親しい友人が亡くなった。
新盆である。
法事は遠いところでやるので友人に託してお花を贈った。
お墓参りもいつかしたい。
お墓参りという宗教的儀式はある種の生活文化である。
しかし、価値の変化によってお墓参りや先祖を供養するという感覚が薄れていくのは仕方がない。
私的には、実家のご先祖様のいるお墓は生きている限り管理しようと思う。
しかし、私の次の代にそれを引き継ぐのは難しいと思う。なので、それなりの年齢になったら永代供養にして、次の代にお墓の管理を強いることはしないようにと思っている。
私のお墓については、樹木葬にしたいと考えている。
理由は、人は最後は土に還っていくものだからである。高価な骨壷にいれられて長く墓のしたにおかれるのは趣味ではない。
樹木の下に静かに眠るのがもっとも私らしいと思うからである。
どんな樹がよいか、それを考える。
ほんのわずかの遺骨の粉は思い出の川に撒いてほしいと思っている。5グラムぐらいでよい。
思い出の川の思い出の橋の下あたりに撒いてほしいと思っている。
これはある種のロマンなのかもしれない。
私だけの樹木、川の思い出、そこに私が生きた足跡をほんの少し残したい。それだけである。
死んだ男の残したものは・・・・、墓石一つ残さなかった。という谷川俊太郎の詩があるけれど、それでよいと思うのである。
樹木選びと場所は選びは難問である。
慣れ親しんだ自宅近くにしたいと思うからである。
庭の椿、実家から移植した椿でも植えようかと思うのである。
冬に赤い椿の花が咲く。その下に眠る、というのも良いかもと思うのである。
ちょっと派手すぎやしませんか、とも思うのであるが、オリーブの木はやりすぎだし、赤いバラは管理が難しいし、糸杉は陰気だし、桜はありきたりだし・・・・。あれこれ考えると悩みは尽きないのである。気軽に樹木葬、そういう環境がほしいとつくづく思うのである。
新盆である。
法事は遠いところでやるので友人に託してお花を贈った。
お墓参りもいつかしたい。
お墓参りという宗教的儀式はある種の生活文化である。
しかし、価値の変化によってお墓参りや先祖を供養するという感覚が薄れていくのは仕方がない。
私的には、実家のご先祖様のいるお墓は生きている限り管理しようと思う。
しかし、私の次の代にそれを引き継ぐのは難しいと思う。なので、それなりの年齢になったら永代供養にして、次の代にお墓の管理を強いることはしないようにと思っている。
私のお墓については、樹木葬にしたいと考えている。
理由は、人は最後は土に還っていくものだからである。高価な骨壷にいれられて長く墓のしたにおかれるのは趣味ではない。
樹木の下に静かに眠るのがもっとも私らしいと思うからである。
どんな樹がよいか、それを考える。
ほんのわずかの遺骨の粉は思い出の川に撒いてほしいと思っている。5グラムぐらいでよい。
思い出の川の思い出の橋の下あたりに撒いてほしいと思っている。
これはある種のロマンなのかもしれない。
私だけの樹木、川の思い出、そこに私が生きた足跡をほんの少し残したい。それだけである。
死んだ男の残したものは・・・・、墓石一つ残さなかった。という谷川俊太郎の詩があるけれど、それでよいと思うのである。
樹木選びと場所は選びは難問である。
慣れ親しんだ自宅近くにしたいと思うからである。
庭の椿、実家から移植した椿でも植えようかと思うのである。
冬に赤い椿の花が咲く。その下に眠る、というのも良いかもと思うのである。
ちょっと派手すぎやしませんか、とも思うのであるが、オリーブの木はやりすぎだし、赤いバラは管理が難しいし、糸杉は陰気だし、桜はありきたりだし・・・・。あれこれ考えると悩みは尽きないのである。気軽に樹木葬、そういう環境がほしいとつくづく思うのである。