北斗市当別のおしまコロニーの入口に「寿楽園」と書かれた古い「看板が立っている。当初は、コロニーの関係施設の名前かと思っていた。しかし、数年前になって、葛登支灯台の裏山にある島崎藤村の妻冬子の実家、当時の豪商・秦家(漁網問屋)の別邸庭園だったことが判明。
ちなみに、島崎藤村の出世作は「破戒」だが、自費出版するべくその資金を調達するために明治37年に義実家のある函館を訪れ、妻の実父である秦慶治から400円を援助してもらったことは有名な話だ。この資金援助がなければ、「破戒」は生まれなかったし、藤村という作家も存在しなかったと言われている。この「寿楽園」には、のちにその秦家に恩義を感じて贈ったとされる藤村の碑文も現存している。
さて、この「寿楽園」、今はすっかり荒廃しているが、ネット上にもその情報や探訪記が公開されている。ざっと概略を記せば、次のようなところだったらしい。
藤村の妻冬子の姉浅子の夫秦貞三郎が造営。大正10年(1921)貞三郎の還暦を祝う碑が建ち、藤村が「寿翁遺跡碑文」の一文を草している(寿翁は貞三郎の号)。明治~昭和時代前期の児童文学作家,小説家巌谷小波(いわやさざなみ)の「花長者水にも富める眺めかな」の句碑と共に現存。今は荒れているが、本州から名石を運び、大小7つの池にハスが咲き、洋風の建物があったという。
昭和14、5年頃は花鳥風月を楽しむ人々の訪れが多く、賑わいも最盛に達し、函館の花柳界から遠出した芸者達が総出で遊んだという。太平洋戦争が始まるとともに庭内も荒れ、戦後は一時期、原野に還るほどになった。
その後、葛登支岬にある稲荷神社を再建した人物が、寿楽園の荒廃する様を嘆き悲しみ、私財を投げ打って10余年の歳月をかけて再建させたこともあったという。
この秦家の子孫は現在の秦商事だが、この土地は、現在は函館市内のとある観光ホテルが所有しているらしい。元の遊歩道だったところは粗刈りながら刈り払いがされていた。誰かが、ときおり手入れをしているようだ。
入口に建つゲートの跡?
その右側に建つ比較的新しいレストハウスの建物 これが、私財を投げ打って10余年の歳月をかけて再建させたという人物が営業していた店だったのでは?
ゲートの先には刈り払われた道が続く。
庭園内の昔の遊歩道跡は粗刈りながら刈り払いがされていて歩きやすかった。
石の門と朽ちて倒壊した木造の門
その左手の石の門の先に建つ石造りの門扉?
そばに碑文があり、赤御影石に彫られた石碑も
秦寿翁之奥津城~貞三郎の墓、直ぐ後ろに石造りの納骨堂?が建っている
大正6年建立の金婚記念碑
~碑文からは、秦家初代と二代目の業績や貞三郎がこの地に植林事業を展開し、寿楽園を建てた経過等が読み取れる。
壽翁還暦の碑~上の句は「花長者水にも富める眺めかな 小波」 この下の碑文が、大正10年に島崎藤村が、壽翁還暦の記念に残した「壽翁遺跡碑文」。ちなみに、上に刻まれている巌谷小波の句碑は、上磯町歴史散歩によれば昭和14、5年ごろに建ったとのこと・・・ということは、もともと藤村の碑文とは別物だったのだろうか?
ちなみに、巌谷小波の句碑がここにある由縁は不明。
こちらが島崎藤村の残した碑文
~この碑文を贈ったときには、妻冬子はすでに鬼籍の人となっている碑文からは、貞三郎の生い立ちや業績、この庭園の造成や庭の様子、一般へ開放したことへの想いなどが読み取れる。
名石を配した池や石橋の跡~藤の蔓が絡みついている
かつてはハスの花が咲いていたという7つの沼の一つ
あちこちに立派な松、桜、梅などの庭木が植えられている。しかし、洋風の別荘の建物はどこにあったのか分からなかった。いずれは、どこかで整備して、昔の様子が復元されることを願いたいものである。
ちなみに、島崎藤村の出世作は「破戒」だが、自費出版するべくその資金を調達するために明治37年に義実家のある函館を訪れ、妻の実父である秦慶治から400円を援助してもらったことは有名な話だ。この資金援助がなければ、「破戒」は生まれなかったし、藤村という作家も存在しなかったと言われている。この「寿楽園」には、のちにその秦家に恩義を感じて贈ったとされる藤村の碑文も現存している。
さて、この「寿楽園」、今はすっかり荒廃しているが、ネット上にもその情報や探訪記が公開されている。ざっと概略を記せば、次のようなところだったらしい。
藤村の妻冬子の姉浅子の夫秦貞三郎が造営。大正10年(1921)貞三郎の還暦を祝う碑が建ち、藤村が「寿翁遺跡碑文」の一文を草している(寿翁は貞三郎の号)。明治~昭和時代前期の児童文学作家,小説家巌谷小波(いわやさざなみ)の「花長者水にも富める眺めかな」の句碑と共に現存。今は荒れているが、本州から名石を運び、大小7つの池にハスが咲き、洋風の建物があったという。
昭和14、5年頃は花鳥風月を楽しむ人々の訪れが多く、賑わいも最盛に達し、函館の花柳界から遠出した芸者達が総出で遊んだという。太平洋戦争が始まるとともに庭内も荒れ、戦後は一時期、原野に還るほどになった。
その後、葛登支岬にある稲荷神社を再建した人物が、寿楽園の荒廃する様を嘆き悲しみ、私財を投げ打って10余年の歳月をかけて再建させたこともあったという。
この秦家の子孫は現在の秦商事だが、この土地は、現在は函館市内のとある観光ホテルが所有しているらしい。元の遊歩道だったところは粗刈りながら刈り払いがされていた。誰かが、ときおり手入れをしているようだ。
入口に建つゲートの跡?
その右側に建つ比較的新しいレストハウスの建物
ゲートの先には刈り払われた道が続く。
庭園内の昔の遊歩道跡は粗刈りながら刈り払いがされていて歩きやすかった。
石の門と朽ちて倒壊した木造の門
その左手の石の門の先に建つ石造りの門扉?
そばに碑文があり、赤御影石に彫られた石碑も
秦寿翁之奥津城~貞三郎の墓、直ぐ後ろに石造りの納骨堂?が建っている
大正6年建立の金婚記念碑
~碑文からは、秦家初代と二代目の業績や貞三郎がこの地に植林事業を展開し、寿楽園を建てた経過等が読み取れる。
壽翁還暦の碑~上の句は「花長者水にも富める眺めかな 小波」
ちなみに、巌谷小波の句碑がここにある由縁は不明。
こちらが島崎藤村の残した碑文
~この碑文を贈ったときには、妻冬子はすでに鬼籍の人となっている
名石を配した池や石橋の跡~藤の蔓が絡みついている
かつてはハスの花が咲いていたという7つの沼の一つ
あちこちに立派な松、桜、梅などの庭木が植えられている。しかし、洋風の別荘の建物はどこにあったのか分からなかった。いずれは、どこかで整備して、昔の様子が復元されることを願いたいものである。
海岸からの道もあるのですか?今回はコロニー入口の先から旧国道へ上がりました。
ゲートや喫茶店(らしきもの)は、その後一時個人的に営業をしていたときもあったようです。
茂辺地に抜ける旧国道の山道から、ちょっとそれた所でしたが、なかなか風情のあるお庭でした。
ほとんど人の訪れることのない場所だったせいか、時折熊の出る場所でもありました。
海岸の国道からの入り口ができたのは、かなり後のことでしたし、写真にあるゲートや喫茶店(らしきもの)も、当時は全くありませんでした。
大きな銘木(らしきもの)や池があって、野鳥も沢山いました。
いいお庭でしたよ。
考えてみると、もう30年以上も前のことです・・・。
立派な史跡ですよね。所有者か北斗市辺りで整備して、公開してくれるとありがたいですね~。
ここの存在を知ったのも、黒ウサギさんのブログでした。ようやく念願が叶い、行くことができました。
場所に行き着くまでには、ちょっと右往左往しましたが、着いてからは刈り払いされていて良かったです。
20数年前には入口にあったレストハウスが営業していたのでしょうね?
今の秦商事のお嬢さんの旦那は同職で、昔同じ職場に勤めたことがあります。奥さんの関係でクリスチャンでした。しかし、奥津城は神道の墓のはずです。その後、改宗したのかな?
歴史的にも興味深い場所、もう少し気楽に入れたらいいのになぁと思っています。
今年は草刈されたようで私も楽に行く事が出来ました。
とはいえ、寿楽園自体は荒廃しきっていますね。
心の目で往時の様子を見るしかありません。
20数年前は、まだ立派な庭園だったと妻が言ってましたから、手入れをして復活する事をねがいます。
奥津城と書かれた墓の主も喜ぶと思いますね。