3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2013年のお正月の過ごし方:初詣、駅伝、ニューイヤーオペラ

2013-01-03 23:08:27 | 日記
2013年も3日になってしまった

年末は21日、25日と手の込んだ仕事が入っていて、過労からか心労からか胃炎になってしまい、年末年始は基本的に寝ていた。
それでも年末は大掃除をして、年越しそばを食べた。炒り鶏は例年配偶者がつくることになっているので、当方は、手際よく、美しくおせち料理を並べる。これで元旦はOKである。

フェースブックなどに我が家のおせち料理といって、いかに豪華なものかとか、手作りであるかを誇るものがあるが、ナンセンスだと思う。新婚時代はフルコースやすべて手作りのおせち料理を作りパーティもした。子どもが小さい時は、おせち料理やお雑煮のつくり方を教えるために、料理の基本を教えるためにでもあるが、丁寧に作った。しかし、それなりに年を重ね、職場においてもそれなりのポストにいて、忙しく歩き回る生活をするようになると、年末年始だからといってお料理に時間をそうそう費やしているわけにはいかない。
だから、ツボを押さえたおせち料理となる。

12月31日は、当然ながらへそ曲がりの私が紅白などみるわけがない。Eテレのらららクラシックの総集編を見たが、結構楽しめた。
ディスカウの映像もあり、吉田秀和の話も出ていて、よかった。

元旦はウイーンフィルのニューイヤーコンサート、衛星中継だ。
昨年は、ドイツで見た。なつかしいなあ。日本でもドイツでも同時生衛星中継だなんて感動的だった。

で、2013のウイーンフィル、どうして夏木マリなのだろうか。
完全なミスキャストである。あの意味不明なコメントと浮かれた雰囲気はまったくウイーンフィルのコンサートにふさわしくない。
少し前までは、もっと格調高い解説だったように思うが、どうなのか。
ということで、リアルタイムで見るのはやめにしてあとで変な解説はカットして録画を見れば良いということにした。

NHKはみなさまのNHKを意識しすぎなのだろう、大衆受けしようとしてとくにクラシックの番組のまがぬけたああ勘違いの大衆化が激しい。これでは本来のクラシックファンが逃げるだろうに。

元旦は実業団駅伝というのもみた。柏原が走るというのでみたのだが、不発だったようで、少し残念。

大学駅伝はすごい人気であるが、やはり大学生よりは実業団のほうが実力は上なのだろう。大学生なんてやわな奴らだ。
すぐ倒れ込んでしまうし・・・。

大学駅伝の走者の出身高校が出るのが面白い。
高崎高校から法政大学なんていうのをみるとへえ、高崎高校から法政というのは、ちょっと残念ですねえ、とか、秋田高校から駅伝に出たいために早稲田を受験したが、落ちて浪人、その後、スポーツ入試で早稲田に合格したとか、秋田高校のくせしてスポーツ入試などに頼らずにちゃんと勉強して受験しろ、と言いたくなってしまうのは私だけか。

最近の大学入試はこれだから信用できないと思う。駅伝を見ながらスポーツ入試が多すぎて、これじゃあ、早稲田といってもまともに勉強しているわけもないということがよくわかる。これだから報告書ひとつ書く事もできず、ただ、走るのだけ早い、体力だけはありますとか、酒だけは強い、というような輩が多い最近の新入社員事情、妙に納得してしまう。

3日はニューイヤオペラコンサート。
これも大衆受けしようとして辰巳琢郎などを司会にしていて少しおかしい。
たしかに、芸能人のなかでは彼はインテリなのだろう。知識もありそうだ。しかし、やはりミスキャストである。
クラシックに精通しているわけではないのだから、かなり限界。それは、アリアを歌うためにどのようなトレーニングをしているのか、研鑽を積んでいるのか、理解するためにどれだけ勉強しているのかを知りつくしているとはとてもいえないような解説だったからだ。

演出、出演者はどうか。昨年はドイツにいてみなかったのでわからないが、一昨年よりは力がはいっていたようだ。
一生懸命が伝わってきた。下野の指揮もがんばっていた。

しかし、毎年同じようなメンバーというのはいかがなものか。
刷新してみたらどうか。
歌の世界はものすごく人材がいるのだ。こんな、毎年同じような人が出るだけじゃつまらない。学閥なのかなんなのかわからないが、なんでいつもこの人なのかというような人が出ていてひたすらマンネリである。もっとたくさん出演できるようにしたらどうだろう。
紅白歌合戦のように紅組白組わかれて、どんどん歌手がでてきて歌うとか、新人のコーナーとか・・・。
若手の実力派はたくさんいる。あそこで歌っているおじさんおばさんよりずっとみずみずしい歌声で歌える人はごまんといるのに、NHKはコネ社会だから、結局こういう番組しかできないのだろう。

藤村実穂子さんはうまいけど、ワーグナーのあの歌はメゾではだめで、やはりソプラノが歌わないと歌のよさは活きてこないと思うのだが・・・。だって、トリスタンとイゾルデのイゾルデのうたですからね。

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自助・共助・公助を考えるー子どもおよび高齢者支援のありかたをめぐって

2013-01-03 22:29:27 | 現代社会論

元旦に朝まで生TVをみた。
竹中平蔵先生も出ていた。
大塚耕平とローソンの新浪と片山さつき、藻谷ほかのメンバー

マクロ経済を語るのには、それなりの基礎知識が必要である。
だから、竹中平蔵(元政策投資銀行→ハーバード)や大塚耕平(元日銀)それから藻谷(元政策投資銀行→コロンビア大学)と片山さつき(元財務省)などをそろえたのでけっこう白熱した議論が展開されていた。

田原は経済はよくわかっていないので、間が抜けた司会で興ざめだが、年寄でもあるので仕方ないかとあきらめる。

最後の方に少子化対策の話に及んだ。
自民党らしく、片山さつきが、自助・共助・公助の順にならべていた。
家族が大切とのたまっていたが、それは違う。

このブログでも一貫して述べているところであるが、決して自助が前提ではないのである。
社会サービスは広く薄くが大切なのである。なぜなら、自助が限界にきたらそのとき共助も限界、公助も効率的に提供することができないという構造を持っているからなのである。
社会的な支援をベースにして家族が気持ちよく子育てができるようにすること、家族が気持ちよく親の面倒を仕事のペースを落とすことなくやれること、それが大切なのであり、それが持続可能な社会システムというものなのである。

家族が限界になるまで自助努力をするともう薬も手術も効果なくなるほど病が悪化してしまうことになるということである。そんなことになるより前に社会が支えよう、
子育ても高齢者の生活支援も社会が皆で支えよう。家族に任せていたら大変なことになってしまうから。

公助があり共助がある。自助が可能なひとはごくまれな恵まれた人としてとらえる。とにかく徹底的に社会が守るという意気込みがなければ少子高齢社会は乗り越えられない。

新政権には「家族が中心」などと決して言わせてはいけないのだ。
公助の充実、レベルはそれなりでよいので、とにかく多くの人が社会サービスを利用し、幸せな家族生活が送れるようにと願うものである。






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