3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

大都市の孤独な家族と死

2012-02-29 11:58:30 | 現代社会論
さいたま市北区で高齢者夫婦、といっても60代、息子30代が餓死しているのが発見されたという。さいたま市は2005年にも大宮で27歳の女性と4歳の息子が餓死している。
やっぱり来たかと思う。
派遣などを転々としていて60代の親も息子もそういう働き方をしてきたが、やはりリ-マンショック以後の不況のなかで仕事が減り、極度の経済的困窮に陥っていたと思える。
不安定な雇用でやっていると、働けるうちはよいが、仕事がなくなるとか、あるいは、病気や怪我で仕事に行けなくなると悲惨なことになる。
そして不安定な雇用形態だとだいたい社会保険には加入できない、また、加入しても十分な加入期間を確保できず、結局年金もない、医療保険もないという状態に陥る。
負の連鎖がはじまる。住民票もないということは、なんらかの理由で故郷から逃げてきたということもある。事業に失敗して借金地獄で夜逃げしてきたということもあるのかもしれない。ますます社会との関係を遮断することになる。

年齢が若ければ働けるのにと思うが、さまざまな原因から、たとえば、メンタルな病気とか怪我などによって、仕事にでることができなくなり、どんどん追い詰められていくのものだ。社会保険の範疇にはいっていないので、労働者の権利も守られないことがおおい。

そうするうちに生活を切り開いていこうとか、そういう意欲が次第に失われる。そして、もともとあまり地域の干渉がないところを選んで住んでいるので、つまり、大都市の密集地域にあるアパートなどでひっそりと社会との関係を隔絶しながら生活しているので、地域関係は皆無になっていくのだ。

餓死というような極端な状態とまでいかなくても、相当数のこういった高齢者世帯や母子世帯、障がいをもつ人を抱える家族などが大都市にはいるのであり、そういった生活困窮層がぎりぎりの線を超えると餓死というような状態に陥って表面化すると考えられる。これは氷山の一角である。

高度経済成長以降、日本経済をした支えしたきた労働者は多くが不安定労働者層であった。そういう人たちが不安定なまま家族を形成し高齢期にはいるが、そもそもその日ぐらしなので、仕事がなくなればOUT。年金もなく多分蓄えもない。
そもそも母子世帯は貧困化しやすい。これは日本の特徴でもある。
高齢者世帯と同様、母子世帯もおなじような負の連鎖になりやすい。
住宅を追われれば路上にいくしかない、しかし、それはできない。仮住まいに家賃滞納したまま居続けるが、手持ちの現金もそこをつき・・・。

生活保護はものすごい勢いで増えている。
こうなったら、生活保護支給額を減らして、ひろく薄く支給するほうが実効性があるかもしれないとまで思ってしまう。
憲法25条生存権保障はどこかへふっとんでいるこの国。


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起立するか否かールールをまもることを教えるだけなんて教育ではないと思うけど

2012-02-25 10:42:23 | 現代社会論
起立したしないで府立高校の卒業式がもめている。
起立することを条例で決めちゃったらしい。

事務系公務員は、だいたい体制的な人間がなるので、問題ないのかもしれない。「できません。これは決まりですから。」いわゆるこれを「お役所仕事」という。彼ら彼女らにとってルールが一番である。

問題は教育公務員である。
教育に従事しているけど所属が公的な機関という人々。
日本は公的な教育が非常に充実していて普及しているから、教育公務員の果たす役割は大きい。嫌だったら私学へというが、公的な教育機関がほとんどなので、そういう論理は成り立たない。

そもそも高校の教員は、大学教員になりそこねたような学問的に専門化している人が多く、思想信条もそれなりのものを持っている場合が多い。
だから、いろいろこだわりがあるのだろう。

市長は、ルールをことさらに強調するようだが、教育は政治を超えたところにあるものだから、政治的判断に任せるのはいかがなものかと思う。
教育とは決まりきったルール、そのものに疑問をもたせることから始まるのものだ。

この条例がどのような意味をもつのか、そのことを多面的に考えさせることそれが教育でしょうに。


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大学の秋学期入学を考える

2012-02-24 10:06:54 | 現代社会論
国際教養大学の学長中嶋嶺雄先生、元東京外国語大学学長、が、東大の秋学期入学について、そのおよび腰に吠えていた。

中嶋嶺雄先生は、徹底的な大学開国論者だから、大学の教員はすべて英語で授業できなけりゃ採用しないぐらいの強硬派だ。それにくらべると東大の秋学期入学の脆弱な発想に怒りが爆発しているのだろう。
東大は理系はレベル高いが、文系はそれほどでもないといわれる。東大法学部を出ても英語は読めて書けるが、会話はできない学生が多い。国Ⅰで官僚になっても、ぜんぜん英語できなくて情けないのも多い。その一方で、京大卒はけっこう英語というか、語学が出来る奴が多いというのが私の周りにいる連中をみているといえる。

英語で授業といっても、専門的なことを英語で講義しゼミをやるとなるとけっこう大変だ。理系なら計算式を示せば、それで済むところが、文系となるとこれがむずい。

海外のまともな大学で博士号をとってきた教員でなければレベルの高い講義、ゼミ、大学院教育はできない。

東大が秋学期入学をはじめて、多くの留学生を受け入れ、欧米の名だたる大学と肩を並べるくらいになるまでには10年ぐらいかかりそうだ。教員の世代交代をして、海外で学位をとった教員、そのレベルの教員がほぼ全員となるまで時間がだいぶかかるだろうね。

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ドイツリートを楽しむ- 高齢期こそドイツリートを歌うにふさわしい

2012-02-22 09:35:25 | 音楽ノート
趣味で歌っている人のコンサートを聞いた。
みなさん、日頃、研鑽を積んでいるらしく、とてもレベルの高いパフォーマンスだった。
プログラムをみてイタリア系の歌曲、アリアがずらっとならんでいるのにはびっくりだ。
それなりの年齢を重ねている方々なので、当然、ドイツリートが並ぶと思っていたので意外、ちょっとがっかりだった。

ウーム、ドイツ歌曲はマイナーになっているのだ。年を重ねれば重ねるほど味がでてよいのにねえ。なんでイタリアものばかり、うたうのだろう。メロデイは美しいが、歌詞がねえ、いまひとつピンと来ない。

ただの自己満足か?自己顕示欲か?

ドイツ歌曲を理解して歌うのには、ベースが必要だから、そう簡単に一朝一夕にうたえるものではないことはわかる。
それにしても、ドイツ歌曲の衰退を心底憂うる。

嘆くその私はすでにマイナーなドイツ歌曲の歌い手。
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R.シュトラウス 万霊節 Allerseelen   

2012-02-19 08:52:02 | 音楽ノート
万霊節が好きだ。

歌曲を始めた理由は、この歌を聴いて歌いたいと思ったからである。そして、大胆不敵にも、身内の会とはいいながら人前でうたってしまった。
以来、節目節目で歌ってみたりする。

この歌は、どこかの音楽ブログで 配偶者に先立たれた老夫婦の話、と解説されていたが、それは違うだろうと思う。

これは若い恋人に先立たれた残されたものの哀切を歌ったものであると思う。

しかし、これを歌うのには、若いだけではだめである。残されたものの苦しみを知ったものでないとまともに歌えないと思う。
あるマスタークラスでこの歌が取り上げられていた。若いと思われる歌手が、まるでオペラを歌うように歌っていた。当然、ボロクソにいわれていたが、当たり前である。
この歌はもっと内的に歌わないといけないのだ。

メロディの美しさにとらわれてはいけない。もっとドロドロとした情念、早世した恋人をまだ、身近に感じ、その姿を追い求めている、でもそれはかなわない。
道に倒れて恋人の名を叫び続けたことがありますか、という世界と通じるものがある。しかし、相手は死んでいるのだからそういう激しさでもない。死者は蘇らないということを知っている。最後は諦念の世界に到達するしかないのだが、そういう過程を踏まえつつ歌えるかどうかだ。

音大の学生や出たてぐらいじゃだめでしょうね。

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