3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

天皇の即位30年祭典にユーミン?ゆず? 違和感しかない

2019-04-30 16:04:00 | 現代社会論
和暦が平成から令和に変わるそうである。
世の中浮かれている。元号代わりにあやかる商法がはびこりあさましい。

先日、即位30年の会があって、ユーミンやゆずが出て歌ったらしい。
今の天皇、皇后はクラシック好きだときいていたが、そうではなくユーミンやゆずがすきなのか?
かなりの違和感である。
皇室といえばクラシック音楽であり、自らもビオラやピアノを弾くわけだし、短歌もやられるということだが、それに音楽つける?
何をやっているのか、何をやろうとしているのか意味がわからない。
芸能プロダクションが皇室行事に一枚かんで、一儲けということなのだろうか。

クラシックが聞きたいのに無理やりドンちゃん騒ぎの低俗な音楽を聴かされて、仕事とはいえ辟易としているのではないかと思うのである。
私だったら苦痛でしかないが、人格者の天皇皇后は苦痛とは思わないのだろうか。いささか気の毒に思える。

今の天皇は高齢になり、退位することになった。
昭和天皇が長く戦前より1926~1989年まで天皇としてあり続け、その後今の天皇が引き継いだ。
我々の時代は天皇といえば昭和天皇であり、「全国国民体育大会において・・・」という特徴的な言い回しを真似てはふざけるのが子どものころの思い出で、もっと天皇が身近な存在であった。マスコミも陛下などとはいわずに、天皇とかテンちゃんなどといっていたし、皇太子もナルチャンといって非常に親しみを持って皇室の話題は取り上げられていた。今はワイドショーであれこれバッシングするくせに、えらく慇懃で必要以上に敬語を使い、何もわかっていない人がただひたすら表面的な表現のみで皇室を扱おうという姿がみえ、浅薄この上ないのである。

戦争の時代の天皇から、グローバル時代の天皇として時代の変化に即して随時変貌を遂げながら、皇室はいき続けている。
天皇制というシステムを国をあげてそれなりに維持してきたわけである。

世界に開かれると同時に、歴史性を踏まえつつ、生き続けようと必死になって象徴としての天皇制を追及してきたように思う。

ユーミンやゆずの歌など聴く必要はなく、象徴天皇制を追及してきた今の天皇の来し方、戦争の時代を越えてきた昭和天皇以来の天皇制のあり方を静かに振り返り総括すべきなのではないか。それが2019年4月にやるべきことである。

こんな時にユーミンのバカ騒ぎの歌は聴きたくないのである。

最近のユーミンは調子づいていて、深みもなく、私が成長したからなのか、もう、30年前のようにあれらの歌を良いと思えなくなっている。
もう彼女は過去の人である。
ユーミンが皇室の権威にすがって、その歌唱力が劣化しているのに、そもそも歌唱力はないのだが、人前で歌って、恥ずかしい歌を披露し、恥の上塗りをしようとしているそのスタンスが許せない。落ち目の歌手は平成のおわりとともに静かに立ち去るべきなのではないか。
底の浅い話をもっともらしくまるで文化人であるかのようにTVで話すユーミンは最低である。
文化人であるなら、そもそもあんなところで歌は歌わないはずなのである。
文化人でありたいと思うのなら、天皇制についてきちんとコメントできなくてはならないだろう。






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ピアノの森 一之瀬海に惚れる

2019-04-27 17:38:41 | TVノート
毎週、楽しみにしている「森のピアノ」。
最終回まで見てしまったのに、また、やるっていうから、毎回録画して楽しみにみている。

個人的に子どものころからピアノを習っていたこともあり、才能あふれる小学生のリアルなコンクールの戦いの火花が面白すぎる。

タカビーのマルヤマタカコなんか感情移入してしまいそうである。

とりあえず、雨宮と一之瀬を比べる。

「冬のソナタ」でいえば、サンヒョクとチュンサンみたいに間逆なキャラクターである。
破天荒で天才肌の一之瀬海に比べ、親の期待を背負い努力型で地味な雨宮修平。やはり、天賦の才能をもつ一之瀬のことをみんな好きになるだろうなあ。

雨宮は父親が著名なピアニストで、母親も音大のピアノ科卒の教育熱心な裕福な家庭のお坊ちゃまで、一之瀬は、森の端というその地域では嫌われる劣悪な街の出身であり、母子家庭で母はバーのマダムである。

家庭環境の大きな格差は歴然としている。
本来なら一之瀬はその家庭環境がゆえに、生涯、浮かばれることがない。
しかし、アジノ先生という小学校の音楽の先生に見出され、その才能を開花させていくのである。
それは、奇跡である。
アジノ先生は世界的なピアニストだったのだが、交通事故で婚約者と自身の左手を怪我してしまいピアニストとしての生命を絶たれる。
世捨て人のようになり、地方の小学校の音楽教師となっている。それが奇跡を生むのである。

世の中には、天賦の才能をもっていても生まれた家庭環境がゆえに才能を開花させることなく死んでいく命もあるだろうと思う。

だからこそ、義務教育は無料で、しかもその教育内容は全国津々浦々、高いレベルのものであることが必要である。それぞれの子どもの才能を開花させ、豊かな人生を作るために重要である。

すべての子どもが天才的な才能を与えられているわけではないが、数学や絵画や音楽、体育など、必ずそれぞれ得意とする分野があり、個性を花開かせる必要があり、それが義務教育の使命だと思う。

森のピアノ、これからショパンコンクールに向かって、話は進む。
楽しみなのである。

最終回の録画を何度もみて、そのたびに涙が出てしまうのだ。アジノ先生に抱きつくシーンは本当に素敵だ。
多くの子どもたちがこのアニメをみてピアノを習い始めると良いと思うのである。
クラシック音楽に触れるのはピアノが一番だと思うのである。

アニメをまともに見たことがなかったけれど、何年ぶりかで「ピアノの森」にはまっているのである。




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2019.4.23 バルコニー便り 小手鞠がゆれ、ジャスミンが香っている

2019-04-23 16:49:50 | 日記
すっかり暖かくなり、あっという間に夏のような暑さになっている。
バルコニーの草花は順調に育っていて、季節に合わせて花を咲かす。

小手鞠が咲いている。ジャスミンも花をつけ香っている。
毎年、GWのころ咲く花々である。
ジャスミンのむせるような香りが漂ってくるとGWになったのだと気づく。

昨年は皇帝ダリア(何でこれが我が家の庭にあるのか不思議なんだが)、咲かずに枯れてしまった。
台風や初冬の強風にやられて、結局花をつけることなく、枯れてしまった。
先日、家人が枯れた幹を根元のほうから切ったのだが、いつのまにか新しい芽が出ているではないか。
今年こそ、皇帝ダリアの花を拝みたいと思うので、大切に水やりを忘れず見守りたいと思うのである。
皇帝ダリア、その名前が偉そうであまりすきではないのだが、ダリアというのは、夏がすっかり終わって11月ごろになって咲く、まさに遅咲きの花なので、ちょっといいかなとおもっておいている。しかし、背が高くて屋根の上まで伸びるのだが、なかなか花を咲かせるのが難しいのである。
ダリアといえばポンポンダリアなどのほうが、菊に似ていてかわいいのですきなのだが、皇帝ダリアに毎年振り回されているがまあ良いだろう。

持続可能性などが話題になる昨今であるが、どれだけ身の回りで考えているかと思う。
近くの公園では、長年慣れ親しんだ銀杏の木が2本、あっという間に切られ、何の変哲もないどーでもよい児童遊園になっていた。
この知を感じない所業、役所のやり方には本当に憤る。
しかし、一人の地域住民が上げる声などだれもきいてはくれないものである。




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私の好きな老舗の味

2019-04-21 18:18:13 | グルメ
おいしいものには目がない。

「どらやき」は「うさぎや」であると以前書いた。
そのほか何があるかと思い出してみる。

「雷おこし」はどうか。これは「古代」である。断然おいしい。





それから、洋菓子なのか和菓子なのか分かれるが、蔵前にある「榮久堂」のバターサンド。
これがもうめちゃくちゃすきなのである。



あれこれおいしいものランキングがあるけれど、私は断然この三つを推薦するのである。




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2019年4月の区長と区議選  

2019-04-20 15:33:07 | 現代社会論
4.21は区長と区議の選挙がある。今朝、配布されていた区長候補者と区議立候補者のプロフィールを読んでみた。
それぞれ来歴と現在の仕事などが記載されていて、けっこう楽しめる。
この人は、地方から東京に出てきたひとだとか、生まれてからずっとこの区にすみ続けているのか、とか。
区議というのは、身近な存在で、地域に根ざしているようにみえて、既成政党のコマに過ぎないところも見え隠れしてどうなのかと思う。
保育園の待機児童問題だとか、まちづくりとか、コミュニティバスの路線の増設だとか、あれこれ政策を挙げているがほとんど似たり寄ったりである。自治体によっては、全員当選というところもあるらしいが、私がすんでいる自治体はそれなりに落選する人がいるので、「もう一歩です」などと宣伝カーで連呼していたりするとちょっと気の毒な気もする。

きっと投票率は低いに決まっている。
なってほしい人を選ぶと3人ぐらいに絞られる。
どうぜ、投票率が低いのだから、ひとり3票くらい与えてくれるとうれしい。
一人3票与えられるとそれなりに意見が反映されたような気になる。
無風選挙を再考するうえでも一人3票体制というのは結構楽しいと思うのだがどうだろうか?

区長なんか、どうせ、現職が強いに決まっている。
なので、現状維持を望むなら現職に投票するのだろうが、少しでも改善の余地があるなら、対抗する候補者に投票すると面白いと思う。
当選したとしても反対票がそれなりにあったというのは、区政の横暴化にブレーキをかける役割があると思うから。謙虚に区政にとりくませるために対抗馬に投票するという手も良いのではと思う。

子どものころは、選挙というのは結構楽しいイベントであった。
大人になって、最近の選挙は本当にだるい感じで、わくわく感もなければ熱いものも感じない。
政治的アノミー状態。
無関心の増幅はこうやって政治的空白を生み、そのすきにやばいことが次第に浸潤しなければ良いがと思うのである。

保守的な地域密着の人たち、自営業主、によって支持された候補者が当選するのだろうと思うとますますもってアノミー状態に陥っていく。
大都市サラリーマン層とその家族は土着の人々とは異なる生活価値および政治的スタンスをもっており、本当にやりきれないのである。
これこそが、政治的分断というものなのだろうと思うのである。



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