ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




共同印刷3号館。文京区小石川4-14。1988(昭和63)年3月13日

写真右奥のビルが3号館。3号館の写真として掲載するにはふさわしいとはいえない写真だが、撮影時にはそれほど古いビルという意識がなかったらしく、きちんと撮った写真がない。
『土木建築工事画報>昭和8年2号』に「共同印刷第三号館の建築」という簡単な記事があり、「竣工=昭和7年秋、設計及監督=加藤岩造、施工=清水組、構造=鉄骨鉄筋コンクリート6階建」となっている。今はどうか知らないが、このビルに輪転機を据えて印刷していた工場である。記事には「近代工場建築として、設計及施工の上に多くの新しい企図をもった建築」、「実用的な土木的構造」と「労働者の能率を考慮した装飾的効果」をマッチさせるのに成功、といった記述がある。
写真左の3階建てのビルは本社ビルの右にくっついている小さなビル。そのビルの後ろに切り妻屋根木造3階建てと思われる工場だか倉庫が5棟あり、それらの建物に関連した事務所棟として建てられたビルかもしれない。

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共同印刷本社。文京区小石川4-14。2006(平成18)年12月13日

播磨坂の下、千川通りとの植物園前交差点に向いた正面の凹円弧が特徴的なビル。共同印刷のHPの沿革には「1935(昭和10)本館から6号館までの全館新築が完成……」とある。工場のほうが先に竣工したようなので、本社ビルは昭和9~10年ではないかと思う。設計・施工は工場と同じく清水組であろう。
共同印刷というと1926(大正15)年の労働争議が有名なのだが「沿革」では勿論ふれていない。そしてそれを小説にした徳永直(とくながすなお)の『太陽のない街』(1929年)。「太陽のない」というのは労働者側の負けになる争議の結果を象徴した言葉なのだろうが、千川(小石川)の谷間に展開する日の射さない印刷製本の街の謂でもある。
ぼくは小学生(1955年頃。中学生になっていたかもしれない)で、この本を読んだ。子供用に編集された本だったのだろう、挿絵もあった。父が買い与えたのである。父は叔父と印刷業をしていたのだが、それでも今考えると子供に読ませたいような本とは思えず、変な感じがする。印刷屋なんかになるなといいたかったのだろうか。それ以来読んでいないので、内容はほぼ忘れた。


共同印刷本館。小石川4-14
2006(平成18)年12月13日

千川通り沿いに建つ工場の建物。1枚目写真の左に写っている塔屋がある建物だ。本館とは本社ビルのことではではないかという気もするが、『清水建設200年作品集』には左写真のビルの写真に「共同印刷本館、1935(昭和10)年6月、発注:共同印刷、設計:当社」とあるので、それに従った。作品集の写真では本社はまだ建設中の初期の段階。

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国宝社小石川工場。文京区小石川3-36。1988(昭和63)年3月13日

小石川4丁目の共同印刷から千川通りを少し東南へ行ったところにあった製本会社の工場のビル。今、ストリートビューを見ると、建て替わって立派なビルになっている。村中医療機器という会社の東京支店のようだ。その会社のホームページの沿革に「2015年9月東京支店竣工」とあるからごく最近建ったばかりだ。
国宝社は1919(大正8)年創業の製本の会社で、そのホームページの沿革に「昭和31(1956)年1月、小石川工場竣工」とある建物。工場らしく各階の窓が全面ガラス貼りなのと、西側の2か所の角を丸くしてスマートな感じのビルだ。裏側の方も写しておくのだった。大通り側の角はガレージに改装してしまったらしく、全体の外観を壊しているのが残念。


2007年の写真では「ヤマシタ第二工場」の看板。1・2階の窓をつぶしてしまっている。2007(平成19)年2月19日

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松園。文京区小石川3-19。2007(平成19)年2月19日

正面奥は善光寺の住職の住居かと思うが今は立派な家に建て替えられた。その家の石垣と黒板塀に沿って左へ行くと山門のある善光寺坂の下の方に出る。
写真手前は1階が店舗、2階が住居の木造アパート風建物。写真では中華料理の松園と居酒屋の右門が判る。1986年の地図ではこの2店のほかに「キャロン」「日仏」の記載があるがそれらはすでに閉店しているようだ。現在は3階建てのマンション風共同住宅に建て替わっている。



水口貼込所。文京区3-28。2007(平成19)年2月19日

千川通りの裏手。撮影時で営業していたかどうか不明だが、1986年の地図では手前の電柱の右が「水口貼込所」、左が「秀巧堂」。会社名だけではなにをしていたのか判らないが、おそらくこの辺りに多い印刷・製本に関係したものかと思う。現在は住宅に建て替えられている。

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内田祥三邸。港区西麻布4-7。1988(昭和63)年4月17日

広尾ガーデンに新たにつけられた道路を北へ歩いていて港区との境の道路に出たところで出あった洋館だ。1枚しか撮らなかったのが残念。写真右へいくと堀田坂(ほったざか)の上になり、現在は「堀田坂ハウス」(1991年5月築、5階地下2階12戸)という低層の高級賃貸マンションが建つ。洋館は1990年春頃に取り壊されたという(『坂のある町の今昔>北条坂、堀田坂』)。
『日本近代建築総覧』では「内田邸、港区西麻布4-7-6、建築年=昭和2年、構造=RC2階建、設計=内田祥三、施工=島藤某、備考=その後一年一室の割合で完成」。施工者の「某」は名前が判らず「なにがし」の意味。備考の意味は昭和2年から完成までに何年かかかったということだろうか。写真では3階にみえる。『建物紹介 東京都港区』というサイトには「地下1階地上3階、施工:大林組」とある。
東京大学の建物群で有名な内田祥三の自邸である。内田の名前は当ブログでは初出かもしれない。スクラッチタイル貼りの1階と塀が、「内田ゴシック」と言われるデザインに思える。
内田邸は戦後、GHQに接収され、10年ほどソ連大使館として使われた(『INAX REPORT 172号 生き続ける建築6内田祥三』)。その間、内田家の人は和館に住んだという。洋館の右に写っている入母屋屋根の家がそれだろうか。

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一ツ木通り。1985(昭和60)年1月15日
左:オレンジボックス。港区赤坂3-19
右:ディアシティ赤坂一ツ木館。赤坂4-2

30年前に撮った赤坂の繁華街の写真。今と違ってずらっと車が駐車している。
左写真右端のオレンジ色のビルが今もあるオレンジボック。1979年3月に建った5階建てのビルで飲食店やライブハウスが入っている。その向かい側に右写真のディアシティ赤坂一ツ木館。1984年11月築の7階建て56戸のマンションだが、1・2階には飲食店を中心の店舗、地下1階は「ぷらっと赤坂小路」という飲食街だ。



左:清峰堂不動産(みすじ通り)。赤坂3-10
右:マドモアゼルナワ美容室(赤坂田町通り)。赤坂3-7。1985(昭和60)年1月15日

左写真は黄色の看板の「清峰堂不動産」が現在あるところと同じなら、赤坂3-10、向かい(写真右側)が赤坂3-19といった辺りになる。この裏通りは一ツ木通りの東に並行している「みすじ通り」という。
右写真の美容院は街灯に「赤坂見附田町(たまち)通り」とあるから、みすじ通りの東の通りだ。写真右のビルの壁に似たビルがあるからそこだろうと決めて赤坂3-7としたが自信はない。

ぼくは赤坂という場所とはほとんど縁がないが、自動車免許をとるのに「赤坂自動車練習場」へ通った。1966年のことで、ビートルズ来日の年である。赤坂教習所(普通はそういったと思う)はTBSのすぐ南、住所は赤坂2-14、現在「国際新赤坂ビル東館」が建っているところにあった。土地勘がないから路上に出てもどこを走っているのか判らない。いつのまにか神宮外苑を走っていたり、薬研坂から青山通りへ出る坂道発進に緊張した。
今はTBSの建物は建て替えられ、周囲もすっかり変わってしまったと思うが、ぼくの中では相変わらずTBS会館と東京放送、その向かいにアマンドというイメージだ。

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カナダ大使館の門。港区赤坂7-3。1988(昭和63)年4月17日

青山通り沿いのカナダ大使館の西の横町に入ったところにあった門。現在、大使館のビル(1991年竣工)が建っているところだ。写真では使われていないような感じだ。青山通りに向いた門もあったようなので、そちらが正門として使われていたのだろう。
大使館敷地の奥に建つ大使公邸(『港区ゆかりの人物データベース>カナダ大使公邸』)は1933(昭和8)年の建設だが、門もあるいは同時期のものなのかもしれない。

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