ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





左上:バーラン。墨田区墨田3-14
2013(平成25)年4月5日
右上:スナック・カド。墨田3-14
2009(平成21)年3月29日
左:五十嵐たばこ店、玉の園(焼肉)
墨田3-3。2013(平成25)年4月5日

写真は3枚とも、赤線街だった頃は「本通り」といった通り沿いの家。東武伊勢崎線に近い方で、空襲での焼失を免れた範囲に含まれるので、戦前からある家の可能性がある。
「バーラン」(バー・欄?)とした家は店名の看板がないので営業していないのかもしれないがドアに、「会員制」の表札が貼ってある。店名は1985年の住宅地図から。左の隙間を入っていくと少し広い路地に出る。「チンケ横町」だ。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)には「玉の井の中でも一番の場末にあり、女給も年増が多く、遊び代を少なくしようという懐の寒い遊客が多かったためであろう」としている。ぼくはそんなところとは知らなかったので歩いていない。
カドは「花園通り」との角にあった店。ストリートビューでは取り壊されているが、あるいは建て替えられたかもしれない。既出書の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では「豊年」というカフェーだったらしい。
玉の園の並びは、「昭和28年頃のカフェー街」の地図にはカフェーが書かれていない。「果物店、化粧品店、トンカツ屋、石田タバコ店」と記載されていて、赤線のあった時代も一般の店が並んでいる一画だったらしい。

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東洋。墨田区墨田3-2。2008(平成20)年12月6日

戦後の赤線、玉の井のカフェー建築というと、かならずこの建物が登場する有名物件だった。残念ながら今は取り壊されて2棟の住宅に建て替わってしまった。最近まであったのでずいぶんと写真には撮られただろうから、以て瞑すべし、というところだろうか。
前の通りは東武伊勢崎線の高架下から東へ向かい、やがて南へカーブして玉の井いろは通りにぶつかる通りで、赤線街だった頃は「本通り」といった。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)によると、「元々は私道であったのだが、地主、借地権者が区に贈呈して区道になった道路である。一番の大きな通りであって、地元の住人や遊客が一番利用することが多いために本通りと名付けられたのであろう」としている。当書の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では建物は「東洋」である。
周辺は空襲での消失を免れた地区だが、昭和22年の航空写真では東洋はまだ建っていないのでそれ以降の建築である。赤線廃止後は、1968(昭和43)年の住宅地図では「旅館福井」で、旅館に転業したようである。玉の井のカフェーとしては大きな建物だったので旅館への転業が可能だったのだろう。コメントに寄せられた情報によると、東洋の経営者は赤線廃止後、土地建物を売り払い、購入した人が旅館を経営したという。仕事で上京してきた人の利用が多かった。


左:2008(平成20)年12月6日、右:2009(平成21)年3月29日

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西島商店。静岡県伊東市松原本町。2015(平成27)年5月29日

国道135号旧道沿いの干物屋。国道を走ってくる観光客を相手にしているような感じだ。そっけない店先がいたって新道のほうに並んでいる店より、ものはいいような感じもする。ただ、立ち寄ったら買わなければいけないような……。隣の看板建築は「伊豆ペット」。



左:角の商店、右:尚寿会保養所。伊東市松原本町。2015(平成27)年5月29日

左写真は西島商店からすぐ北の杢太郎通りとの交差点に向いたトタン張りの建物。「塩小売店」の表札が残っているので元は食料品店か八百屋だったのかもしれない。
右写真は杢太郎記念館のはす向かいにある蔵造り風に見える凝った造りの家。杢太郎記念館に合わせてデザインしたようである。「(医) 尚寿会」の表札がかかっているだけだが、医療法人尚寿会の保養所。

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木下杢太郎記念館。静岡県伊東市湯川2。2015(平成27)年5月29日

前の通りは猪戸通り、あるいはその延長上にあるが、「杢太郎通り」の表示板がちゃいるど歯科医院の塀に貼ってある。国道135号といちょう通りの間をいうのだろうが、「杢太郎記念館の通り」といったほうが話が早そうだ。
建物は「米惣」といった米屋(雑貨問屋としたサイトもある)だった商家で、広い間口の土蔵造りの外観で、1907(明治40)年の建築。今年の3月に国の文化財に登録された。『 しずおか近代和風建築さんぽ』によると「設計者は、当家と親戚関係にあり、霞が関の現法務省の建物の工事を担当した河合浩蔵」「大工:里見春五郎・里見辰蔵」という。
記念館の裏に接して平屋の「杢太郎生家」が残っている。1835(天保6)年に建てられた古民家だ。

木下杢太郎は名前だけは知っていたが、文学関係の人という認識だけだった。一般にもよく知られた人物とはいかないだろう。泥縄でウィキペディアや『 伊東市>伊東市立杢太郎記念館』、『 Sure(静岡県土地家屋調査士会だよりvol.4)伊東の風土に育まれた偉人「木下杢太郎」』などを読んでみた。杢太郎の本名は太田正雄といい、本職は皮膚科の医学者で、東京帝国大学医学部教授も務め、ちゃんとした業績も残している。杢太郎本人は文芸関係に行きたかったのを、詩なんか書いていて飯が食えるか、とばかりに親が反対したのと、森鴎外にも医者になれといわれて、従ったという。軍医総監で文豪の森鴎外にいわれてはしようがないだろう。どうも医学と文学とは両立するらしい。

杢太郎の実兄で太田圓三という人がいる。東京帝国大学工科大学土木科を卒業して逓信省鉄道作業局に入り、鉄橋・トンネル工事に関わった。関東大震災後、帝都復興院が設置されると実績を買われて土木局長に移籍した。そこで道路の拡張・新設にともなう土地区画整理、隅田川復興橋梁をはじめとする多くの橋の設計を行っている。

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ふらんす貴族。静岡県伊東市湯川1。2015(平成27)年5月29日

駅前いちょう通りの北の裏通りを南東へ歩いていくと猪戸通りにぶつかって終わる。裏通りの延長には排水溝のような細い川が現れる。150mほど先で川は再び暗渠になってしまうようだが、水面が見える間はゆるくS字型に曲流しているので自然河川の跡のようでもある。
猪戸通りとの角にあるのが「ふらんす貴族」というスナックが入ったトタン貼りの建物。トタンの錆具合が目を引く。営業中は日が落ちて暗くなっているので気にならないのかもしれない。増築したらしい3階部分がある。
ふらんす貴族の左の家は二軒長屋のような造りの前田酒店。


アルハウジング、Good House
湯川1。2015(平成27)年5月29日

1枚目写真の左奥が駅前いちょう通りとの交差点。それとは反対方向が杢太郎記念館の前を通って国道135号へ出る。写真の建物はいちょう通りにある不動産屋が2軒入っている建物。写真ではよく分からないが、建物正面の左右の角は飾りの円柱が軒先まで伸びている。

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左:佐々木アパート(伊東飲食業組合)、右:ニューカネボウ美容室
静岡県伊東市湯川2。2015(平成27)年5月29日

写真は4枚とも伊東駅前から南へ、市街の中心を通っている駅前いちょう通りの1本北の裏通りにあるもの。周辺は商店街の裏の住宅地である。上の2枚はモルタル壁のアパート。2棟とも切妻屋根の同じような安普請のアパートだが、佐々木アパートは通りの側を看板建築風にして屋根を隠している。
ニューカネボウ美容室の左の店は、廃業しているようだが日よけに「ヘアーサロン オガワ」と読める。
下写真の横山表具店としたアパートとその隣のアパートは、一部に和風の造りが見える。野近荘の写真は正面右側の元は医院だったかと思える側の写真。建物は平屋だろうか。建物の左側はスナック風の造り。その横に「コールドパーマ専門店…長谷川美容室」の看板だけが残されている。


左:横山表具店、右:野近荘。湯川2。2015(平成27)年5月29日

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上:伊東交通タクシー乗り場、てんりゅう
静岡県伊東市湯川1
2014(平成26)年2月28日
左:千寿庵。2006(平成18)年11月24

伊東駅から南西へ、国道135号へ向かう「駅前いちょう通り」にあるタクシー乗り場と看板建築の店舗建築。タクシー乗り場の方は平屋のガレージに事務所が付いた建物らしい。
左写真はてんりゅうの右にあった千寿庵という蕎麦屋。この写真ではてんりゅうはタバコ屋だろうか。千寿庵はけっこう老舗だったようだが2013年10月末で閉店した。1枚目の写真では重機が写っているので取り壊されたばかりらしい。



伊東合同自動車タクシー乗り場。伊東市湯1。2006(平成18)年11月24日

1枚目写真の建物から右へすぐのところ。伊東交通タクシー乗り場とほとんど同じ造りに見えるが、事務所の部分は2階建てだ。現在は取り壊されて駐車場になっている。

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文化学院。千代田区駿河台2-5。2003(平成15)年12月30日

文化学院は1921(大正10)年4月の開校。創立者の西村伊作は小学校を卒業した娘が進学するに適当な学校がないと、自分で作ってしまった。創立には与謝野鉄幹・晶子、石井柏亭(洋画家)が協力している。文化人の西村はそういう人と交流があった。建学の目的は「国の学校令によらない自由で独創的な学校」「感性豊かな人間を育てる」といったことで、「自由主義の教育」を目指した。大正デモクラシーの流れで、自由教育運動ともいえる学校では、羽仁もと子・吉一夫妻の自由学園が同時期に創設されている。
校舎は最初から西村が持っていた駿河台に建てられ、西村の資産で運営された。最初に建てられた校舎は英国のコテージ風のもので西村が自分で設計した。後に軽井沢にル・ヴァン美術館(1997年開館)として復元される。1923(大正12)年には木造4階建ての校舎を増築するも完成直後に関東大震災で焼失、その基礎の上に2階建て校舎を建築して授業を継続する。
写真の校舎は1937(昭和12)年に完成したもので、RC4階建て、切妻の瓦屋根を持つ。やはり西村伊作の設計になる。偏心したアーチの入口と蔦が絡まる壁が特徴。『建築探偵術入門』(東京建築探偵団、文春文庫、1986年、480円)では「ストリート・アーキテクチュア(街路の建築)」という用語を使っている。それが建っていることで通り(とちの木通り)の雰囲気が決まるような建物をいうのだろう。
戦時中も自由主義の教育を続けていたが、1943(昭和18)年、反政府思想とされて閉鎖命令を受け、西村は不敬罪で半年間拘禁されてしまう。校舎は捕虜収容所(陸軍参謀本部駿河台分室)になってしまう。教育文化の地に捕虜収容所とは! 軍だか政府のいやがらせだろうか。米軍捕虜が放送したラジオ番組「日の丸アワー」(軍部が用意した原稿を読ませる)はここから放送されたという。


文化学院。1985(昭和60)年7月7日

文化学院は2005年にビッグカメラ>日本BS放送に買収されたようである。2008年に14階建てのビルに建て替わり、文化学院はいったんはそのビルに入ったが、2014年に両国に移転した。現在、日本BS放送のビルの前の庭に旧校舎のアーチの部分が2階建てにして残されている。

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山の上ホテル。千代田区神田駿河台1-1
1985(昭和60)年10月

『日本近代建築総覧』では「山の上ホテル(旧佐藤新興生活館)、建築年=1937(昭和12)年、構造=RC7階建て、設計=ヴォーリズ、施工=清水組、地下2階」。佐藤新興生活館とは「社会事業家として知られる佐藤慶太郎らがはじめたユニークな文化福祉事業「新興生活宣言」~健康のための生活改善と、それによる社会改良を目指す社会事業~の拠点」〈 一粒社ヴォーリズ建築事務所>山の上ホテル〉ということだ。これだけではよく分からないが『占領下の東京』(佐藤洋一、河出書房新社、2006年、1600円)では「北九州の石炭王の佐藤慶太郎が新時代の女性に欧米の生活様式を啓蒙する目的で」と説明されている。佐藤慶太郎(1868-1940)は福岡県の出身で、石炭商から身を起こし、1922年(大正11年)には事業を人に任せ社会事業に専念するようになる。上野公園の東京府美術館は佐藤の寄付がもとになっている。
建物は昭和13年には帝国海軍に接収されて、戦時中は将校の宿舎になってしまったというから、新興生活館だった期間は1年余りということになる。戦後は米軍に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎になった。既出書によれば接収期間は昭和20年12月-昭和27年4月。それを吉田俊男という実業家が佐藤家から建物を借り受ける形で昭和29年1月20日に山の上ホテルを開業した。



神田生活館、錦華公園。1938(昭和13)年

母(1919-2005)のアルバムにあった写真。アルバムには撮影日の記載がないが、そばに昭和13年9月23日と昭和13年9月15日の日付のある写真がある。山の上ホテルの写真には「神田生活館」の書き込みがある。写っている人物はたぶん母の妹だろう。「錦華公園」としたのは推定。

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