癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

前知内町教育長 田島隆氏の逝去を悼む

2014年01月26日 | 日常生活・つぶやき

大学の同窓会でご挨拶されるあり日の田島隆氏


 昨日の新聞で、前知内町教育長 田島隆氏が亡くなられたことを知った。最近、入退院を繰り返していて、だいぶ弱っていたことを耳にしていた。87歳とのこと。個人的にも、若いころから退職するまでの40年近く、何かと気にかけてくださり、とてもお世話になった方だった。ずっとご無沙汰していたこともあり、函館市内で執り行われた告別式に出席してきた。

 氏との出会いは、こちらが教員になったときからである。当時は函館附属小教員で、その後、北海道教育庁渡島教育局指導主事となられた。毎年の公開研究会等での授業を見ていてくださっていたのかもしれないが、なぜかとても気にかけてくださり、いろいろお会いする機会ごとに、親しく励ましの言葉をいただいたものだった。

 その後、1974年から2002年までの28年間の長きにわたって(当時の日本一の長期)知内町の教育長を務められ、最後の10年ほどは渡島管内をはじめ、北海道だけでなく、全国の町村教育長会の会長なども務められた偉大な方であった。しかし、そのような肩書を感じさせることのない気さくな方で、心細やかな誰からも好かれる人格者であり、根っからの教育者であった。

 もっとも古い氏との個人的な強烈な記憶は、仕事の場ではなかった。20代のころの寒い夕方だったと思う。街頭で一人で組合のチラシ配りをしていた。そこへ渡島教育局からの退勤途中の氏が通りかかった。「この寒いのにご苦労さんだね~。それ全部なくなるまで帰れないんでしょう。私が全部もらってやるよ」と言って、かばんを開けてそれをひったくるように入れて立ち去っていった。本来的には良くないことだし、断るべきだったところだが、その温かな心遣いについ甘えてしまった・・・甘酸っぱい思い出である。

 こちらが教頭や校長になったときには、辞令交付式で、管内教育会会長として臨席されていた氏から、直接励ましやお祝いのお言葉を掛けていただいた。教頭は管内一若かかったし、校長は全道一若かったこともあり、「私が若いころから見込んでいただけのことはある。これからも期待しているよ・・・」ととても喜んでくださった。
 
 また、校長としての最初の勤務校が国道5号線沿いの八雲町の黒岩小学校だったこともあり、札幌出張のときなど、自ら車を運転して、「ちょうど一休みしたくなるところにあるんだもの・・・お茶を一杯よばれに寄ったよ」と良く寄っていただき、いち早い教育情報等を提供していただいたものだった。

 管理職になってからは、講演を拝聴する機会が多かった。読書家で勉強家だったこともあり、いつ聴いても斬新で具体的で感動を与える素晴らしい講演ばかりだった。教員相手の講演も素晴らしいが、PTA相手の講演が大人気であちこちからモテモテだった。いつも小さく切った新聞のチラシの裏にメモした紙を手にお話する姿が印象的だった。

 こちらが退職する前年に一度だけ、わずか1日だけだったが、ご一緒に仕事をする機会に恵まれた。それは、二人で組んでの教員採用試験の面接試験官だった。「先生の好きなようにやっていいよ」と言われ、一人ひとりの受験者への評価や印象が妙に一致したことが誇らしかった。

 そして、極めつけは、こちらの退職したときだった。和紙の便箋8枚に細かな筆字でびっしり綴られた手紙をいただいた。「一度も知内町には来てもらえなかったけど・・・」で始まり、いつどこで自分のこんなことまで見ていらしたのだろうと思うほどの内容に、感激の涙を流して読んだものだった。

 今日の告別式会場も、このようなお人柄に惹かれた多くの懐かしい教育関係者で埋め尽くされていた。~合掌~ 
 

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