3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

真珠湾攻撃 和解の証に

2016-12-29 12:14:17 | 日記
安倍首相がオバマ大統領と真珠湾で和解をしたというニュース。これは歴史的な出来事だとおもう。
しかし、世の中電通の社長辞任のほうをトップで報じている。
しかも、この記者会見、記者たちの突っ込みが足りず、間が抜けていた。確かに天下の電通の社長の辞任だから、トップニュースなのかもしれないが、
やはり、とりあげるべきニュースは真珠湾だろう。NHKの記者も突っ込めず、ふぬけ質問ばかりでイライラしてしまう。

トランプへの移行の前に念押しの日米同盟、
大統領の広島訪問、安倍の真珠湾訪問で、なんとか日米の関係が強固であることを印象付けようと必死である。

それにしても、真珠湾で戦死したアメリカ兵の御霊が・・・と言っているのを聞いて、そんなに和解したことを強調したいのなら、もうかつての敵味方ではないのだから、
いっそ、アメリカ兵も戦没者として靖国神社に合祀したほうが良いのではないかと思ってしまう。

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国際報道2016 今年の世界の重大ニュース

2016-12-29 11:13:17 | 日記
毎日ウイークデイは、10時から国際報道2016を見ている。
8時45分から首都圏ニュースをみて9時から河野キャスターのニュースウオッチ9をみて、ちなみに鈴木アナは大嫌いなので、すみませんが、鈴木アナには知を感じないので、なぜかわからないのだが、
どうでもいいところでうなずいたりして、どうしても、わかっているとは思えない節がありまして。

ニュースウオッチ9もワイドショーのような始まり方でうんざりなのだが、仕方なくほかに見るものがないので見ているという感じである。
リアリティを出したいためにドラマチックにやろうとするが、最悪である。
殺人事件とかなんであんなにドラマやワイドショーのようにやる必要があるのかわからない。バカと思ってしまう。


10時から国際報道になるとやっとホットして世界のニュースを見ることができるのである。

それにしても、岡本行夫はいいとして、なんで壇蜜?
NHKのディレクターに壇蜜ファンがいるのだろうか。NHKにコネがあるのだろうか。
Eテレの短歌か俳句にもでていて、ほかの神田川かなんかを紹介する番組にも出ていて、最悪とはいわないが、やはりあの不健康な雰囲気とむりやり知的にみせようとしている感じは、いやである。
無理やりお堅い国際報道2016の雰囲気を破ろうとして壇蜜を起用するのかもしれないが、そういうやり方は逆効果であるのでやめたほうがよい。というかやめてほしい。というか、ただのおやじ目線としか思われず、女性の視点をいれるなら、壇蜜ではないと思うのである。

増井渚の滑舌さわやか、きびきびしていていいので支持したい。頭の回転が速くて気持ちがいいのである。
田中元ワシントン支局長もいいのである。
男性アナは交代したらしいのだが、どちらもよいと思うのである。
なので、国際報道のファンなのである。頑張ってほしいのである。

時折出てくる岩田はこれまた不健康な女で嫌な感じなのである。痩せすぎで、高いスーツを着ても似合わず。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私とって、今年の重大ニュースはなんといっても
トランプショック、ヒラリークリントンの敗北とイギリスのEU離脱ショック、ニースとベルリンのテロ、
アメリカとキューバの国交正常化はすばらしい。
アジアでは、フィリピンの大統領の不規則発言、韓国の大統領の弾劾、中国の南シナの問題、
その他シリア難民でヨーロッパの動揺と右傾化、カストロの死。

カストロの死といえば、カストロは一切の偶像崇拝を排したというのをきいて、尊敬してしまった。
キューバは12月27日、人民権力全国会議(国会)を開き、11月に90歳で死去したフィデル・カストロ前国家評議会議長の銅像や記念碑の建立を禁止する法案を全会一致で可決した。個人崇拝を拒否した故人の遺志を尊重した、とのこと。

肖像画とか銅像とか作りたがる独裁者だが、カストロはそうではなかったのである。

キューバはアメリカより豊かではないかもしれないが、ホームレスはゼロ、高校までは学費もゼロ、医療費はゼロである。
アメリカに比べれば、もしかしたら、幸福度は高いかもしれないとさえ思えてくる。

カストロという大物がなくなって、世界の戦後のある時代が本当に終わってしまったような気持である。あとはくだらない二世三世ばかりとなった。

狂乱的な資本主義の暴走に歯止めをかけるのは、社会主義的な政策なのかもしれないと思うのである。
物がなくても、生活の基礎が安定的に供給されれば、ある程度の豊かさを感じられる。そいういう暮らしなら人は幸せなのではないだろうか。
電通などを見るとそう思う。
何時間も残業をして、お客からクレームをつけられ死ぬほど嫌な思いをして働き続けるというのは、資本主義の悪い面が究極的に出たように思う。
高い給料、電通社員であるという誇りと羨望のまなざし、しかし本当の姿は疲れ果て精神を病んでいるだなんて。

だれよりも速く、高く、大きくなどというのは幻想なのであるから、
早く我々も気づいたほうがよい。

ゆったりとした人生の歩み方をまじめに考える時に来ているのである。
来年は、本当の豊かさをどう作るかを考えることが必要である。
テーマにしようと思うのである。






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ユーミンの歌の思い出

2016-12-28 14:27:10 | 日記
荒井由実、結婚して松任谷由実になった。
中島みゆきと双璧をなす日本のJ-popの巨匠である。

どちらも甲乙つけがたい。
中島みゆきをきけばいいなあとおもうし、ユーミンをきくとそうそういい歌だよねって思う。

ユーミンの歌の思い出といえば、いろいろあるんだが、
今思い出すのは、

幸せになるためにっていう歌。
学生時代にそのときつきあっていた人が海外に1か月ほど研究で行った。
クリスマスに帰ってくることになっていた。
クリスマスが待ち遠しかった。
ゼミのあと、歩道橋を渡るとき、ふと、この歌を思い出しひとり口ずさんだ。
♪離れているけど、同じ愛みつめ♪というところが特によかった。
晴れ渡る冬の空。歩道橋からみた空の青と強い風、都会の街並みを思い出す。
人生はこれから始まるんだと思った。
希望に満ちた日々だった。胸が高まるあの感覚をその人の面影とともに今も忘れることができない。
懐かしい。

それから、ユーミンの歌の思い出といえば、
朝陽の中で微笑んで、という歌。
まじめなサークルにはいっていた。
読書会をしていた。
近代日本思想史なんかを読んでいた。
でも、そこは青春真っ盛りの大学生。
まじめに読書会をしていたけれど、私の友人は読書会のメンバーのある人が好きだった。
で、いつもその人のことを話題にしていた。

しかし、恋というのは必ずしも成就するものではない。
話題のその人が年賀状をくれた。彼女にも私にも。
私の年賀状には、朝陽の中で微笑んで、の歌詞とともに年頭のあいさつが書かれていたのだった。それは愛情に満ちたものであったのだ。
友人の年賀状には何も書かれておらず変哲もないものだった。

というわけで、朝陽の中で微笑んで、を聞くと、あのまじめな読書会のあの人を思い出す。
近代社会思想史のおかたい話とともに、恋の三角関係について思い出す。

今は、みな、年を取ってしまった。高級官僚になったというあのひと。
今でも、朝陽の中で微笑んで、を街角で聞くことがあるのだろうか。
近代日本思想史の読書会を思い出すことがあるのだろうか。
成就することのなかった恋、あの読書会にいた女子学生のことをどんな風に思い出すのだろうか。
今ではすっかり変わってしまってすれ違ってもわからないとは思うのだが。
朝陽の中で微笑んで、を聞くと思い出す。読書会のワンシーン。



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2016年12月のバルコニー便り

2016-12-25 12:15:55 | 日記
気が付けば、今年も最後の週になってしまった。
バルコニーはもう野菊も終わってしまって、もみじの葉もみんな散ってしまって本当に寂しくなってしまった。
あのカンカン照りの夏のギラギラしていたころを思うと、同じ庭とも思えない。
日差しも弱弱しく、曇った日などはうつうつとしてしまう。

椿のつぼみがたくさんあるが、一つ二つ咲いて、そのあとしばらく、音沙汰なしである。
昨日、つぼみがふたつほころんでいるのを見つけたので、1週間以内に咲くかもしれない。

寂しい庭のなかでも南天は例外で、元気である。その赤い色がますます赤くなっていて、庭に小さなあかりをともしているようだ。
冬の庭に彩を与えてくれるのは、椿と南天ということなのか。

それでもよくみると梅の木に芽がついている。
寒い北風にも耐え、春をこうやってじっと待っているのかと思うと梅の強さを感じる。

そうそう白いゼラニウムも咲いている。元気なのが不思議である。白くて真ん中に小さなピンクの色がついているゼラニウム。
この10年ぐらい我が家の庭にあって親しんできたのだが、その白いのがものすごい強い生命力で咲いている。
一度、コガネムシにやられて枯れそうになったが、息を吹き返し、緑色濃く、咲いている。長い付き合いのゼラニウムである。

遠くからどうやって見つけるのかわからないが、ヒヨドリが椿をめがけて飛来する。梅の木にとまっていることもある。梅の木は頑丈なのでヒヨドリの体重を支えるのに適しているのだろう。
ヒヨドリは、窓のこちらにいる我々の気配を感じるとすぐに逃げてしまうが、それでも椿の蜜に吸い寄せられるようにしてやってくる。

ふとみるとヒヨドリが恍惚として椿の蜜を吸っている。
口の周りに黄色い花粉をつけて恍惚としているのをみると、なんだかおかしい。
おいしいものが好きなんですねと思う。

冬の庭は風が強い日もあって、洗濯物が飛んでしまう危険があるのだが、
南天の赤とぽつぽつ咲く椿と長い付き合いのゼラニウム、そして時折飛来するヒヨドリになごむ。

冬至も過ぎた。これから少しずつ昼の時間が長くなっていくはずだ。
世の中は騒がしい年の瀬であるが、我が家の庭は静かに新しい年の訪れを待っている。





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終活-私の場合

2016-12-17 18:56:17 | 日記
自分の祖父母、両親、夫の両親と身近なものの最期を見届けた。
次は自分の番である。

自らの最期の在り方を考えねばならぬ。

延命措置はしない、ということは決めている。
葬儀はどうするか。
 無宗教で、音楽葬、季節の花で飾り、ごく親しいものだけの家族葬のようなものでよい。
  R.シュトラウスの四つの最後の歌の第4曲(ボニーのもの)をかけてほしいなあと思う。
  シューベルトもいいよね。
 
墓はどうするか。
 樹木葬にしたいが、まだ、場所を得ていない。
 思い出の川に一部は散骨とする。

荼毘に付す どこで
 都内だと町屋、新宿、幡ヶ谷あたりとなる。

しかし、それがどうも気のりがしない。

両親が荼毘に付されたと同じところがいいかと思ったりする。
最近は都内のいわゆる焼場は混んでいるとか。
何日も冷凍にされ待たされるより、少し遠いが父母を火葬したと同じところはどうか?と思ったりする。
たぶん、都内よりはすいているのではと思うのである。

父や母を見送った寂しい山の煙を思い出す。
私もあのように煙になるのだと思った。
そう、それでよいのである。

東京の混んだ火葬場でまるでベルトコンベヤーのような雰囲気はどうもなじめない。

ゆっくりと山の煙となる、そんな景色のなかで、荼毘に付されたいと思う。





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