あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

43 二・二六事件湯河原班裁判研究 4 『 裁判 』

2016年05月24日 06時19分57秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
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五  裁判
1  公判の審理状況
自決した河野を除くその余の七名は、東京衛戍刑務所に収容され、
予審手続きを経て、昭和一一年四月二四日東京陸軍軍法会議に基礎された。
検察官香椎浩平名義の控訴状によると、
・・・(1)
訴訟記録には控訴状が編綴されていないので、原秀男ほか編 『 検察秘録 二 ・二六事件 』 Ⅲ ( 一九九〇年、角川書店 ) 62頁所収の 「 予審終了報告 」
と、同書104頁所収の 「 公訴提起命令 」 及び 「 控訴状 」 によった。

罪名は全員反乱罪の 「 諸般の職務従事者 」 ( 陸軍刑法二五条二号後段 ) とされている。
・・・(2)
陸軍刑法第二五條  党ヲ結ビ、兵器ヲ執リ、反乱ヲ爲シタル者ハ、左ノ區別ニ從テ處斷す。
一  首魁ハ死刑ニ處ス
二  謀議ニ参与シ、又ハ群衆ノ指揮ヲ爲シタル者ハ、死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ處シ、
     其ノ他諸般ノ職務ニ從事シタル者ハ、三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

三  附和雷同シタル者ハ、五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
被告人らは、第四公判廷で併合審理を受けた。
裁判長は陸軍歩兵中佐人見秀三、
法務官はその後北一輝 ・西田税 ・亀川哲也の審理に関与した陸軍法務官伊藤章信、
判士は陸軍砲兵大尉根岸主計、陸軍歩兵大尉石井秋穂、同杉田一次、
補充裁判官は陸軍騎兵大尉吉橋健児であった。
また、立会検察官は、陸軍法務官石井一男である。
第一回公判は、昭和一一年五月五日午前一〇時に開廷され、
陸軍軍法会議法四一七条によって、審判は非公開とされた。
・・・(3)
陸軍軍法会議法第四一七條  本節中審判ノ公開ニ関スル規定ハ、之ヲ特設軍法会議ノ訴訟手續ニ適用セズ

特設軍法会議のため、被告人らには弁護人を依頼することも許されない。
人定質問の後、水上 ・宮田 ・中島の順序で伊藤法務官の被告人尋問がおこなわれた。
翌六日の第二回公判では、
残りの者について、宇治野 ・黒澤 ・黒田 ・綿引の順で被告人尋問がなされている。
被告人らは、いずれも率直に犯罪事実を認めた。
しかし、彼らは、天皇と国民を騒がせたことについては恐懼し、謝罪の意を表したが、
自らの行動については、誰一人としてこれを悔いなかった。
彼らは、その全員が確信犯だったのである。
これは、将校班の一部の者が、公判で泣き言めいたことを述べたのと対照的である。
その供述の内容は、すでにそのあらましを紹介したので、ここでは省略する。
第三回公判 ( 同月七日 ) では、
予審官の各被告人尋問調書、
陸軍司法警察官 ( 憲兵 ) の河野壽に対する尋問調書、
検証調書などの書証の取調が行われた。
これで検察側の立証を終え、
裁判官は被告人らに対して、利益となる証拠があれば差し出すことができる旨を告げたが、
被告人らはないと答えている。
第四回公判 ( 同月一〇日 ) では、
検察官の論告 ・求刑と各被告人の最終陳述があって結審し、
判決日は追って指定すると告げられた。
論告 ・求刑と被告人らの最終陳述については、項を改めて紹介する。

2  検察官の論告 ・求刑
検察官の論告は、諸言 ・事実論 ・情状論 ・法律論の四部からなる。
以下、事実論と情状論のうち、重要な個所のみを抄録する。
(一)  事実論について
一  事実及び証明 ( 省略 )
二  本件決起の目的
本件は、一部の青年將校が北輝次郎、西田税らの矯激なる思想に心酔し、
民間同志と相結託し、私に兵力を使用し、多数の重臣顕官を殺害し、武力をもって枢要中央官庁等を占拠し、
民主的クーデターを敢行し、軍上層部に対し、いわゆる昭和維新断行を要請し、
その意図に即する後継内閣をして時局を収拾せしめ、
日本改造法案大綱の趣旨に基づき革新を計らむことを期し決起したるものにして、
本件被告人らはその目的 ・企図 ・認識の点においては多少相違するところあるも、
大体において同一目的の下にこれに参加するに至りたること、疑いを入れず。

三  本件決起の動機
( 前略 )
要路の重臣を除けば、直ちに国民の窮状を打開しうるもののごとく考えたるは、被告人らの認識不足なり。
今日各方面における窮状は、我が国のみの現象に非ず。
世界各国共通の現象なり。
もって、その原因の深刻複雑なるを知るべし。
破壊のみにより、断じて現下の窮状を救済し得るものに非ず。
これを要するに、被告人らは自己の偏狭なる判断にとらわれ、社会の一方面のみにと着眼し、
多方面の観察を怠り、大局の判断を誤るに至りたるものなり。

四  本被告人らの反乱参加の事情
被告人らは、かねてより社会問題に関心を有し、施政に対し疑念を抱き、
革新思想を所有し居りたるところ、
栗原安秀と相知るに及び、その所説に深く共鳴し、その信念を強め、
ついに直接行動の避くべからざる所以を確信し、爾来同志となり、
昭和維新運動に参加し、決起の時機を待望し居りたる者なり。
( 中略 )
各人につき論ずれば、
黒澤 ・中島は、栗原の感化 ・指導を受け、その人格に敬服し、確固たる信念を獲得し、
参加するに至りたるものなり。

宇治野は、栗原に感化 ・啓蒙せられたるも、根本の思想はかねてより抱懐せるところにして、
栗原の勧誘に盲目的に従いたるものに非ず。
年来の信念を決行せむがため、栗原らの行為に合流するに至りたるものなり。
また、牧野に対しては、従来より我が国を蠱毒する有害の人物なりと私に思惟し、
同志決起の際は自ら同人を暗殺すべく、栗原に対しかねて申し出ておりたるものなり。

黒田は、在隊栗原の感化 ・指導を受け、帰郷後も同人と相連携し、革新の意識濃厚なるものなり。
本件勃発前二月一五日国家革新のため牧野伸顕、鈴木貫太郎ら重臣に天誅を加うる必要ありとなし、
わざわざ郷里より上京し、栗原に進言したることあり。
( 中略 )
水上 ・綿引は、幼時より父兄の感化を受け、あるいは郷土の関係より皇国精神を注入 ・薫育せられ、
愛国の念に燃え、国家革新の先駆者たらむことを決意し、
日本大学在学中救国学生同盟または日本青年党等に関係し、
右翼運動に従事し、栗原と相知るに及び、共に事を挙ぐべき人物なりとし、
同志として相連絡し、決起を待望し居りたるものなり。
而して水上は、西田 ・澁川らとも関係あり。
西田に対してはこれを先生と呼び、昨年一二月までしばしば会合し、その啓蒙を受け居たるものにして、
なお同人は栗原より約三〇〇円の交付を受け、民間同志の獲得に努力したるものなり。

宮田は、中島と共々戦車隊に勤務中その指導啓蒙を受け、国家革新の同志となり、
当時下士官数名に対し啓蒙運動をなし、「 核心 」 「 皇魂 」 を交付し、
同人らの意識向上ら努め、除隊後も栗原と連絡し、待機し居りたるものなり。

五  犯行の原因
1  国権国法の無視 ( 省略 )
2  怪文書の横行
本件首謀者らは、昭和維新断行のため、同志の獲得 ・啓蒙の手段として多数の怪文書
を頒布し、
同志の意識向上に専心しおりたるものなり。
これら文書の大部分は、確実なる証拠に基づくものに非ず。
巷説を主とし、自己の主観を加え、扇動的記事を記載し、
重臣大官らの中傷讒誣を事となし居たるものにして、被告人らもこれら怪文書の影響を受け、
正鴰なる判断を誤り、事実をなんら批判することなく軽信するに至りたるものなり。
3  日本改造法案大綱の感化 ( 省略 )
4  自ら国士または志士なりと爲す正確
本件犯行は、被告人らがその同志を以て忠君愛国の所有者なりとし、
昭和維新を論ぜられば人に非ずと爲すは、かえって被告人らの偏見を立証するものなり。 ( 後略 )

(二)  情状論について
一  本件犯行の重大性  ( 省略 )
二  合法的手段を尽くさず ( 省略 )
三  出所進退に遺憾の点あり
一死報国は、被告人らの常套語なり。
真に国家を憂え、本件を敢行したらむには、速やかに出処進退を決し、
闕下に謝罪し、毀誉褒貶は後世の史家にまつこそ、憂国の士たる態度なり、
しかるに被告人らは、ことここに出でざるのみか、今にしてその非を飾るものあるは、
臣子の真道を弁えざるものといわざるべからず。

四  軍紀をみだり、皇軍の威信を傷つけたること
被告人宮田、中島は在隊中、宇治野、黒澤は現役軍人として、事前において昭和維新運動の同志となり、
軍紀上もっとも忌むべき結党を形成し、横断的結束をなしたるものにして、
軍秩をみだり、軍紀を破壊してることは大なるものあり。
宇治野、黒澤は当時軍籍にありたるにかかわらず、現役軍人たるの本分に背き、
かつ所属上巻を無視し、統帥関係なき栗原安秀の招致により参加したるものにして、
その本分に背き、統帥をみだりたる点は、その情状とくに重きものなり。
被告人らは、何れも軍服を着用し、参加したるものにして、この点に於て、皇軍の威信を傷つけたること大なり。

五  非人道的行為
( 前略 ) 被告人らは、本件襲撃に当たり携行したる軽機関銃を単に警戒に使用したるに止まらず、
屋内に乱発し、あまつさえ牧野伸顕を焼殺せむがため貸別荘に放火かるに至っては、
匪賊の行為と何等選ぶところなし。
放火は古来より御法度にして、極刑を以て望みたるたるところなり。
被告人らがかかる残虐なる手段を以て襲撃を敢行したるは、人道上最も非難攻撃すべきものにして、
切に糾弾を要するところなり。

六  被告人の心境
被告人らは、いずれも国家革新の意識濃厚なるものにして、今尚その非行を反省せず、
幾度でも国家革新の捨石たらむことを明言せるものにして、
何等改悛の情なく、将来決起の可能性あるものと信ず。

七  結果
( 前略 ) 被告人らは、反乱部隊の一部として参加したるものならば、
反乱より生じたる全結果に対し責任を負うべきは、論をまたざるところなり。( 後略 )

3  求刑
検察官は、被告人全員を反乱罪の 「 諸般の職務従事者 」 として、
水上 ・宇治野 ・宮田 ・黒田の四名に懲役一五年、綿引 ・中島の二人に懲役一三年、黒澤に懲役一〇年の刑を求めた。

4  被告人らの最終陳述
(一)  水上源一
私の氣持ちは、學理的に観察しては判りませぬ。
檢察官は、尊皇絶對の信念は等しく同胞の堅持するところなりと言われましたが、
牧野伸顕は加藤寛治大将の帷幄上奏を阻止して統帥權を干犯し、
これが帝國議會の問題となるや時の内閣總理大臣加藤友三郎は、兵馬の權は議會にありと明言したのであります。
・・・(4)
これは水上の記憶違いであり、ロンドン條約締結時の内閣総理大臣は浜口雄幸 ( 一八七〇--一九三一 ) である。
私は、陛下にあらせらるゝと判斷するものであります。
また、天皇機關説問題にしても、陛下は會社の社長と同様なりや。
なお、満洲事變後、政治家は軍部より頭を押えらるゝところより軍民離間策を講じ、
軍部が國防充實の爲めに相當の軍事費を豫算に計上せむとするや、
時の大蔵大臣高橋是清は農村疲弊の現狀を見ろと絶叫したのであります。
これらの例をしても、なおかつ尊皇絶對の信念は全國民の等しく抱懐せるところとなりと言い得るでしょうか。
斷じてしからずと答えざるを得ないのであります。
何れにせよ、國民はひとしく私らの行動に對して感謝しており、
從って、これがため軍隊に對する信頼を裏切ることなく、依然軍隊を絶對に信頼するものと思います。
ただ、宸襟を悩まし奉ったことについては、恐懼に堪えませぬ。

(二)  宮田晃
現在、各國共々悩み居るは、國防、ことに航空機の問題だと思います。
現在の飛行機は完全なりといえませぬ。
世界を一周し得る飛行機こそ、初めて完全である。
將來は必ずやこの完全なるものが完成されるでありましょうが、
これが完成の早き國ほど世界を征服し得ると思います。
わが國民はひとしく思いをここに致し、お互いに國防問題に關心を持ち、
平面計畫を立體化し、世界各國に先驅けて一日も早く現狀を改革し、
何事も先驅すべきだと思います。
また、現状は實際國民の疲弊はその極に達しております。
よって、至急これが對策を講じて頂きたいと思います。

(三)  中島淸治
何も申し上げることはありませぬ。

(四)  宇治野時參
私らは、もともと統帥權に基づかず行動しております。
しかし、これは所謂 「 君を諫めて死す 」 の場合に當たりむ、結局は忠節であります。
これに反して、たとえば奉勅命令が出でたるにもかかわらずこれに抗するが如きは、
君を諫めた後のことにして、即ち逆賊であります。
私らは三を捨てて決行する。
しかし、決行した以上は、大御心の儘に動くという精神で行動したのであります。
( 中略 )
私ら牧野襲撃部隊は、奉勅命令の下される以前、すでに憲兵隊にいたのでありますから、
普通の反乱罪、すなわち惡い事をしたというので罰せらるゝならば喜んで服從致しますが、
奉勅命令に反抗した逆賊としては罰を受けるに忍びませぬから、
この點、特に申上げておきたいと存じます。
猶ほ、私の思想 ・行動については、よく考えた上、もし間違いなることに氣づけば改めます。

(五)  黒澤鶴一
檢察官は、私らの考えを以て偏狭 ・獨斷なりと論告せられました。
もちろん無智でありますから、ある點に於て偏狭であり、獨斷もあると思いますが、
支配階級にある者の裏面に於ける思想行動に非國民のところのあるのは、
爭われない事實であります。
又、檢察官は、尊皇絶對の信念は我が國民の等しく抱懐せるところのように言われ、
尊皇絶對 ・忠君愛國は
私らが勝手に私ら同志のみの専有の如き考えを持って居るという趣旨を述べられましたけれど、
私はこの非常時に際して捨石となるつもりで今回の擧に出たので、
決して尊皇絶對 ・忠君愛國は乃公一人なりとうぬぼれ、
志士然として參加したものではないのであります。 (後略 )

(六)  黒田昶
檢察官は私らに對し、偏狭なりと斷言せられましたが、
農村に於いて眞面目に働いて居る者はいくら働いても少しも目の出ることのない現狀を見て、
そこに何だか矛盾があるのでなかろうかというような考えを起すのは當然で、
私のみではないと思います。
又、非行を反省せずと言われましたが、
私は七度生れて敵を滅ぼすの考えはありますけれど、
社會の情勢を観察せず、盲目的に起つものではありませぬ。
終りに一言申し上げます。
農村現在の實情は、秩父暴徒蜂起當時以上に疲弊しております。
理屈でなく、實際に即したる農村救濟および在郷軍人の指導を講ぜられたいと念じて居ります。
( 後略 )

(七)  綿引正三
今次の事件につき宸襟を悩まし奉ったことについては、寔に恐懼に堪えませぬ。
然し乍ら、私は、歴史的に、家系的に日本精神を植え付けられ、
この精神が今回の事件に參加せしむるに至ったのであります。

5  判決
昭和一一年七月四日、第五回公判期日を翌五日午前一一時とする旨の命令が為され、
同日午後各被告人にその旨の通知があった。
こうして、七月五日に判決が宣告された。
この日、反乱実行部隊参加者全員に対して、一斉に判決が為されている。
判決は、ほぼ先に述べたような犯罪事実を認定した上、
水上を反乱罪の 「 群衆指揮者 」 と認定して、同人に死刑を宣告した。
又、その余の被告人については 「 諸般ま職務従事者 」 として、
一律に禁錮一五年の刑に處した。
水上の死刑はもちろんのこと、綿引 ・中島 ・黒澤の三名についても、
禁錮刑ではあるが求刑を上回る刑期が言い渡された。
然し、宇治野 ・宮田 ・黒田については、求刑が懲役刑であったから、
むしろ刑が軽減されたことになる。
水上が、どのような心境で死刑判決を受けたかは、わからない。
求刑が有期刑だっただけに、それは青天の霹靂だったのではないだろうか。
然し、残された遺書には、そのような心の乱れを感じさせるものは一つとして見当たらない。
・・・(5)
河野司編 『 二 ・二六事件--獄中手記 ・遺書 』 ( 一九七二年、河出書房新社 ) 401頁以下

同月一二日、水上は東京衛戍刑務所に特設された刑場に於て、
反乱将校たちとともに銃殺刑に処せられた。
享年二八歳であった。