3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

母を看取って 9:平川克美「俺に似たひと」を読んだ,

2013-11-02 13:07:52 | 読書ノート
母を看取ってから、高齢者の看取りなどに関する本を何気なく読んでみた。
高齢者の問題は、自分が体験して初めて身近な関心事となる。
家を買おうという気にならなければどんなにたくさんの新聞広告が入っていてもただのゴミだが、いざ、そういう気になるとそれらのゴミのような広告が重要な情報として生き生きと我々の前に立ちあがってくるように、高齢者の介護の問題などもそういう体験に直面して初めてリアルな情報として迫ってくる。

高齢化社会の到来などと百万遍となえたとしても本当のところを理解するのは困難だ。
親の介護に直面すれば一発で実感がわくというものだろう。医師や看護という日常的にこの手の問題を相手にしている人も本当のところはわかっているかどうか怪しいものである。

平川氏もまったくそういう人だったのだとこの本を読むとよくわかる。

平川克美氏のご両親を看取った話。
お母さんはあっというまに亡くなり、その後残されたお父さんを介護した1年半の話。

会社と病院と自宅1(大田区の実家),2(等々力)を行き来しながら、悪戦苦闘し、認知症の症状が出たお父さんを介護した経験が書き綴ってある。

父と息子はこのようなものなのか、と、あらためて知った。

平川氏は、父の仕事を理解することなく、大田区の実家から脱出し、実家を顧みることなく過ごしてきた息子である。
父親の介護を通して改めて自らのアイデンティティを確認するという過程をつづったように私には読める。

昭和25年生まれの平川克美氏は高度経済成長の恩恵を受けたまさに申し子世代であり、その親は日本の成長をプレス工として支えた人々の象徴である。

大田区の実家から脱出し、ある意味で階層移動(上昇)した息子によるそれまで親を顧みなかった息子によるまるで懺悔禄のような介護記録である。
帯には有名人が名を連ねている。そこがちょっと商魂たくましくいやだが。

一人の息子が父を看取る過程を克明につづることで、治療ではなく死に向かうために子どもたちはどう親について考えるべきか教えてくれる。

平穏な死をどう創るかが大切であることを教えてくれる。

私が母を看取って考えたことと同じ境地に、違う看取りを通してだが、達したのだと思う。


付記
医学書院の「かんかん」というサイトに掲載されていたものらしい。
かんかんというのは看護のサイトということで、アクセスしてみたら、いろいろ訪問看護のことなどが掲載されていて参考になる。

とはいうものの
看護というものが臨床を基本にしているためか、個人的な症状やケアが関心の的であり、社会的な視点が乏しいように思えるがどうなのだろうか。




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