「悩みのレッスン」

2011-10-25 10:32:23 | 現代社会論
明川哲也が、朝日新聞の毎週土曜日夕刊で、29歳までの投稿者の悩みに答える 「悩みのレッスン」 というコーナーを受け持っている。かつてNHK番組「つながるテレビ@ヒューマン」に 『哲也の陽はまた昇る』というコーナーがあって、これがとてもおもしろかったので、以来、注目して読んでいる。

朝日新聞の夕刊は投稿対象が29歳までなので、私は投稿の権利がないので残念である。とにかく面白い。明川哲也はドリアン助川という名前でバンドもやっている。生まれながらの吟遊詩人!

10月24日付夕刊、「孤独を楽しむ」だった。
・・・何年か前、ボクはよく自転車を漕いでいた。仕事にあぶれ、自信も失い、消え入りたいような気持ちで多摩川の土手を行ったり来たりしていた。ある日、河原の一面のコスモスがみなこちらを見ていることに気が付いた。いや、見ていなかったのかもしれないが、少なくともその囁きを聞いた気になった。「人間の社会で、今あなたは孤立していますね。でも私たちは、あなたを嫌いません」何万という花が風に揺れながら手を振ってくれていた。「生きていけばいいのですよ」と言ってくれているようだった。・・・。ランボーが、希望と絶望のない交ぜとなった瞳でこちらをじっとみるのは、ボクが孤独である時だけだ。古典の作者がいきいきと蘇り、微笑みかけてくるのは魂が騒がしい時ではない。・・・孤独こそが、力だ。・・・

大衆におもねることはなく、孤独を力に、我が道をゆく詩人明川哲也。
その言葉はさりげないものの、選り抜かれている。気負いもない。文学を読み込み、創り、そして歌ってきたものだけが得られる独自で繊細な文学感覚。
彼の人生案内こそ、若い人に読んでもらいたいものである。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フクシマ、FUKUSHIMA、福島

2011-10-24 15:22:54 | 現代社会論
「フクシマ50」は地上の星とたたえられ、外国メディアからの注目度は高い。
もはや、フクシマ、FUKUSHIMAという表記は、3.11以後の我が国が直面している原子力災害を一言で表す象徴的なタームとなっている。

しかし、私の知人があるところで福島をフクシマ、FUKUSHIMAと表現したら、差別的なのでやめたほうがよいという意見があって、びっくりしたといっていた。世の中感じ方もいろいろだ。

フクシマと表記することは、そこにフクシマへの特別な問題性や思いを含んでいるように思う。
他の地域ではない原子力災害に被災した「フクシマ」であり、イワテやミヤギではないのだ。
そこにすべての戦後の問題を背負い、これから何十年とさまざまな放射能汚染とたたかっていかなければならない、われわれがともに戦っていかなければならない、そいういうエリアとしての「フクシマ」であるという意味を含むものとして、私はあえて積極的にとらえたい。
「フクシマ」と表記することこそ必要だと思っている。

そういった問題性を封印して、皮相的な差別的表現などとして抑制させる感覚のほうがむしろ差別的だとおもうがどうだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする