ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学附属病院外科病棟。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

東京大学附属病院南研究棟の北に建っていた病棟。南研究棟の東北角の辺りから撮ったものらしい。撮影時の状況はすっかり忘れていて、写真の建物がどこにあったのかなかなか分からなかった。1986(昭和61)年の住宅地図には「外科医局棟」、1974(昭和49)年の地図では「神経外科外来」となっている。従って、『日本近代建築総覧』の「東京大学附属病院外科病室、建築年=昭和15年、構造=RC3階建」になると思われる。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)に「内田祥三の構想に基づいた病院地区の震災復興は、1940(昭和15)年の外科病棟一部竣工を最後に第二次世界大戦開戦前に終焉した。」とあり、その「一部竣工」の姿というわけだ。外観は内田ゴシックと言われる様式ではなく、病室の前にベランダを設けたモダンなスタイルになっている。
写真左奥が「中央診療棟1」(「新中央診療棟」として1987年竣工)で、写真の病棟のところには、今は「中央診療棟2」(2006年竣工)が建っている。

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東京大学好仁会。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

南研究棟の裏手にあった建物。写真で判断すると、2階建てRC造の四角い建物が2棟直列に並んでいる。1階は廊下と小部屋でつながっている。プレハブの小屋を屋上に載せて増築していて、その間に廊下を渡している。下の写真は無縁坂の通りから撮ったもので、つまり建物はその通りに沿ってすぐ内側に建てられている。昭和22年の航空写真に写っているので、戦前に建てられたのかもしれない。
1986(昭和61)年の住宅地図では、手前が「好仁会」、奥が「理容・クリーニング・寝具・会議室」、1974(昭和49)年のでは、手前が「好仁会」、奥が「職員食堂・特別調理室一般もOK」という記載。
今は鉄門(2006年5月に再建)を入ると左右の道路になっているが、その敷地となっている。



東京大学好仁会。1988(昭和63)年11月6日

好仁会は「東京大学における医学の教育・研究・診療を支援」するため設立された、としている。たぶん東京帝国大学医学部附属医院の患者への給食の事業を行うための財団法人として始まったと思われる。今は給食の他、売店・薬局・食堂なども運営している。タリーズコーヒー、ドトールコーヒー、ローソンも大元は好仁会の運営になるらしい。

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東京大学附属病院南研究棟。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

龍岡門から東大構内に入って附属病院の方へ行って、右手に最初に現れる建物。附属病院の建物はやはり多くが内田ゴシックと言われる様式で建てられたのだが、この建物はより現代的なスタイルをとっている。「南研究棟」という名称は後に付けられたものらしく、診療室と病室を入れた病院の建物だった。
『日本近代建築総覧』では「東京大学付属病院耳鼻咽喉科・整形外科及神経科病室、建築年=1921(大正10)~1925(大正14)年、構造=RC3階建、設計者=内田祥三/岸田日出刀」。また、1974(昭和49)年の住宅地図では建物右翼(北側)に「老年病教室 産婦人科」左翼に「耳鼻咽喉科病室 整形外科病室」という記載である。
2019年4月に南研究棟は改修され、リニューアルオープンした。「アントレプレナーラボ共用バイオ実験室(シェアラボ)」という施設に替わり、また「健康と医学の博物館」が入った。中庭では飲食もできるようである。



東京大学附属病院南研究棟。1988(昭和63)年11月6日(下も)


建物の外見から設計者は主に岸田日出刀と考えられている。岸田は1922(大正11)年3月に帝大工学部建築科を卒業して、講堂(安田講堂)建築実行部技師嘱託として帝大に入り、やがて内田祥三(よしかず)がひきいる営繕課で震災復興に取り組む。南研究棟は岸田が大学を出たばかりの若い頃の作品である。彼の表現主義への傾倒が出ているのかもしれないが、歴史的な様式建築を避けて合理的な新しい形を実施したものと言えそうだ。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)には「曲線を排し垂直線で構成し、3階上部のタイルを縦に貼ってその下にボーダーを流すなど、デ・クラークの集合住宅に似た扱い方である」「岸田日出刀は学生時代からの一連の作風である、合理主義的、垂直、水平の縦の構成を安田講堂にも使ったが、この建物の方が先につくられたのか、若々しく全力投球の感がする建物である。この他に理学部も赤茶色で、岸田は好んでこの色を使った。この色の建物は岸田のモニュメントである」と解説されている。
デ・クラークはオランダで興った「アムステルダム派」という表現主義運動の設計者。「エイヘンハールト集合住宅」(1920年)や「デ・ダヘラート集合住宅」(1922年)には、部分的に、曲線を用いたおもしろい造形が見られる。
南研究棟には曲線は一切ないのだが、龍岡門の「東京大学広報センター」なら階段室の円筒がある。

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東京大学広報センター。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

東京大学附属病院の通用門のように使われている龍岡門の門衛所のような感じで建っている小さな建物が、今の「広報センター」。『日本近代建築総覧』に「東京大学夜間外来診療所、建築年=大正15年、設計者=岸田日出刀」で載っている建物。
東京大学>広報センター』には「1926(大正15)年1月に建てられた、東京帝国大学医学部附属医院の急病者受付所」「建築様式的にはマッシヴな構成をとる。当初、竜岡門横に急病者受付所(うけつけどころ)として建設された」とある。現在の「東京大学広報センター」の表札の裏には「東京帝國大學附属醫院/急病者受附所」の表札が残されている。
急患受付所としていつまで機能していたのか分からない。内部を改装して広報センターがオープンしたのは1995(平成7)年9月。それ以前は「東大医師会」が使っていたようだ。



東京大学広報センター。1988(昭和63)年11月6日

東京帝国大学の建物を内田ゴシックと言われる様式で統一するという方針が固まる以前の建物なのかもしれない。当時最先端の建築様式を試してみた、という感じだ。表現主義的な風にも見える。下の写真の、水平線を強調したようなデザインは東大付属病院の「南研究棟」(大正10~14年、設計=内田祥三、岸田日出刀)とよく似ている。
写真右の門扉は1994(平成6)年に、門柱の間を広げる工事をしたが、その際撤去された。この時の工事では西側の門柱を移動したが、門衛所も移動したらしい(東京都京大学学内広報No.1405(2010.11.24))。

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