3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

新型コロナウイルスの脅威 12 芸術を支えたい

2020-04-30 12:03:06 | 病気
自粛の日々が続いている。
ついこの間まで白や赤の椿が咲き乱れていたが、いつの間にか小手まりが風に揺れている。
冬の間はただの枯れ枝だったはずなのにアジサイの葉が出てぐんぐん大きくなっている。
驚異的な成長をみせているのは桔梗である。昨年すべての花がしぼんでしまってもう二度と咲くはずがないように枯れてしまった。諦めていたのに、ずんずん芽がでてもう今日はすっかり桔梗の体をなしている。すばらしい生命力だ。
イロハモミジも青々とその葉を揺らしている。鳥たちがやってきてなにやら虫を食べているようである。
季節が変わったのだなと思う。
ウイルスの脅威に恐れ人間は家に閉じこもっているが自然はそんなことはお構いなく懸命に花を咲かせようと小さな努力を続けているのだ。
なんてけなげな連中なんだ。

3月に交響楽団がコンサートが開けずに減収してしまった大変だというニュースを見て、支援したいと思って、大枚、といってもたいしたことはないのだが、をはらって賛助会員になった。
当分、会員としての恩恵に浴することはないのだろうけれど、それはそれでよい。カンパと思っている。

ベルリンフィルのサイトにはいっていくと無料でコンサートを聞くことができる。
さっそく無料券の手続きをしてログインし、今日はアバドのマーラーなど聞いている。
自粛生活のなかのオアシス。
映像がついているというのはそれはもうリアル感満点であるし、PCに入っているCDやDVD、クラシカジャパンもあるにはあるが、やはりベルリンフィルのサイトで聞くというのはあのコンサートホールに行って聞いているという臨場感があるのでたまらない。
ドキュメンタリーなどもあり最高に楽しめる。

ドイツではコロナショックでどこのコンサートホールも閉鎖されている。しかし、芸術は人間の生活にとってなくてはならないということで芸術家たちの救済のために多くの財源が投入されたという。メルケル首相のスピーチを聞いて感激した。
さすがに芸術国家のドイツである。
ドイツはどこの都市でもだいたい市が独自の交響楽団をもっていてしかもそれぞれのレベルが非常に高い。
市は税金を投入して交響楽団などの芸術活動を育てる。それが民意でもある。だから芸術家たちはアルバイトなどに精をださなくても、芸術活動に専念できる。
税金が投入されているので、市民は高レベルのコンサートを低額なチケットで利用できる。ジーンズでベートーベンという風景は日常だ。
うらやましいなあ。

翻って日本の芸術はどうも敷居が高く、金持ちの道楽になってしまったように思える。
市民の日常になじむ芸術のあり方が問われているのだろう。

コロナショックで日本の芸術が危機にされされている。
一クラシックファンとしてとにかく支えなければと思う。
10万円のうち5万円は医療保健福祉従事者へ、残りの5万円はクラシック音楽関係に寄付したいと思うのである。








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新型コロナウイルスの脅威 11 教育の危機

2020-04-29 13:08:58 | 病気
新型コロナの襲来であらゆる生活が制限されている。
そもそも車でディズニーランドに行くとか湘南に繰り出すとかそういう余暇の過ごし方は時代遅れなのではないか。70年代の文化なのでやめたほうがよい。
みんな自粛生活に飽きてきて、いつ緊急事態は解除されるのか、とか、早く解除されなければ経済が危機的状態になる、と心配する声もある。
このウイルスは日本の忖度官僚政治のやり方などまったく通用しないので、今までどおりのやり方では感染拡大するばかりである。
実際、地域的には医療崩壊の危機に瀕している。
5月6日の連休明けに解除されるわけないと思う。急いてはことを仕損じるのである。

ここはもうドンと構え、国地方自治体は税金を大量に投入し、国民の生活を守るしかないだろう。
非課税世帯等は別として、中間以上の、富裕層、大企業や公務員のようなある程度の賃金が不況でも支払われる層から税金をたっぷりとって、その分を低所得層の生活保障にまわすべきだろう。
ウイルスは富裕かどうかに関係なく感染するので、もっとも医療は富裕層に有利であることに違いないのだが、感染力が強いこのウイルスは富裕層であっても脅威に晒すのだから、もう、金の力で何とかするという発想は時代遅れ。あらゆる社会階層に広く感染対策を打たねばならないのである。
今ここで問題になっているのは子どもたちの教育である。遅れに遅れている。先進国どころか途上国でもオンライン教育にシフトしているのにわが国な無能というほかはない。オンラインにシフトできずに右往左往している姿は、文科省の頭の固さを象徴している。

文科省は世界一時代遅れの省でその下部組織である教育委員会も世界一時代遅れなので、オンライン授業なんていうものについてまったくついていけてないらしい。対面式しか単位を認めないとか、ばかじゃないかしら。

after COVID-19の世界はwith vuirs なのでもう40人とか一斉にスクール方式なんて無理である。
かつてのように寺子屋方式にしたらどうか。
地域に根ざしてローカルに学校をやる。子どもの食の保障を確保し、必要なら朝食も夕食も提供する。
和気藹々の小規模な学校というスタイルで、教育保障し、後はオンラインで子どもの発達に応じて座学を提供するとか、世界とつなげる教育とか。
コロナ以後の世界では、明治以降の立身出世主義の教育は限界、まったく新しい発想にもとづくITを駆使した世界とつながるような新しい教育のスタイルがもとめられているのではないだろうか。

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新型コロナウイルスの脅威 10 在宅ワークで変わる生活パターン

2020-04-25 14:26:20 | 病気
毎日夕方になると東京の感染者数が明らかになり、増えたか、減ったかが夕飯のときの会話である。
周りでは感染したという人はいないが、有名人などが罹患したり死亡したというニュースをきき、年齢が近かったりするとどんどん身近なものになっていて、いつなんどきこのウイルスの侵略を受けるのかと思うと気が休まらない。

世の中、例年であればGWモードである。
しかし、今年はいつもとは違う。
どこかに出かけようとかだれかと会おうとか、そういうことは一切しないというのがルールである。
移動や集合、会食などはもってのほかなのである。
不要不急の外出は避けなければこのウイルスを封じ込めることはできないのだから、なんとも我慢するしかないのである。

4月にはいって、家族全員在宅ワークになって、それぞれのスペースで黙々と仕事やTV会議にいそしむ毎日である。
しかし、下手をすると一日ほとんど歩かないという生活になり、運動不足のきわみ。
で、打開策として、早朝競歩することに。
早朝といってもせいぜい6時ぐらいに起床、1時間ほど急ぎ足で歩く。
サツキが道の両脇に咲き、ふとみると白やピンクのハナミズキが坂道にそって咲いている。
そんな風景をみながら急ぎ足で坂を上り下りして1時間ぐらい歩く。
晴れの日は特に気持ちが良い。雨の日もまた楽しいものである。
毎日のことなので、いくつかルートを考え開発している。
交通量が比較的少なくて排気ガスの心配がない道を探し、できれば走っている人が少なく、美しい景色・・などあれこれ考えるのも結構楽しいものである。先日は御茶ノ水駅周辺を歩いた。空シティのあたり、ニコライ堂が美しくなんともいえない豊かな気分に浸った。

帰宅して洗濯を仕掛け、コーヒーを沸かし、朝食をとる。
新聞は時間があるので隅々まで読む。
あさの連続ドラマ「エール」を見ると8:15.
洗濯物を干し、簡単に部屋の掃除をして、それから仕事に取り掛かる。
朝の散歩は在宅ワークになり、感染防止のためにスポーツセンターが閉館になってからの新しい習慣である。
通勤時間を気にすることはないのだし、汗をかいたらシャワーもOK。なにしろ、どこへも行かないのだからPCの前にすわりさえすればもう、仕事に取り掛かることが可能である。

もともと生協の宅配を利用していたが、いまや生協の宅配は大盛況なのだそうだ。
そりゃそうだろう。宅配ならいちいちスーパーに買いに行かなくてもよいし、重たい荷物を抱える手間は省ける。
生協はいくつかあるが、好きな生協を選ぶことは可能だし、配達の曜日もいろいろ選べるのでとても便利である。
足りないものだけを近くのスーパーや生協の店舗に買いに行けばよいだけだ。パンは焼きたてが食べたいので、パン屋さんに買いに行くのだが。

在宅ワークになって、TV会議の数が増えた。このTV会議というは職場の仲間がいきなり私の書斎に入り込んでくるという土足感がある。私の場合、TV会議のおかげなのだが、机の周りをかなり掃除したのだ。カメラに映る範囲だけきれいにすればよいと思い掃除を開始したが、やりだすと10年前の資料やずっと昔の写真などが発見され、懐かしく見ている間に一日が過ぎてしまったりすることもある。
新型コロナウイルスの襲来はおぞましいが、私の書斎の整理のための時間を与えてくれたことには感謝しなければなるまい。

休日はどう過ごすか、有り余る時間、ただし、外出はままならずとくればやることはなにか。
朝日新聞の付録の冊子に昔の天声人語が掲載されているのだが、それを転写するというのをやってみた。昭和44年のある日の天声人語とか、思い出をたどりながら、書き写すというのも楽しいものである。そのうち年を重ねると写経に凝ったりするのだろうか。
家人はバルコニーの雑草を抜いたり、鉢を入れ替えたり、あれこれしている。
歌を歌ったり、短歌や俳句や詩を作ってみたり、そういうことも面白い。

100年前のスペイン風邪の流行のとき、クリムトやアポリネールが亡くなったという。
アポリネールを読んでみたくなる。
ミラボー橋だったか。
クリムトは大好きな画家だ。クリムトの絵に詩をつけた長田広さんの詩集がある。

ウイルスの封じ込めに不眠不休で戦っている医療関係者やサービス業の皆さんやトラックの運転手のみなさんとか、に本当に申し訳ない気持ちになる。彼ら彼女らに心から敬意を表したい。私ごときが手伝うのも足手まといになるので、せいぜい、感染拡大を抑止するために静かにStay homeしよう。医療崩壊を防いで、われわれの命を守るために。Stay home, Protect the National Health Survice, Save lives.

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新型コロナウイルスの脅威 9 瑠璃色の地球

2020-04-22 12:01:07 | 病気
5月の連休明けに緊急事態宣言が解除されるわけがないと思う。
東京に住んでいるものからするとウイルスの感染拡大は歯止めがかかったとは言えず、爆発的に拡大することはないものの、連日、それなりの感染者は出るだろう。悲しいことに死亡者も何パーセントかの確率で出ることが予想される。スペイン風邪にもくじけず、戦争を生き抜き、高度経済成長を支え、冷戦とベルリンの壁の崩壊、3.11を超えて、長く生きてきた年長者の人びとのやるせない気持ちが聞こえてくるようだ。人生の最終章にさしかかったところでこのようなウイルスの蔓延によって生命の危機に瀕するとは。貧しさから脱却し豊かさを求め、産業構造の大きな変化にもそれなりに対応してきたが、なんと豊かな社会とは脆いものか、と。
ウイルスの拡大の前から自国ファースト主義が跋扈していた。自分の生活のみが豊かになり儲かればそれでよいとばかりに投資投資と続けあぶく銭で一瞬刹那の快感に浸ってきた。
効率が追及され、あらゆるものに効率が求められるようになり、われわれもそういった風潮を支持し、それに麻痺してきた。
医療、福祉、教育など生活を支える基盤にも効率は求められその結果、削減の嵐が吹き荒れていたのである。
イギリスもアメリカも効率主義のもと、社会福祉国家をずたずたにし、効率、市場化のなかで医療、福祉、教育は瀕死の状態だった。
そんなときにコロナがやってきた。
ウイルスはわれわれの法も規則も越えて暴れまわっている。
こんなときこそ、だれもが平等にアクセスできる社会保障制度が必要である。そのことをいやというほど知らされているのが今の私たちである。
どんなに金を積んでもウイルスは避けてくれはしないのだから。金なんかいくらあってもだめなものはだめなのである。

これからは、あらゆるものがオンライン化される。
診察も教育も銀行も役所もオンライン化されるだろう。
そしてsocial distanceが人と人との関係を変化させるだろうが、情報は空間を超えるのだから、遠く離れていても人とつながることは可能である。
物理的に隔たりがあっても精神的に緊密であることは可能だ。
そこには想像力、イマジネーションが豊かであるかどうかが問われるのだ。
いかに豊かな想像力でわれわれの社会を再構築するか、それが問題だ。
ウイルスにやられっぱなしのわれわれだが、地球という星に住むものという一点でつながれる。
地球の裏側に住む人の暮らしをイメージし暖かい会話を通して励ましあうことは可能だ。
金にまみれた社会からそういった慎ましい社会への転換が起こるのではないか。
それが最後の希望である。

こんなときに聞いているのは
瑠璃色の地球、という歌である。
 井上芳雄が歌っているのが好きだ。



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新型コロナウイルスの脅威 8 在宅勤務とTV会議

2020-04-21 11:11:36 | 病気
新型コロナウイルスの脅威は依然として継続しており、われわれの希望的観測に反して、緩和されることはない。
死亡者も決して減ってはいないようである。むしろ、人知れず自宅で亡くなっていたというような変死というケースもあるらしく、そういうケースをいれると死亡者数は格段に上がるといわれている。

イギリスでは高齢者施設でかなり感染が広がってしまって、相当数の高齢者が亡くなっているとのことだが、公式の死亡者数にはカウントされていないと批判が広がっていることが先日報道されていた。もしこれが本当ならイギリスという国はとんでもない国だと思う。
年金生活者や介護が必要な人たちはノーカウントだなんて、生産力があるかないか、労働力として税金を払える人かどうかでトリアージュされるなんて、成熟した社会とはいえない。とはいうものの、医療の現場では、医療崩壊が起きれば、あからさまな年齢差別によるトリアージュは起こるだろうし、現に起こっているかもしれず、ウイルスの脅威は人間の選別にまで及び、ただただいやな感じである。
自粛などどこ吹く風とばかりに、キャバクラにいったりナイトクラブや居酒屋で飲んで騒いで挙句の果てに感染し重症化し入院してきた中年や若者、一方、それまで長年、社会のために身を粉にして働いてきた人が定年後年金生活になってやっと穏やかな老後をと考えていたのに市中感染で感染してしまって重症化してしまった、という場合、どちらを助けるか、となったらどうか。バカやって感染したやつなど助ける必要があるのか?と素朴に思ってしまうのは過激で差別的だろうか。

ポストコロナとかアフターコロナの社会はどうか、という議論が出始めている。
教育は大きくオンライン教育に舵を切ることになり、猫も杓子もオンライン教育の大合唱である。
対面に勝るものはないとはいえ、アフターコロナの時代にあって、コロナとともに生きるわれわれの社会は、もう対面を大切にする、そういうものを中心にした教育は、教育だけでなく、あらゆるサービス業を含め、転換せざるをえない。それはもう諦めるしかない。

それにしても、在宅勤務に変わり、すべての会議がTVとなり、通勤時間がなくなり多くの時間を手に入れたのだが、結局、会議会議の毎日で1分刻みで会議がはいることもあり、目は疲れるしそれなりの疲労感がある。
カメラ目線で部屋を掃除し、書棚を整理整頓し、古い書類をバンバン捨てた。
通勤時間ゼロになり体は楽になったが、在宅時間の長期化は住環境の整備が必須である。
よい住空間、個別空間、気分転換可能な庭、緑の多い公園・・・などがあればよいが、小さな2LDKに家族4人というような場合には、息苦しくて家族関係も悪化しそうである。おまけにTV会議をする人が必ずしも一家に一人というわけではないから、時間差、会議中は家族全員が物音をさせないということになり、ストレスがかかる。
幸い、我が家の場合はすこしは住環境に恵まれているので、在宅時間の長期化もそれほどストレスを感じることはない。それぞれの部屋に入ってしまえば何をしていてもわからない。
連日、救急車の音に沈痛な気持ちになる。
また、救急患者が出たのか。肺炎を起こしているのだろうか。などとあれこれ考えるとさめない悪夢を見続けているような暗い気持ちになるのである。



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