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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




根本眼科医院。千葉県松戸市松戸1795。2005(平成17)年1月25日

松戸駅の西を南北に通っている県道5号=流山街道(旧水戸街道)の、春雨橋の南の路地を西へ入ったところにある家。今は廃墟としか見えない。和様の民家のようだが洋風な感じも受け、建った年代もよく分からない謎の建物だったが、『 Deepランド>【松戸】……根本眼科』によってこの家の正体が知れた。
当サイトによると、松井天山が昭和5年に描いた松戸の鳥瞰図に「根本眼科医院」とある建物。写真左端の2階建のビルは「松戸印刷所」で、これも鳥瞰図に載っている。当サイトでは外から細かく建物を観察していて、玄関の柱の下部がレリーフを施した洋風の石柱であること、柱の上部に「保健医療機関」の楕円形の鑑札が付いていることなどをちゃんと見ている。
『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房、2005年、1905円)によると、「この路地は河岸道で、今なお残る古い建物の根本眼科や大塚印刷所がある。根本眼科は江戸期の大地主。松戸で初めての医学博士だった。」とある。大塚印刷所は「納屋河岸」の解説にある松戸印刷所が「大塚姓」と述べているので同じものだろう。



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辰巳理髪店。千葉県松戸市松戸1761。2008(平成20)年2月28日

左右の通りが県道5号=流山街道(旧水戸街道)で、松戸駅入り口から南へ500m程の宮前町(みやまえちょう)交差点。角が「辰巳理髪店」、右に「ユウトオートサービス」、後のビルが「イセウ第二ビル」。
『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房、2005年、1905円)の「昭和12年の家並み図を作る」では、理髪店は「嶋屋履物店」で、いつ頃替わったのか分からない。建物はかなり古そうに見えるが案外戦後のものかもしれない。2009年7月のストリートビューではユウトと共に取り壊し済み。今は駐車場だ。
イセウ第二ビルは果物屋の伊勢卯商店があった場所。マンションで、撮影時にはすでに何年も前から閉鎖されていた。2017、18年になってやっと解体され、2022年に「セインコート松戸」(2022年4月築、3階建、12戸)が建った。

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山口家住宅。千葉県佐倉市新町216。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館の横を南へ入るとすぐ「裏新町通り」に出る。その西北角にあるのが「山口家住宅」。白漆喰壁の袖蔵と出桁造りにも見える店蔵がくっついて並んでいる。両者の屋根が一体になっているのは珍しいという。袖蔵の建設は棟札から1896(明治29)年10月で、店蔵はその後の増築とされる。
Deepランド>裏新町から宮小路』によると、松井天山が描いた昭和3年の鳥瞰図には「山口屋文具店」となっている。また、昭和48年の住宅地図には「ユニオンジャック、スナック山口」とあったそうだ。

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佐倉市立美術館。千葉県佐倉市新町210。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館は1994(平成6)年11月の開館。新町通りに面した「旧川崎銀行佐倉支店」を「エントランスホール」として活用し、美術館本体はその後に建つ5階建(地下2階)のビルである。
旧川崎銀行佐倉支店(1927年、川崎第百銀行に改称)、は1918(大正7)年の建設。矢部又吉の設計、煉瓦造り2階建(2階部分吹き抜け)銅板葺き、外壁タイル張り。施行は神谷平吉。
矢部又吉(1888-1941)は妻木頼黄のもとで働いた後、ドイツのシャルロッテン工科大学に留学した。「川崎財閥のひとつの日本火災等の重役を務めた早川鉄冶の長女・富見と結婚した縁もあり、川崎財閥系の建築物を多く手がけた(ウィキペディア)」。佐倉支店の建築様式は「ドイツ的なネオルネッサンス様式の影響が見られる。セセッション様式の影響も(こうほう佐倉2004(平成16)年2月)」と言われる。


川崎銀行佐倉支店は佐倉市立美術館に落ち着くまで、いくつもの施設として利用されてきた。
「第百銀行佐倉支店」だった1937(昭和12)年に建物は佐倉町に売却されて「佐倉町役場」になる。1954(昭和29)年に佐倉市が成立すると「佐倉市役所」に。いつの頃か知らないが、吹き抜けの1階だった内部に2階フロアを造ったり、後に増築してしのいでいた。新庁舎が完成した1971(昭和46)年からは「中央公民館」。1976(昭和51)年に公民館は鏑木町に移転し「市立図書館」に替わる。図書館が佐倉郵便局だった建物に移った1983(昭和58)年から3年間の休館があって、改修工事の後、1981(昭和61)年から1992(平成4)まで「佐倉新町資料館」となった。5階建の美術館本体を建設して、1994(平成6)年11月に「佐倉市立美術館」が開館した。

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蔵六餅本舗 木村屋。千葉県佐倉市新町222。2002(平成14)年5月5日

蔵六餅(ぞうろくもち)本舗は城下町佐倉の新町通りにある和菓子店。『蔵六餅本舗』によると、「あんぱんで知られる銀座木村屋の第二号店として、明治15年に、佐倉の歩兵第57連隊に非常食やパンを納める御用商人として創業」したという。「蔵六餅」は、昭和29年の佐倉市誕生を記念して発売された。昭和40年頃からは、パンの生産をやめて和菓子が中心となったという( LIVING千葉>佐倉「蔵六餅本舗・木村屋」)。
店舗は出桁造り商家で、並びの吉田家住宅と同じく明治末頃の建築だろうか。軒の上に造られた銅板葺のおおきな看板が特徴。旧町名である「上町(かみちょう)」の字が入っている。店舗の裏には江戸後期(1800年頃)の蔵が残っている。そこで抹茶を飲みながら、蔵にしまわれていた古い食器や古美術などを見学できる。

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新町吉田家住宅。千葉県佐倉市新町224。2002(平成14)年5月5日

新町通りの東端(新町交差点)に近い所にある、元商家の出桁造りの建物。新町通りは城下町佐倉の中心街だった通りで、明治以降も佐倉町役場や川崎銀行佐倉支店、警察署(新町通り南の裏通り)が置かれた。現在の千葉銀行佐倉支店、市立図書館(旧郵便局)も繁華街だった名残なのかもしれない。
4 travel.jp>佐倉市散策(27)』に、吉田家住宅は「種屋」で、明治末期の建築とある。佐倉の秋祭りでは上町(かみちょう)の山車人形「日本武尊」を店内に展示する。また、「佐倉・城下町ひなめぐり」というイベントでも「昭和十年頃のお雛さま」など数セットのひな壇が飾られる。



ストリートビュー(2012年11月)より。1枚目写真、右後ろに写っているのが裏にあった蔵。2018年に取り壊されて、今は住宅が建っている。

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吉田書店。千葉県佐倉市新町240。2002(平成14)年5月5日

成田街道(国道296号)の新町(しんまち)交差点のすぐ北にある出桁造りの商家。ネットでは吉田書店に関して参考になったサイトは『 Deepランド>佐倉「寺子屋 吉田書店」…(2017.07.11)』しか見つけられなかった。
そのサイトの管理人氏は「ご自由にお入りください」という張り紙に従って店内に入り、細かく観察している。以下その記述を流用させてもらう。
建物は「築150年の旧家」という。「幕末に創業した吉田書店は約10年ほど前まで営業していた」また「急な階段を上がった2階で寺子屋開業」していたそうで、本屋は2007年頃廃業したらしい。店内は手前は土間だがすぐ座敷になっている。左右の壁や奥に棚を巡らしていて、そこに商品が置かれていたらしい。そんな造りを平成の時代まで変えなかったのがすごい。というより、あまり商売をするという気がなかったのだろう。
店内には「書肆(しょし)玉照堂」(玉は正確には「金」の人がない字)の木の看板、「千葉懸書籍雑誌商組合員」のホーロー看板などが残る。土間で無人販売している「在庫処分」の商品の中に、東日本大震災(2011.03.11)で被災したために解体した土蔵から出てきた大正時代の絵はがきがある。そんな貴重なものを1枚100円でおいてある。ぼくだったら全部買い占めてしまうだろう。



ポストの右(写真枠外)にちばグリーンバスの「横町(よこまち)」バス停がある。横町は旧町名で、江戸期には新町通り沿いは西から「横町、上町、二番町、仲町、肴町、間之町」と細かく町名が付いていた。今は「新町」に統一された。家10軒ほどで町ができているような感じだが、これは「佐倉の秋祭り」で繰り出される山車と関連するのだろうか。

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野田市市民会館(旧茂木佐平治家住宅)
表門、表玄関
千葉県野田市野田370
2006(平成18)年4月29日

茂木佐平治家は1688年に茂木本家から分家したという。1917年(大正6年)に茂木一族と髙梨一族の8家が合同して「野田醤油株式会社」(後のキッコーマン株式会社)が設立された。『亀甲萬(キッコーマン)』は佐平治家が使っていた商標だから、野田醤油の最有力メンバーだったと思われる。邸宅は1924(大正13)年1月に完成している。茂木本家住宅より1、2年早い。関東大震災が起こったときには普請中だったのだろうか。昭和20年代後半まで実際に居住していたという(『田舎へ行ってご/見てご!>茂木佐邸』)。
1956(昭和31)年10月、野田醤油から野田市に寄贈され、12月から「市民会館」として公開された。1997(平成9)年5月に国の登録有形文化財に指定された。
敷地内に「野田市郷土博物館」が開館するのは1959(昭和34)。建物は山田守の設計。2021(令和3年)2月に国登録有形文化財に指定された。そんなこととは知らなかったので写真を撮っていない。表門の左奥にわずかに写っている。



西門。豪華な表門や表玄関は特別な来客や行事のときに使われ、普段は西側にある通用門から出入りしていたらしい。主屋の西側にも2箇所の玄関がある。西門に付随している建物は使用人の家だろうか。門の脇に車の運転手の家を建てる場合があるから、人力車の車夫が住んだ?



左:主屋北西角の「下台所」。右:主屋北東の「藤の間、楓の間」、左に突き出ているのは便所。



左:主屋北東。座敷が6部屋(松、竹、梅、柳、楓、藤)がある。右:主屋中央部。右に「桃、月、桃」の座敷、その裏は中庭。中央は通用玄関がある棟。左は表玄関から続いている部分。

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春風館道場。千葉県野田市野田376。2006(平成18)年4月29日

流山街道(県道17号)の千秋社の北を東入って250mほどで春風館(しゅんぷうかん)道場のある四つ角に出る。そこを南に150mいけば茂木本家住宅の北東の角。春風館道場は野田の武道の中心的な施設になっている。
千葉日報2010.05.12「武道の殿堂」来月再開』や『野田市今昔お散歩マップ』によると、1917(大正6)年、野田醤油株式会社(キッコーマンの前身)が設立されたときに、本店社屋(茂木七郎右衛門、柏屋)として建設されたもの。1927(昭和2)年に現在地へ移築され、翌年、道場として開館した。
2008(平成20)年にキッコーマンから野田市に寄贈された。市は耐震構造を施すなどの改修工事をおこない、2010(平成22)年6月から再開した。



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茂木本家住宅。千葉県野田市清水1087
2006(平成18)年4月29日

流山街道に面して建つキッコーマン本社のビルの横を東へ入った先に茂木家本家の邸宅がある。キッコーマンの前身である「野田醤油株式会社」が1917年(大正6年)に、茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立された。茂木本家(茂木七左衛門)はその中心メンバーだったと思われる。
茂木本家住宅は関東大震災後の1926(大正15)年に建てられた。11代七左衞門が設計を佐藤良吉に依頼した。佐藤は「宮大工の流れを汲む建築家」。関東大震災で被害を受けたので、ついでに全部建替えよう、ということだったのかもしれない。そのときの建物がほぼそのまま現在まで残されてきたわけだ。
建物とその付属物は2010(平成22)年1月に国の有形文化財に登録されて、『文化庁>国指定文化財等データベース』によって大体のことが分る。登録されたのは「板塀、稲荷神社、稲荷神社水屋、北蔵、旧米倉、旧仕込倉、旧漬物倉、旧門番棟、主屋、正門、庭門及び竹木賊張塀、南蔵、煉瓦塀」の13件。
1枚目の写真は北側の道路から見られる、左から「旧漬物倉、正門、旧米倉」。漬物蔵、米倉とも木造、外壁はモルタル塗り、米倉は2階建。正門は「薬医門」という形式のもの。
煉瓦塀は昭和前期のものという。なぜ部分的に煉瓦塀にしたのか不思議だ。



南蔵、北蔵。野田市清水1087。2006(平成18)年3月18日

東側の道路沿いには板塀が長く伸びる。その北に南蔵と北蔵(写真奥)が路上から見える。共に土蔵造り2階建。柱形を造っているのが特徴。

『ウィキペディア>野田の醤油醸造』によると、「寛永年間(17世紀半ば)に野田に来た女性の連れ子が初代七左衛門を名乗り茂木家の始祖となったと伝わる。」「1662年に初代茂木七左衛門が味噌醸造を始める。1764年〈6代目のとき〉に醤油醸造を始める。茂木佐平治が1688年に分家。茂木七郎右衛門が1768年に分家。 茂木勇右衛門が1822年に分家。」。現在の茂木本家当主は14代目。

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