あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

39 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 西田の起訴前の供述 警察官聴取書 』

2016年08月30日 14時00分50秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに

二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
 ・・・目次頁に記載

2  警察官聴取書
(一)  はじめに

西田を取調べ、聴取書を作成した警察官は、
後日北をも取調べた警視庁特別特高警察部特別高等課勤務の関口照里警部補であり、
立会人は警視庁巡査清水虎雄であった。
取調べにたいして西田は、事件とのかかわり合いを概ね認め、
青年将校の蹶起を知って揺れに揺れた心情を率直に告白しているが、
北と事件との関係については、ほとんど口を閉ざしている。
関口警部補の調書は冗漫の嫌いがあるが、西田の言い分をそのまま忠実に録取している。
しかし、内容的には後に紹介する予審訊問調書と重複するところが多いので、
ここではその概要と、とくに筆者の注意を惹いた点を紹介するに止める。

(二)  昭和一一年三月八日付第一回聴取書
(1)  西田は、この聴取書において、
  学歴、経歴、家庭状況、青年将校トノ關係などについて述べた後、
事件発生までの行動について詳細に陳述している。
西田は、広島陸軍地方幼年学校から陸軍中央幼年学校 ( 後の士官学校予科 )、
陸軍士官学校 ( 第三四期 ) を経て、
大正一一年に陸軍騎兵少尉に任官したが、
同一四年病気のため願いにより予備役に編入された。 ( 後に刑事事件に問われて免官となる )
西田は中央幼年学校在学中から国家革新意識を抱き、やがて北一輝に私淑するようになり、
退官後は国家主義的政治運動に加わり、活発に活動した。
彼は、軍人としての経歴を有していたため、とくに陸軍の青年将校たちとのかかわりが深く、その指導的立場にあった。
しかし昭和七年の五 ・一五事件のときには、
海軍士官の呼びかけに対して陸軍の青年将校の自重を求め、
参加を阻止したため、裏切者として川崎長光から拳銃で狙撃された。
彼は奇跡的に一命をとりとめたが、
「 現在デモ弾丸ガ一発対内ニ這入ツテ居ルト云フ状態 」 で、その後の体調はよくないという。
順天堂病院に入院中、北の檢心的な看護を受けた西田は、それ以来北を親のように慕うことになる。
同志によるこの襲撃事件は、西田の肉体のみならず精神に対しても深刻な衝撃を与えたようである。
処世方針についての次の供述に、西田の心のかげりがにじみ出ている。
「 ・・・其后各方面ノ狀況ハ色々ナ意味デ複雑化シ、尖鋭化シ、陰惨ナ空氣ガ満チテ來タト同時ニ、
  私自身ノ立場ニ對スル各方面ノ観察、想像モヤハリ複雑化シ、尖鋭化シ、誤解モ加ハツテ來タノデ、
私ハ自他共ニ輕率ナ過チヲ犯サセナイ爲メニ、言動ヲ愼ミ、且ツ餘リ人ニモ面會シナイ様ナ方針ヲ採ツテ來タ・・・」 
二 ・二六事件発生直前の頃の西田は、相澤中佐の軍法会議公判の支援活動に専念していた。
彼は亀川哲也と共に弁護活動の裏方をつとめ、とくに相澤の思想の広報活動に全力を傾注した。
西田はつぎのようにのべる。
「 私ガ主トナツテ動ク事ハ、軍内ノ狀況上却ツテ相澤中佐ニモ惡影響アリ、同期生ノ人其他有志ノ人達ニ表面ニ立ツテ貰ヒ、
 夫レ等人々ノ協力ニ依リ私ハ蔭ニ居リ、公判ヲ通ジテ相澤中佐ノ処信ヲ瞭カニシテ其ノ志ヲ達シ得ラルル様ニスル事ガ、
相澤中佐ノ精神ヲ生カス事デモアリ、即チ國家ニ對スル御奉公デアルト確信シ、殆ンド全部ノ努力ヲ致シテ來タ・・・・」

(2)  二月二四日夜、磯部の置手紙で二六日に事件が起きることを知った西田は、
 「 其夜ハ、色々ナ事ヲ考ヘマシタノデ、殆んど眠ル事モ出來ズニ過シタ譯デアリマスガ、
  結論ハ直感的ニ萬事休ス以外何モ良イ考ヘハ起リマセヌデシタ 」 
という。
翌二五日、西田は新宿三越で封筒、便箋、カバンなどを買い求めて一旦自宅に戻る。
「 若シ愈々事端ガ起ツタ場合ニ、私ハ遅カレ速カレ當局ニ聯レテ行カレル事ハ自明ノ事デアリマスカラ、
 私トシテハ若イ將校達ト一緒ニ行動ヲ共にスル事モ出來ズ、
又シナイ方ガ其ノ人達ノ純粋ナ立場ヲ採ラレル上ニ於テモ必要ト思ヒ、
矢張り自分ハ自分ノ分を守ツテ、別ノ立場カラ出來ル丈ケノ助力ヲ私ニ出來ル間シテ上ゲ様ト考ヘテ、
何レ家ニ居ツテハ直チニ連レテ行カレル虞レガアルノデ、外ノ場所デ出來ル丈ケノ事ヲシタイト思ヒ、
通信、聯絡等ニ必要ト考ヘ、賣ヒ求メタノデアリマシタ。」

西田は、実際はその後自宅を出て北方に泊り込んだのであるが、北に迷惑をかけることもおもんばかって、このことを秘している。

(三)  昭和一一年三月九日付第二回聴取書
この聴取書には、事件発生後の西田の行動が述べられている。
その大要はつぎのとおりである。
二六日、小笠原長生海軍中将に電話で事件の発生を報告し、事態の早期収拾方を願う。
首相官邸の栗原安秀から電話があり、見に来るよう誘われるが断わる。
「 狀況ガ判然セズ、結局氣許リ焦ツテモ何ウスル事モ出來ズニ過ギテ仕舞ツタ 」
二七日、栗原と村中に電話して、事態を速やかに収拾するため眞崎大将にすべてを一任することを勧める。
山口大尉に、聯隊長 ・旅団長 ・師団長らに事態収拾を頼むよう電話し、また亀川に来てもらい、
山本英輔海軍大将らに事態の収拾方を働きかけることを依頼する。
なお、この日の夜村中孝次が北方を訪れ、北 ・西田 ・亀川と会談したという重要な事実があるが、
この調書では西田はこれを秘匿している。
二八日、電話で栗原を激励する一方、再び小笠原中将に収拾方を依頼する。
午後八時頃憲兵が来たので、カバンを持って窓から庭に出て裏口から逃走、
タクシーを拾って新宿、新橋、浅草とあてもなく走り回った後、岩田富美夫が入院している巣鴨の木村医院を訪れる。
そこにいた若い男 ( 佐々木 ) の好意で、牛込区喜久井町の彼の家に泊まる。
二九日、正午頃門下の赤沢がやってくる。
反乱軍討伐の号外を見て、事態の急変に驚愕する。
赤沢と共に佐々木宅に泊まる。
三月一日、赤沢と共に佐々木宅に潜む。
二日、赤沢の案内で、下谷区谷中初音町の赤沢の友人 ( 佐藤 ) の下宿に移り、一泊する。
三日、赤沢の友人という丹羽の案内で、渋谷区若木町の角田宅に移り一泊する。
四日午前五時半頃、就寝中を警視庁係官に検挙される。

(四)  昭和一一年三月一〇日付第三回聴取書
(1)  この聴取書ではまず 「 事件計画ノ内容 ・各其役割分担 」 という見出しで、西田の事件に対する心情、
  その果した役割等が記述されている。
西田は、北が事件とかかわりのないことを極力印象づけようとしている。
以下、主要な個所を抜粋するが、見出しは筆者が付したものである。

事件の計画を知ってからの西田の心情について
「 私ハ私ノ御維新實現ニ對スル方針ト社會的狀勢ニ對スル観察ノ上カラ、
今ノ時ニアノ立場ノ人達ガ今日ノ如キ事件ヲ計劃シ、 實行スル事ニ就而ハ、實ハ同意シ兼ネルモノデアリマス。
ダカラ私トシテ、前申上ゲタ様ニ全般ヲ通ジテ氣ガ進マナカツタノニ拘ラズ、
只事件關係者との從來ノ關係等ニ依ツテ、遂ニ消極的ナガラ或ル程度ノ關係ヲ持ツタ譯デアリマス。
( 中略 )
同君 ( 村中孝次 ) 等ノ話デハ、私共ニ後ノ事ハオ願ヒシタイト云フ希望デアルト云フ事モ聞キマシタ。
私トシテハ、從來ノ關係上、及特ニ世間一般ハ私ト此ノ人達トノ關係ヲ一ツデアル様ニ見、
寧ロ私ガ主體デ此ノ人達ガ其ノ指導下ニアル様ニ斷定的ニ見テ居リマスカラ、
例ヘ私ガ無關係デアツテモ事ガ起レバ殆ンド同時ニ私ノ自由ハ拘束サレルモノト考ヘネバナリマセン。
夫レデ後ノ事ヲ期待サレテモ、夫レハ先ヅ不可能ノ事ダト思ハネバナラナイノデアリマス。
夫レカト云ツテ、一層ノ事私ガ之ニ參加ヲシテ行動ヲ共ニスル事ハ、
從來色々對世間的ナ關係ニ於テ純情ノ人達ノ立場ニ曇リヲ生ズル様ナ虞レモアリ、
私トシテハ私ノ理論方針ト、此ノ人達トノ情誼關係トノ相剋ニ色々考ヘタ結果ヤメテ、
出來ル丈ノ事ハ努力シテ上ゲ度イト思ヒマシタ。
其ノ代リ私トシテハ、何モ彼モ捨テネバナラヌ立場ニナツタ事ヲ考ヘマシテ、
要スルニ後ハ天ニ委セテ流レテ行カウト決心シテ、ソウユー意味ノ事ヲ話シタ筈デアリマス。」


事件の役割分担
( 山口、亀川と話し合った結果 ) 山口大尉ガ公私ノ關係ヲ辿ツテ軍ノ上部ニ對シテ努力スル、
 亀川哲也ハ眞崎大將トカ山本英輔大將トカノ方面ニ努力スル、
私ハ小笠原閣下其他ノ方面ニ對スル努力ヲスルト云フ事ヲ決メタノデアリマス。
( 中略 )
・・・・事件ノ役割ノ分担トカ申シマスカラ、行動隊ハ若イ將校達、資金關係ハ村中君トカ亀川氏邊リ、
事件發生后ノ事態収拾ハ山口大尉、亀川哲也、私邊リ、ト言ハレルノデアリマス。」
北の役割
「 尚、北サント私トノ關係、北サント若イ人達トノ關係ハ、北サン、私、若イ人達ト云フ狀態デアリマスカラ、
 今回ノ事件デモ恐ラク若イ人達直接ニハ北サンニ話シタ者ハ無ク、
私ガ前申シタ様ニ若イ人達ガヤルラシイト云フ話ヲシタ位デアリ、
事件發生當日私ガ同家ニ參リマシタガ、何モ詳シイ事ハ知ラヌ様子デアリマシタ。」

(2)  次に、「 私ノ客観狀勢ニ對スル認識及御維新實現ニ關スル方針 」 という見出しで、
  西田の情況判断と活動方針、事件についての感想などが述べられる。
「 ・・・昭和維新ニ對スル私ノ方針ハ、日本ノ立場、日本國民の使命、行詰ツタ現狀ニ對スル認識、
 明日ノ日本ガ有ルベキ理論等ヲ速カニ全國各方面ニ普及シ、各方面ガ夫レ夫レ自主的ニ革新ニ進ム如クアリ度イ、
ソシテ其ノ革新的ナ躍動ノ總和ガ、全體トシテ日本其ノモノノ革新ニ落着ク事ヲ理想トシテ居リマス。
ダカラ或ル一党一派的ナ力ニ依ツテ一擧ニ革新ヲ敢行スルト云フ様ナ事ハ、
上御一人ノ大命デアレバ別デスガ、吾々臣下トシテ考ヘラルル事デハナイト思ツテ居リマス。」
「 私ノ 見タ処デハ、今回事件ヲ起シタ東京ニ於ケル人達が嚴然トシテ公判ヲ監視シ、
正シキ態度デ各方面ニ對スル努力ヲシテ居レバコソ、公判ノ進行ガアノ様に進行シタノデアルト思ヒマス。
同時ニ此ノ人達ヲ中堅トシテ革新ノ大成ガ逐次ニ擴大シ、強化サレテモ來、之レカラモ發展スルモノト思ツテ居リマシタ。
言ヒ換ヘレバ、私ノ考ヘテ居タ大勢進展ノ貴重ナル力デアツタト思ヒマス。
私ハ、相澤公判ヲ通ジテ、ソシテ廣ク御維新ノ準備大勢、築成ノ爲メニ、
此ノ人達ノ存在ヲ得ニ重視シナガラ其ノ人達ノ努力ト相俟ツテ公判ヲ有利ニ進メ、
相澤中佐ノ志ヲ出來ル丈ケ達セシムル様ニ考ヘテ來タノデアリマス。
夫レガ相澤中佐ノ先駆ニ續イテ、同一性質の途ニ出ル事ニ片寄ツタ事ハ、
私トシテハ前申シタ情誼關係ニ於テ已ムヲ得ナイト云フ理解ハ充分ニ致シマスガ、
私ノ本来ノ気持カラ申シマスト誠ニ殘念ダト思フ処ガアリマス。
大體社會情勢ニ對スル私ノ認識及御維新實現ニ關スル方針ハ大略以上ノ様ナモノデアリ、
私トシテハ若シ事件ヲ起シテ貰フナラ、今回起ツタ以外ノ者ニ出テ貰ヒタカツタ位デアリマシタ。
処ガ、私ノ最モ大切ニ考ヘテ居ル方達ガ斯様ナ事件を起ス事ニナツテ仕舞ヒマシタノデ、
前ニモ述ベマシタ様ニ、私トシテハ不本意ナガラ今回ノ様ナ立場トナツタノデアリマス。」