21歳の夏、私は実母とお別れをしました。病気がわかり入院をしてわずか2か月ほどで母は他界をしました。
そのころはまだ家族が病室に泊まることを病院の方から勧めてくださったりもしたので、妹と交代で寝泊まりをしました。弟は高校一年生でした。
母を喪ってからも大学に通ったり、アルバイトの家庭教師を続けていましたが、自分の存在の頼りなさに時々めまいのようなものを覚えました。
若い時にありがちな、全てが自分中心で、自分の姿がこの世から消えてなくなってしまうような衝動にかられたのだと思います。
嘔吐、めまい。
その言葉をたよりにサルトルや大江健三郎の作品に触れたのはこの頃です。
幸い私は文芸学部に通っていましたので、フランス文学の授業も、日本の古典の授業も、美術の授業も、東洋思想の授業も自分の気の向くままに受けることができました。すべてに浅くでしたが、それらに触れることは何よりも私のリハビリになりました。
やっとこの頃、短い距離ですがお散歩をしたり、近くの美術館にいってみようと思うようになりました。何もこんなに暑い中をと自分でも思いますが、私は夏生まれで、しかも母の命日も近いので、41年前にお別れをした母に今頃になってやっと守ってもらっているような気になれているのだと思います。
佐橋のことは、まだまだ乗り越えられていません。今まさにリハビリ中です。
そんな中、森芳雄の作品に囲まれて過ごさせていただけることを大変幸せに思っています。
母の時とは違って、私の姿がおぼろげになるのでなく、私は今日もこうして図々しく生きて、生きて喜んで、私ではなく佐橋の影が薄まっていくのを感じています。
けっして消えることはないけれど、こうやって夫であった人の影は私のなかで薄く、けれど今までで一番恋しく、愛おしい影になるのだと思います。
人と人の一番美しいつながり。
それは、生死を超えたところにあるのかもしれません。
母子、夫婦、、共に暮らしている間に少しづつ歪んでいったその関係を、一番確かで美しいつながりに〜生死を超えて〜時が自然に正していってくれるのかもしれません。
これから佐橋と私の関係はきっと正しいほうへ、より美しいほうへ導かれるのだと思います。
森芳雄をみなさまにもう一度見直していただきたいと思う気持ちは、今ここに書かせていただいた。。その永遠性についてです。きっと弥栄画廊さんもそういうお気持ちでこの作品たちをお持ちになり、かわいがられたきたのだと思います。ひとつひとつの作品の額の違いを見ればそれがよくわかります。
森芳雄は家族を愛し、とても大切にしました。戦後の貧しい生活の中で森は「自分は妻子の生活を護るためにも、絵の売れない芸術家であるよりも、まづ勤勉な職人でなければならぬ」と言っています。そして、その愛は1957年に19歳の息子さんをロッククライミング中の事故で喪ってしまってからは「永遠」のものになったように感じます。
先日の美術館訪問に刺激を受けて、今日は三好達治の詩をみなさまにご紹介しようと思います。
乳母車という詩です。
日本の近代という時代は私たちに沢山の宝物を残してくれたと思います。
この詩のように、具体的にどうだと説明できないもの、言葉でありながら言葉にならないものを伝えてくれるのが本当の芸術だと今深く感じています。
森芳雄の作品にそれをお感じいただければ幸せです。
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹なみきのかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ
赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びらうど)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹なみきのかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ
赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びらうど)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
※上の画像の作品「ひなた」にお納めのお約束を頂戴いたしました。