癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

函館公園とその周辺巡り

2011年10月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
 第68回箱館歴史散歩の会のテーマは「函館公園巡り」・・・日本最初の市民公園「函館公園」とその界隈を廻った。

<順路> 亀井勝一郎文学碑~石川啄木宅跡~函館公園(高田屋嘉兵衛の松、水道記念碑、石川啄木歌碑、最古の博物館、白川橋、桜の地碑、旧函館図書館、ハーバー遭難記念碑、箱館通寶銭座の碑)~瀬戸座~函館八幡宮~津軽要塞司令部~柳川亭跡~浅田楼跡~高野寺~日本最初のビアホール

○函館公園
~明治12年開園の日本で3番目の市民公園(明治8年横浜公園、明治9年の神戸公園に次ぐ)。当時畑地だった16000坪に、渡辺熊四郎が中心となり、寄付金を集めて、市民総出で造園作業に取り組んだことは有名。英国領事ユースデンの勧めで造られたことになっているが、横浜や神戸も含めて、外国との条約に組み入れられていたとのこと・・・これは初めて知った。

          
○亀井勝一郎文学碑
~昭和44年建立、碑文は自筆によるもので、「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す」と彫られている。ここでは、亀井氏の人生と逸話が説明された。ずっと函館弁だったことや太宰治と仲が良く、太宰が自殺するまで近くに住んでいて親交があった・・・ことなどが興味深かった。

          
○水道記念噴水塔
~明治22年に水道が完成した際に、当時、総工費の半分に相当する水道鉄管を納めた英国のイリス商会がお祝いに贈ってくれたもの。現在のものはレプリカで、本物は水道局で保管しているとのこと。2基贈られ、もう1基は北海池に据えられたが壊れてしまった。

          
○石川啄木歌碑
~昭和28年丸井今井百貨店のが建立。「函館の 青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌矢車の花」と彫られているが、この字は、いろいろなものに残る筆跡の字を集めて拡大して彫ったとのこと。

          
○現存する日本最古の「旧函館博物館第一号館」
~明治12年、開拓使函館支庁が博物場として建設。近くから出土した先住民族の遺品や土俗品、珍しい動植物を集めて展示公開した。オープン時には、当時3万人の人口の半分に当たる1.5万人が押しかけ、その年だけでも4.2~4.3万人が入場したとのこと。

          
○ハーバー遭難記念碑
~明治7年、ドイツの函館駐在代理領事ハーバーが、この向かい側でわざわざ外国人のいる函館へやってきた排外思想の旧秋田藩士に斬殺された。大きな外交問題に発展しそうになったが、国の対応が素早く適切だったので、ことなきを得たとのこと。

※公園内では、このほかに、白川橋、旧函館図書館、箱館通寶銭座の碑、瀬戸座の説明をいただいた。

○旧函館図書館~昭和2年に竣工。当時最新の耐火素材として注目されていた鉄筋コンクリートで建設された。函館に現存する最古参のコンクリート建築である。この書庫の設計者は、東京駅や日本銀行本店の設計で知られる、明治建築界の大家・辰野金吾が担当。施工は地元函館の棟梁・村木甚三郎。函館区公会堂と同じ人物。

○協同館跡~外人接待用の公館。明治12年の大火で類焼したが、当時黒田開拓長官が同情して、札幌の自宅として切組んであった建物の材料を函館に寄贈して、その頃落成した函館公園に「協同館」が復興した。それが西洋料理店となり、ホテル西洋軒となり、図書館となった。

          
○浅田楼跡地(現在の市営谷地頭温泉の地)~70歳のときに函館公園の設計・施工を担当した浅田清次郎の経営していた料亭跡。浅田清次郎は設計だけでなく、人夫賃や1日2000個のおにぎりを拠出したとのこと。白川橋も寄付。

※この他に、柳川熊吉の経営していた柳川亭跡地、勝田温泉跡地での説明もあった。

         
○高野寺~(我が家の菩提寺)道内唯一の彫刻部門の重要文化財・大日如来坐像(檜造り)が本尊。この大日如来は高野山金剛峯寺大日堂から下付されたもので、藤原期作成と言われている。明治17年開基。大正5年に現在の地に移転。本堂は二度の火災後の再建しているが、本尊はその都度運び出して難を逃れている。北海道三十三観音霊場1番札所。

         
○函館麦酒醸造所跡~明治31年渡辺熊四郎が創設。金沢正次が北海道産の大麦を原料として赤・黒の2種類のビール「函館ビール」を醸造。1階で製造し、2階が「函館ビーヤホール」だった。明治32年の「恵比寿ビアホール」が日本最初と言われているが、こちらの方が古い。


★次回の69回は、10/21(金)10:00~「東雲町、大手町、若松町巡り」

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