あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

39 二・二六事件 北・西田裁判記錄 (二) 『 西田の手記 』

2016年08月22日 04時50分19秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに
二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

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4  西田の手記
(一)  はじめに
(1)  東京陸軍軍法会議予審官陸軍法務官新井朋重は同軍法会議検察官に対して、
  昭和一一年七月九日付で西田の叛乱被告事件の予審が終了したとして一件書類を送致し、
右通知は翌一〇ニチ受第四五六号で受理された。
これで事件は、検察官のところへ戻されたことになるが、西田はその前後に予審官に対して、
冒頭に 「  ( 伊藤法務官へ提出 ) 」 と自筆で括弧書きした 「 手記 ( 陳述補遺 ) 」 と題する供述書を提出している。
この手記は、陸軍のB4版罫紙三二枚に鉛筆で書かれている。
端正でしかも雄渾ゆうこんなその執筆は、彼の人となりを窺うに十分である。
西田は、六回に及ぶ予審訊問を通じて、自己の心情が予審官に十分伝わっていないと感じていたのであろう。
彼は、まず自己の改革思想について釈明した上、事件と自分とのかかわりについて詳細に弁明している。
(2)  この手記の表書きには、「 昭和十一年七月初旬 」 と記載されているが、
  そこに押捺された東京陸軍軍法会議の受付印の日付は、「 一一 ・七 ・二一 」 となっている。
受け付けた 「 東京陸軍軍法会議 」 が予審官を指すのか、それとも検察官を指すのかが先ず疑問であり、
「 七月初旬 」 と 「 七 ・二一 」 のずれも気にかかる。
手記の草稿が、予審係属中からの少しずつ書き留められていたことはあり得ないではない。
しかし、文章の続き具合と全体的な執筆から推理すると、手記は一気に書き上げられたという印象が強い。
手記は予審での供述を補うために作られているから ( このことは、その表題から明らかである )、
これが七月七日の最終訊問以後に作られたことは疑う余地がない。
したがって、西田が書いた 「 七月初旬 」 を文字どおりに受けとると、
手記は七月七日から一〇日までの間に書かれたと推定することができる。
では、七月二一日にこの手記を受理した東京陸軍軍法会議の機関は、予審官か、それとも予審官を経由しての検察官か。
前者では、西田の記した作成時 「 七月初旬 」 との間隔が開きすぎる。
もっとも、西田が手記を書き上げたものの提出をためらっていたため、日時が経過したと考えることもできないではない。
しかし、もしそうだとすると、提出を決意した時点で、
「 初旬 」 という記載を 「 中旬 」 あるいは 「 下旬 」 に訂正するのが常識であろう。
私としては、後者、すなわち、予審官から検察官にこの手記が追送され、
検察官がこれを受領した日にちが 「 七 ・二一 」 ではないかと推測している。
(3)  ところで、七月五日には青年将校ら一七名に死刑判決が言い渡され、
一二日には村中、磯部以外の一五名について銃殺刑が執行された。
ワタシガ手記の作成時にこだわったのは、このことに関係している。
私の推理によれば、この手記は死刑判決とその執行の中間で書かれたことになる。
それにもかかわらず西田は、同志の死については、手記の中で一言も触れていない。
これは一つの謎であろう。
私としては、そこに、押し殺された西田の深い悲しみを覗き見るような気がする。
おそらく、彼は意識的にそれを書かなかったに違いない。
もしも間もなく殺される人たちの思いを少しでも綴るとしたら、たちまち彼はほとばしる激情に流されて、
後にみるように、予審官に対して 「 公正ナル御裁断ヲ仰望 」 したりなどできるはずもないからである。
予審官は、北と西田を事件の首魁と決めつけている ( 西田の第五回予審訊問調書第三〇問答参照 )。
それが、この二人をスケイプ ・ゴオトに仕立てようとする軍首脳部ま意向によることを、明敏な西田が察知しないはずはない。
したがって、「 公正ナル御裁断 」 など、もはや期待すべくもないのである。
にもかかわらず彼は、少なくともこの時点では、軍のフレイム ・アップによって殺されることに耐えられなかったのだと思う。
死んでも死にきれぬ思いだったのだと思う。
彼は、何としてでも自分だけは生きねばならぬと思ったのではないだろうか、
たとえ奴隷の言葉を使ってでも・・・・・。
この手記は、暗黒の地底から、絶望しつつもなお救いを求める西田の血の叫びである。
切々と訴え続ける端正な文字の背後に、彼の苦悩に満ちた面影を見る思いがする。

(二)  手記の構成
手記は二章から構成されているが、その比重は圧倒的に自己と事件との関係を述べた第二章にある。
各章とその項目は次のとおりである。

第一  改造理論ニ就テノ一考察
 一  一般改革理想ト所謂社會主義
 二  「 改造法案 」 ノ根本思想
 三  敵本的非難ニ就テ
 四  所謂 「 青年將校ノ純眞性 」
第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ
 一  事件關係一部將校等トノ關係
 二  事件原因ニ就テノ一二ノ參考事實
 三  事件關係ノ立場梗概こうがい ( 第一期、第二期、第三期、第四期、第五期 )
 四  事件關係立場ノ總括的結論

以下内容をしょうかいしつつ、適宜な部分を抜粋する。

(三)  「 第一  改造理論ニ就テノ一考察 」
(1)  西田は、第一項 「 一般改革理想ト所謂社会主義 」  および第二項 「 「 改造法案 」 ノ根本思想 」 において、
北の改造法案が社会民主主義に立脚していることを認めながらも、それが個人の人格と私有財産を容認する北独特のものであることを強調する。
( 改造法案の根本思想は ) 明カニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマス。
 ( 中略 ) 而モ在來ノ民主主義、社會主義ニ非ズ、獨自ノ夫レデアルトシテ居ルモノデ、
現代日本人北一輝トシテノ學的理論デアリマス。
此ノ點ハ、『 法案 』 ノ随所ニ一般在來ノ社會主義 ( 特ニ外國流ノ ) ヲ批判彈劾シテ居リマスカラ、明瞭デアリマス。
『 權威ナキ個人ノ集合ハ、奴隷的社會ナリ
』 ト云ツテ居ル如ク、
『 權威 』 即チ人格權ヲ享有スル個人ノ結合ニヨル有機的統一社會---人格國民ヲ分子トスル國家ヲ主張スルモノデアリマス。
同時ニ 『 此ノ個人ノ物質的保障ハ私有財産ニアリ 』 トシテ、私有財産制度ヲ絶對必須条件トシテ居ルモノデ、
( 限度制トハ全體的統一ノ必要上ノ限度制デアリマス ) 『 個人主義ノ正當ナル發達ナクシテ社會主義ノ眞ノ進化ナシ 』
トモ言ツテ居リマス。
同時ニ斯ノ國民ニヨリテ信念サレ、體現サルル國體理想ナルガ故ニ、始メテ日本國體ハ正シク強ク活キテ來ルノデアリマス。
神格的天皇ヲ國家ノ根柱、一體的君民ノ神的表現トシ、
其ノ統一ノ下ニ人格權ヲ享有シ、結合スル人格國民---此ノ日本國家ニシテ始メテ大帝國タリ得ルモノデアリマス。」
「 斯クノ如クシテ、『 法案 』 ノ根本思想ハ學的ニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマスガ、
實際歴史的ニハ、純乎トシテ純ナル 『 日本精神ノ近代的閉鎖 』 ト云フベキモノデアルノデアリマス。」
(2)  第三項 「 敵本的非難ニ就テ 」 では、
  従来日本改造法案に対しては天皇機関説的思想であるとか、
外国思想の直訳であるといった 「 卑怯姑息ニシテ低級淺薄ナ非難 」 が浴びせられてきたが、
「 是ハ寧ロ思想其者ヨリモ、主トシテ北、西田ニ對スル敵本的攻撃ニ利用サレタ 」 ものであったとし、
法案は現在の社会よりもより社会本位的である点において、「 社会主義呼バハリハ甘ンジテ受ケル 」 と言いきる。
そして、これは日本に適合する思想であって、「 斷ジテ非日本的ナルモノニ非ズ 」 と主張する。
(3)  第四項 「 所謂 「 青年将校ノ純真性 」 」 においては、
  青年将校の 「 純真無垢 」 性がもっぱら軍部の上層部から 「 吹聴放送 」 されているが、
これは 「 單純ニシテ無智デアルト云フ事ノ美化デアルトスレバ、無礼侮辱モ極マル 」
と前置きしたうえで、次のようにいう。
「 『 北、西田ト其ノ仮装セル思想ニ誘惑欺騙サレタ 』
 トハ一應靑年將校ヲ庇蔭セルカノ如キ言辭デアリマスガ、事實ハ逆ニ侮辱スルモノデアリマス。
加之、北、西田に至ツテハ全クノ冤罪デアリ、非常ナル侮辱デモアリマス。
宛トシテ惡人扱ヒデアリ、所謂浪人的生活ヲナシテ居ルガ故ニ、
常ニ不純ヲ行動スルカニ直感曲解セルコトノ一結果デモアルト思ヒマス。」

(四)   「 第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ 」
(1)  西田は、第一項 「 事件関係一部将校等トノ關係 」 において、
  将校達の直接行動に反対し、抑止に努力してきたその自分が、
叛乱の首魁として処断されようとしている運命の皮肉について慨嘆する。
( 前略 )
 直接行動--- 『 テロ 』 等ニハ私ガ必ズ反對シ、私ニ知レバ必ズ之レヲ抑止シ、
忠告スルモノデアルコトハ、安藤君、栗原君等モ判ツテ居タ筈デス
( 殊ニ混亂ヲ惹起シテ戒嚴ヲ期待スルカノ過去幾多ノ事件等ガ根本カラノ逆施倒行ナルコトノ批判ノ如キハ、
  十二分ニ説明シテ居ル所デアリマス )。」
「 從來性格的ニモ危險性ヲ包蔵セル栗原君ナドニ對シテハ、
 其ノ氣分ヲ煽ルカノ一原因家庭ニアリト感ジタコトガアツタノデ、山口大尉等ヘモ話シ、
父君ノ國家的事業ニ對スル陸軍トシテノ誠意アル或ル對策ニツキ盡力ヲ願ツタコトモアリ、
軌道ヲ逸脱セザランコトヲ努メテ來タモノデアリマス。」
「 實ニ換言スレバ十月事件以後、現役軍人ノ破壊的行動ニ出デントスル氣配アルニ對シテ、
 之レヲ豫防シ、抑止スベク努力シテ來タコトニ於テ、私ハ陸軍カラ譽メラルルトモ
惡ク思ハルル道理ノナイ事實上ノ立場ニ居ルモノデデモアルノデアリマス。
終ニ酬イラルルニ誤解、曲解、デマ、壓迫、排撃以外ノ何物モナキニ至ツテ、感懐眞ニ憮然タルモノアリ、
茲ニ將ニ葬ラレントスルニ至ツテヤ、終ニ何ノ爲ノ人生ナルヤヲ自嘲自哭セシメラルルモノデアリマス。」
(2)  第二項 「事件原因ニ就テノ一二ノ參考事實 」 では、
  青年将校を事件に追いやった一因として、
軍首脳部の青年将校に対する不当な敵視、差別の方針と、
永田軍務局長が企図したという風説のある第一師団の満洲派遣をあげる。
(3)  第三項 「事件関係ノ立場梗概 」 では、
  事件と自分とのかかわりを五期に分けて詳細に説明する。
以下、順を追ってその内容を摘録する。

第一期 ( 二月十八日頃栗原中尉トノ會見前 )
「 〇  從來過激ナ 『 テロ 』 主義的言辭ヲ吐ク者ハ栗原中尉デ、
 挨拶代レニ用ヒル位ダト迄評判サレテ來タ口癖ノ人デアリ、
之レニ多少雷同共鳴的ナ態度ヲ示スノガ磯部君デアリマシタ。
( 中略 ) 
安藤大尉、香田大尉等ノ存在ハ、之レガ無言ノ壓倒的解消力デアリマシタ。
〇  山口大尉カラ栗原中尉ノコトヲ聽イタ時モ、半信半疑デアリマシタガ、
  會ツテ話スル氣持ニナツタ主原因ハ、栗原君ガ例ノ如ク過激ナコトヲ言動シテ 『 引込ミ 』 ガツカナクナリ、
終ニ餘儀ナクトビ出ス破目ニ陥ルトイケナイ ( 從來コノ傾向ガ多分ニアツタノデアリマス ) カラ、
ト云フコトニアツタノデアリマシタ。
體内デ煽動的ナ言動ガ露骨ダト云フ話デアツタカラデ、
從來ノ中尉ノ癖ヲ知ツテ居ルト思ツテ居タ私ハ、之レハイケナイト考ヘタノデアリマス。
同中尉サヘガタガタ騒ギサヘシナケレバ、軍人方面ハ極メテ平和ダツタカラ、注意旁々會ヒタカツタ譯デアリマス。
同時ニ、萬一ノコトデモアレバ、何モ彼モ駄目ニナル重大ナ問題デアルカラデモアルコトハ勿論デアリマス。
要スルニ、蹶起約一週間前ニ於テ、大體右ノ程度ノ大勢ト判斷トデアツタノデアリマス。」

第二期 ( 栗原中尉會見---二月二十一日、二日頃迄 )
「 〇栗原中尉ハ、電話口ノ態度カラシテ從來トハ多少感ヲ異ニシマシタノデ、
 『 會フ必要ナシ 』 ト拒絶スルノヲ實ハ癪ニモ觸ツタノデスガ、
怒鳴ツテ兎ニ角會フコトヲ約束サセタ上會ヒマシタガ、其ノ模様ハ調書ノ通リデアリマシタ。
豊橋ノ方トハ已ニ聯絡濟みと云フヨリハ自分ガ出向イテ行ツタラシイ話デ、
早クモ實行ニ移ツテ居タコトト、時機ヲ殊ノ外ニ焦ツテ居ル風ガ見ヘタコトハ、私ヲ相當驚カセマシタ。
ソレニ私ノ反對意見、忠告、懇願悉クヲ 好イ加減ニアシラツテ居ル如キ口吻、態度ヲ見タノデ、
從來トハ趣ヲ異ニシテ居ルコトヲ感ヅイタノト、
『 貴方カラ色々ナコトヲ言ハレルノガ一番嫌ダ 』 ナドノ噛ンデ吐ク如キ言葉ブリハ、今迄經驗シナカツタ所デアリマシタ。
〇  然シ、栗原中尉ノ今迄カラ考ヘテ、他ノ人々ハ到底動カヌト思ヒ、動クト思フノハ中尉ノ過信ダトシ、
  ( ソレモ忠告シタガ、過信デハナイト云ヒ切ツテハ居マシタガ ) フリ切ル様ニシテ歸ツタ後、
從來ノ體驗上安藤君ニヨツテ抑止出來ルト思ヒ直シタ上、安藤君ト會見シタ譯デアリマスガ、
之レハ眞ニ意外デ、本文ニ述ベタ如ク結局ハ抑止ノ途ナキ絶望ヲ感ジタノデアリマス。
( 中略 )
〇  私ハ、安藤君トノ會見デ抑止ノ途ナキヲ悟ツタト申シマスカ、大體施ス途ナシト考ヘマシタ。
 ( 中略 )
〇  而シテ二十一、二日頃村中君ノ決意、香田大尉ノ決意等ヲ村中君カラ聽キ、
  逆ニ私ニ參加ヲ勧誘サレルニ及ンデ、實際私ハ寧ロ呆氣ニトラレタ感ジデアリマシタ。
平素村中君ハ、全ク問題デハナイ人デアリマシタ。
香田君ハ安藤君ノ如キ感ジノ人デ、從來陰ニ陽ニ同隊同郷ノ後輩タル栗原君ヲ誘掖シ、監督的ニ行動シテ來タ重厚ナ人デアリマス。
一週間以前ニハ立場ガ苦シイト述懐マデシタ村中君ガ、何時ノ間ニカ變節シテ居タコトヲ知ツタ私ハ、
最早大體観念シテ居タ時デモアリ、正面カラ開キ直ル丈ケノ勇氣モ出ナカツタノデアリマス。
殊ニ同君ノ口カラ、陸相ニ意見具申ヲスルコト、肅軍 ・國體明徴ノ内容ラシイコトヲ一寸聽カサレタ時
---十一月事件ト肅軍意見書ガ村中君ヲシテ斯クアラシメル一大契因デアラウト思ヒ、
サモアラウト考ヘタ時、同君一人ヲ引留メテ何ニナルト云フ氣ニモナリ、
一面カラハ 『 皆勝手ニシロ 』 ト云フ様ナ放任的氣分ニモナリマシタノデ、
強イテ爭フコトモセズ、私ノ立場、決心ダケヲ明ニシテ拒絶シマシタ。
( 中略 )
〇  私トシテハ、如是ノ計畫画内容ラシキモノ、其他方針ラシキモノニ對シテハ、何モ意見モ定義モ致シテ居リマセン。
  元來ガ方針上斯カルコトハ私ノ欲セザル所デアルノト、反對忠告シテモ聽從セザル場合、
自ラ欲セザルニ容喙ようかいスルコトハナイト思ツタカラデ、之レハ私ノ性格的ナ點モアリマス。」

第三期 ( 二月二十二日、三日頃---二月二十六日朝迄 )
「 〇  私ハ、是レ迄萬一ノ場合ハ 『 如何ニナルカ 』 ヲ考ヘ、
  『 私トシテハ如何ニスベキカ 』 ヲモ考ヘテハ見乍ラ、抑止ニ努力シテ來タノデアリマシタガ、
抑止絶望ト共ニ 『 如何ニナルカ 』、『 如何ニスベキ乎 』 ヲ眞劍ニ考ヘネバナラナクナツタノデアリマス。
栗原君ニハ強氣デ抑止ニ努メマシタ。
安藤君トノ會見デハ豫想外デアツタコト、抑止殆ド絶望ト云フ氣持ニナツタノデ、
考ヘ直スコトヲ希望スルト共ニ、一方斷行サルレバ私ハアル程度ノ自分ノ犠牲モ覺悟セネバナラズ、
如何ニナルカハ豫想ハツカヌケレドモ、此儘デ運ニ任セヤウト云フ氣ニナリ、
其ノ意味ノコトモ多少洩ラシタ筈デアリマス。
( 中略 )
〇  私ハ最初カラ、萬一ノ際ハ、
  蹶起シタ人々モ永田町附近占據ノ上第二次決行 ( 栗原君ノ話 ) ナド云ツテハ居ルガ、
到底不可能デ、先ヅ第一次ノ直後ニハ片付ケラレルモノト考ヘテ居マシタ。
同時ニ、世界無比ノ警察力ハ直後軍憲ト強力シテ、東京市内外ハ完全ニ警備サレルモノト豫想シ、
私共關係嫌疑ノ下ニ直チニ拘禁監視サレテ、バタバタ片付ケラレルモノト考ヘテ居タノデアリマス。
五 ・一五ニハ 『 阻止シタ 』 トテ同時ニ狙撃サレマシタガ、血盟團ノ時ハ直チニ拘禁ヲ受ケ、
十月事件ノ直後ハ約一ケ月ノ監視ヲ受ケマシテ、夫々非常ナ痛苦ヲ嘗メサセラレテ居ルノデアリマス。
私ハ抑止ガ段々絶望ニ陥チ、強行ガ確實性ヲ加ヘルト共ニ、前述ノ各種ノ體驗ヲ想起シ、
心ヲカキ立テラレル気分ニナツテ來タノデアリマス。
同時ニ、平素ノ方針モ何モ一擲いってきシテ  『 ヒタムキ 』 ニ蹶起ニ邁進スル人々ノ氣持ヲ悲シミナガラ、
完全ニ犠牲トナリ完全ニ誤謬ごびゅうヲ犯スコトガ分明シ乍ラ、
周囲モ自己モ捨テテ突進スル三、五年交友ノ人々ヲ憎ムコトハ出來ズ、
私トシテ賛同、參加スルコトハ信念ガ許サズ、寂寥じゃくりょうヲ感ジ、過去將來ノ種々ナ感慨ガ涌イテ來ルノヲ感ジテ、
一層落チ附カヌ気分ヲ煽ラレテ了ツタノデアリマス。( 顧ミルト、修行不足ノ恥ヅベキ点多々暴露致シマシタ )
〇  コンナ氣分ノ中デ内心決定シタ方針ハ大體左ノ如クデアリ、  之レハ一時ニ定メタノデハナクシテ、漸次ニ固マツタ所ノ考ヘデアリマシタ。
一、抑止、阻止ハ、自分ノ力デハ到底不可能デアル。
一、暴露シテ未發ニ止メルコトハ、自分ニハ尚更不可能デアル。
  情ニ於テ忍ビザルト共ニ、一面ニハ私自身ガ常ニ暴露、賣込等ノ常習者ノ如ク 『 デマ 』 ラレテ居リ、
其爲ニ生命ヲスラ脅威サレテ來テ居ルコト等カラ、逆ニ反撥的ニモ シタクナイカラデモアリマス。
一、自分ハ理論方針上反對デアッテ、參加スルコトハ絶對不可能デアル。從テ、放任スル。
一、唯々情誼ニ於テ、事態ノ惡化ヲ防ギ、速ニ収拾スルコトヲ希望シ、  出來得ベクンバ犠牲者等ノ志ニ一歩デモ近キ収拾ヲ圖ツテヤルコト。
等デアリマス。
( 中略 )
〇  但シ、彼等トノ間ニ斯ル話合ヒハ一切アリマセン。依頼モ相談モ受ケマセン。私及龜川氏等ノ間ノ考ヘデアリマシタ。
  ( 中略 )
〇  私ハ此ノ四、五日間、コノ大事件ヲ控ヘタニシテハ無爲、靜肅デハナイカト見ヘルカモ知レナイノデアリマス。
  私ハ抑止ノ途ナシト観念シツツ、『 ナル様ニナレ 』 ト云フ氣ニモナリ、放任的ニナリマシタ。
同時ニ安全ナルベキ短時日ニ、私自身本來ノ運動ヲ依然トシテ繼續、進展セシメ置クコト責任、
義務的ナモノヲ自分自信ニ感ジテ居タノデアリマス。
然シテ、其ノ方面ノ來往モ相當繁カツタノデアリマス。
相澤公判ノ事ノ如キ、實ニ廿五日迄果スベキヲ果ス心算デアツタ譯デアリマス。
〇  乍然一面カラ見テ、斯カル私ノ決意、態度ガヨカツタカ惡カツタカ。
  是レハ問題デハアルト思ヒマスガ、結局ハ夫々ノ性格ニ基ク生活態度ノ問題ダト考ヘマス。
殊ニ五 ・一五遭難後 『 三十二年絶後命、不附人間附自然 』 ト述懐シテ、
『 天を相手にすること 』、『 そのためには名もいらぬ 』 ト云フ覺悟ヲシテカラハ、
快ヲ一時ニトルコト、華ヤカナ男前ヲ示ス等ノコトヲ、一切心底カラ拂拭シテ居ルノデアリマス。
然シ、對世間的ニハ種々議論ノ種トナリマセウ。
甘ンジテ受ケマスノミナラズ、私自身トシテモ彼此思ヒ巡ラシテ、平生ノ修練足ラザリシ點ヲ反省、
自責シツツアルコトヲ赤裸々ニ告白スルモノデアリマス。
〇  斯クテ、事前ニハ事態ノ擴大惡化ヲ反亂助成的ナコトハ絶對戒心スルト共ニ、
  一面未然暴露ノ責任負担ニ陥ル如キ事態惹起ヲモ内心恐レテ、
私直接關係ニ於テハ、北氏、龜川氏、山口大尉以外ニハ話ヲシテ居ナイノデアリマス。
北氏ニモ、栗原、村中君等トノ問答中私ガ察知シ得タ具體的内容ヲ話シタ譯デアルノデ、
『 私モ貴方モ知ラヌ筈ノコトデアルカラ、聞キ流シテ置イテ呉レ 』 ト緘口ヲ注意シタ筈デアリマス。
龜川氏關係ノ弁當代千五百圓ノコトモ、私ハ事態惡化ヲ防グ上ニハ必要ト直観シテ感激シタ爲ノ斡旋デ、
他意ナク、龜川氏ハ實ニ私以上ニ痛感サレタ結果ノ大金提供ダツタト想像スルモノデアリマス。」

第四期 ( 二月二十六日---二月二十八日午后迄 )
「 〇  私ノ豫想ハ殆ド全部履替ヘサレマシタ。
  二十七日午后迄ハ、此ノ意外ノ結果ヲ情報トシテ一々受取ツタコトバカリデアリマシタ。
即チ、一般ノ警戒監視---特ニ私共ニ對シテ何事モナク、
蹶起將校等ハ戒嚴部隊ニ編入サレ、現地占據ヲ承認サレ、大臣カラハ殆ド是認スルカノ如キ告示ヲ受取リ、
私ノ心配シタ食事等モ官ノ給与ヲ以テスルト云フこと等ガ一ツ。
蹶起將校等モ最初私ガ聞知、察知シテ居タノト異ナルカノ如ク、第一次行動ヲ以テ打切リトナリ、
現地ニ膠着こうちゃくシテ 『 喧嘩ニモナラズ 』 ト云フ風デアツタト共ニ、
意外ニモ政治的發言、提議ヲナシテ首脳部ト折衝シツツアルコト、
牧野伯襲撃ガ意外ニモ民間人が參加 ( 澁川君意外ニ ) シテ居タコト、
中橋中尉ガ宮城ニ増加衛兵トカデ這入ツテ追出サレタラシイコト 等ガ一ツ。
又、是等ノ事情ヲ知ルコトヲ得タノガ、栗原中尉トノ電話デアツテ、カカル際カカル電話ヲ通ジ得タト云フコトハ、
全ク事前ニハ私ノ夢想ダモシナカツタ所デアリマシタ。
實ニ若シ栗原君ガ、曾テ私ノ抑止ヲ受ケタ時ニ
『 君等ガ何カヤレバ必ズ直グ僕モ災ヲ受ケル 』 ト云ツタコトヲ忘レズニ心配シテ呉レテ居テ、
家ニ問合セタト云フコトノ好意モナク、或ハ無關心デアツタトセバ、
恐ラク二十七、八両日ニ於ケル栗原、村中、磯部君等ト私及北氏ノ通話ナド、
村中君ノ突然ノ來訪ナド 全ク思ヒモ寄ラヌコトデアツタト考ヘネバナリマセン。
又、私ガ再ビ北氏宅ニ伺ツタコトノ過半ノ理由モ、栗原君ト電話デ話シタト云フ意外ノ事實ト
其ノ内容トヲ珍奇ナ 『 ニユース 』 トシテ話シテヤリタカツタカラデアツテ、
而モ其後ズルズルト同家ニ滞在シテ當初ノ方針ヲ自ラ放棄シテ、
終ニ北氏ニモ縲紲ノ苦ヲ味ハハシムルニ至ツタ私ノ不始末モ、考ヘレバ端ヲ此処ニ發シテ居ルノデアリマス。
( 中略 )
〇  豫想ノ如キ速カナル収拾ハ達セラレズ、一日半ヲ空過シテ二十七日午后トナリマシタ。
  一面蹶起將校側ハ、現地占據ヲ承認サレタ儘政治的交渉ヲ開始シタト云フコト、
及ビ私ノ豫想セシト異リ、軍人ノ純ナル尊皇討奸ト云フコトノミデハナクテ、
計畫其者ガ政治的意義ヲ有スルモノデアルコトニ始テ気附イテ、
『 之レハ拙イ 』 ト考ヘ、何ダカ欺サレテ居ル様ナ感ニモ打タレタノデアリマシタ。
其処ニ將校仲間ニ硬軟二派ガアルラシク察セラレマシタ ( 村中君ノ電話談 ) ノミナラズ、
栗原君ノ口吻デハ相互間聯絡ガ不十分デアルカノ感ヲウケマシタノデ、
拙クスルトトンダ事態ヲ惹起スルカモ知レヌト云フコトヲ憂慮スルト共ニ、折角政治的交渉ニ公然移ツテ居リ、
且ツハ今ノ所討伐ヲ受クル憂モナキ模様デアルカラ、之レヲ有効ニ使用シテ速ニ収拾ヲ講ズルコト、
夫レモ私共外部ノ外部的盡力モ必要デアルガ、此際内部ノ人達が直接進メタ方ガ早イト考ヘマシタ。
北氏モ同様デシタ。此ノ方針ハ、二十七日午后カラ二十八日夜マデ持續シテ居タノデアリマス。
〇  眞崎大將ニ一任ヲスルコトノ妥當ナル提案ヲ村中、栗原、磯部等ニ向ツテシタノハ、右ノ意圖カラデアリマシタ。
〇  從テ、事態惡化又ハ擴大ヲ招クガ如キ考ヘハ毛頭ナク、二十七、八両日ノ電話等ニモ此ノ氣持以外ノモノハナイ筈デアリマス。
仮令私ノ方針ニ反シ、國權ニモ反抗シテ、遮二無二トビ出シタ我儘ナ破戒的ナ人達デアツテモ、
其志存スル所ハ兎ニ角君國デアリマス。
私ハ此ノ人達ガ是レ以上自身ノ立場ヲ惡クシ、世間ヲ惡化セシムル如キコトヲ考ヘルモノデハアリマセン。
二十八日栗原君トノ電話ニシテモ、動力盤エハ自決スル方ガ妥當デアリマセウシ、
徹底的ニ反抗スルコトノ宜シカラザルコトハ因ヨリ明カデアリマスカラ、反抗スル方ガ好イトハ勧告出來ナイガ、
然シ人情トシテ自決セヨトハ私ニハ言ヒ切ラナイノデアリマシタ。
( 眞實ハ言ヒ切ツタ方ガ正シイデセウガ、修行未熟デアリマセウ )
故ニ、二、三人ノ相談ダト云フノヲ好餌トシテ、『 何事モ全部ノ意見一致デスルガ宜イ 』 ト云フ、
全クダラシノナイ勧告ヲシテ了ツタノデアリマス。又、自決其事ヨリモ、
進行中デアル筈ノ上下ノ意見一致ヲ速ニ努力、完成スルコトヲ主ニスルコトモ、希望スル譯デアリマス。」

第五期 ( 二月二十八日夜---三月四日迄 )
「 此ノ期間ハ、悲痛ナ感懐ト狼狽シタ感情トヲ抱イテ、全ク方針、目的、目標ナキ轉々漂泊デ、
 眞ニ恥ヅベキ最後ノ行動時代デアリマシタ。
或意味ニ於テ、事件ニ對スル私ノ立場ヲ説明、表現スル所ノ私ノ心ノ映像デモアリマシタ。」

(4)  第四項 「 事件関係立場ノ総括的結論 」 では、
  西田は 「 公正冷嚴ニシテ無雑ナル所ノ御判斷ニ待ツ 」 と述べた上で、
事件との関係についての一〇項目の質問 ( 項ないし項 ) を自ら設定し、これに答えるという形式で弁明に努める。
西田は此の自問自答で、あるいは理論を駆使し、あるいは人情に訴えながら、必死に予審官の説得に努める。
伊藤法務官は、一読後胸の痛みを覚えなかったのであろうか。
以下、主要な問答を抜粋する。
  「 汝ガ關係、指導シテ、村中、栗原、磯部、安藤等ニ計劃實行セシメタ、計畫的ナモノデナイカ 」
  私トノ事實關係ガ明白ニ説明シテ居ルノモノデアリマシテ、全然サル事ハアリマセン。
  私ニハ寧ロ秘シテ計劃ヲ進行シタト思ハレル節ガアリ、私ガ察知シテ阻止、中止ヲ努メタ時ハ時機已ニ遅ク、
抑止力ナキ私ハ、止ムナク情誼ノ収拾的盡力ヲ多少心ガケタト云フ事以外ニナイノデアリマス。
( 中略 )
  如何ニ私ガ未熟者デアツテモ、計劃的ナラバ二十五日以前ニ於テモ、
  私自身ガ一生一代ノ大仕事デアル丈ケノ決定的ナ準備ヲ致シマス。
天下ノ大事デモアリマスカラ、一層工夫ヲ凝ラシマセウ。
  同時ニ、二十五日夜半以後ノ私ノ去就、
  殊ニ 二十八日夜逃避後ノ醜態ナドハ、演ジナカツタノデアリマセウ。
ヨツテ、多數ノ友人先輩等ニ無用ノ迷惑ヲ掛ケタコトヲ衷心ヨリヂテ居ル今日ノ私ヲ 見ルコトハナカツタデアリマセウ。
極端ニ言ヘバ、二、三日以前カラデモ出來ナイコトノナイ性質ノモノモアツタト思ヒマスガ、
ソレモ爲サズニ事件ニ正面シテ居ルノデアリマス。
  眞崎大將推薦ハ、私自身ノ眞意、希望デハアリマセン。
  私ト 「 法案 」 ( 私ノ改造意見 ) ヲ誤解、不信任スル大將ハ、私ガ改造ノ爲ニ推薦スル筋合デハナイノデアリマス。
( 後略 )
  「 青年將校等ノ挺進ヲ承認シ、利用スル破壊的改革遂行ノ意志ニ非ズヤ 」
  ソレナラバ、抑止 ・阻止ハ致シマセン。
 ( 後略 )
ト  「 彼等ハ、事後ノ処置等ニツキ汝ニ期望シテ居タノデナイカ 」
 夫レハ、或ル意味ニ於ケル建設---収拾、
又ハ所謂 「 後亊ヲ託スル 」 意味ニ於ケル公私、將來ノコト等ニツキ、期待シテ呉レタト思ヒマス。
 ( 後略 )
  「 青年將校等ガ何カスレバ、直ニ汝ニ及ブト思考スル根據ハ何処ニアルカ 」
( 前略 )
  當刑務所入所ノ時、勾留訊問ヲシタ新井法務官曰ク、
  「 事件ノ際、君ガ之レニ這入ツテ居ナイ譯ガナイ、ト云フ我々仲間デノ噂デアツタ 」 ト。
大體ニ於テ斯カル空氣ト斯カル宣傳トヲ、
十月事件以後ニ於ケル軍及對立的方面ヲ中心トシテ、作リ上ゲテ了ツタカラデアリマス。
惡意ト爲ニセントスルモノト、輕卒ナル即斷トガ混淆こんこうシテ出來上ツタモノデアリマス。
( 後略 )
  「 五 ・一五当時一度喪ツタ生命デアルカラ惜シクモナク、思ヒ切ツテ決行シタノデハナイカ 」
1  五 ・一五当時、確カニ私ハ肉體ノ痛苦ニ堪ヘズ ( 腸切斷手術後腹膜炎ヲ起シテ )
  且 彼ノ如キ結果ニ陥サレタコトニ對スル心的寂寥、非愁ニ堪ヘズ、死ヲ希望シタノデアリマス。
枕頭ニ居タ北氏等ハ、「 見ルニ忍ビヌカラ死ナセテヤル方ガヨイ 」 ト考ヘタ相デアリマス。
注射ノ鍼一本デ簡單ニスムコトデアリマス。
然ルニ、私ハ腸切斷ノ二時間ノ手術中、麻睡ノ間已ニ脈拍止リ、死ノ狀態デアルノヲ、
輸血、注射等デ手術ヲ終ヘタノダソウデアリマスガ、麻睡中大聲ニ法華經ヲ唱ヘテ居タト云フコトヲ聞キ、
ツマラヌ譫言ヲ云ハズニスンデヨカツタトモ感謝シタ位デアリマシタ。
手術後ノ夜半腹膜炎ガ起リ、私ハ死ヲ希フト云フ狀態デ明朝迄ハ絶望トサレタノガ、
夜半ヨリ腹膜炎ガ俄然退勢シ、ソレヨリ逐次恢復ニ向ツタモノデ、主治医八代博士モ不可解ダトシタノデアリマス。
斯クノ如キ症状ト經過ノ中ニ、私ハ神佛ノ加護ヲツクヅクト感ジタ事ガ此ノ過渡期ニアリマシテ、
單ニ拾ツタ生命ナドト云フ安価ナ考ヘヲ私自身ニ考ヘナイノデアリマス。
私ニハ大切ナ預ツタ命デアリマス。
「 三十二絶後命、不附人間附自然 」 トハ當時ノ述懐デアリマスガ、
餘命アラバ信仰生活ヘト云フノモ此様ナ事情モアルノデアリマス。
( 後略 )
(5)  この手記は、次の言葉で終わる。
「 私ハ事前ニ於テ、抑止スル丈ケノ力徳モナク、已ニソノ機會モ逸脱シテ居リ、
  斷然殉情的ニ參加スルコトハ信念ガ許サズ、
而モ事後ニ於テハ周章、輕卒、無方針ノママニ何事ノ盡シテヤルコトモ出來ザリシノミナラズ、
周囲ニ迷惑ヲ及ボシタ等 醜態ヲ晒ラシマシテ、自ラ省ミテ眞ニ恥カシク思ツテ居ルモノデアリマス。
然シテ、關係事實、當時ノ心境等一切ヲ露呈致シマシテ、
實際ノ事實ニ基ク公正ナル御裁斷ヲ仰望致シテ居ル次第デアリマス。」


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