あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

43 二・二六事件湯河原班裁判研究 1 『 被告人らの経歴と思想 』

2016年05月30日 10時30分58秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二  被告人らの経歴と思想
1  河野壽
湯河原班のリーダー河野は、熊本陸軍幼年学校から士官学校に進み、
昭和三年一〇月陸軍砲兵少尉に任官した生粋の軍人である。( 陸士第四〇期 )
昭和九年に航空兵ニ転科し、一〇年八月には航空兵大尉に進級している。
河野は、同年一〇月から操縦科学生として所沢飛行学校に在学中であった。
いつ頃から革新思想の持主になったかは定かではないが、
昭和九年秋満洲に赴任する彼を東京駅に見送った実兄河野司は、
ホームで当時すでに軍を追われ要注意人物の村中孝次を紹介されて心中穏かでないものを感じたというから、
・・・(1)
河野司 『 私の二 ・二六事件 』 ( 1971年、河出書房新社 )  61頁

遅くともその頃には同志の契りを固めていたものと思われる。
磯部と河野は、昭和一一年一月頃一人一殺を誓い合い、
磯部は林銑十郎、河野は牧野伸顕をつけ狙っている。
・・・(2)
予審官の磯部浅一に対する昭和11年6月15日付証人尋問調書

このように、河野は急進派の中でも最右翼の一人であった。
決起計画は、昭和一一年二月一〇日歩兵第三聯隊での会合で初めて具体化されたが、
河野はその出席メンバーの一員であった。
彼はその席上で、牧野は自分がやると宣言した。
そして、一六日の午後には単身拳銃を携えて湯河原に赴き、牧野を探し求めている。
しかし、牧野の滞在先を突き止められなかったため、この単独行動は失敗に終わった。
河野は、実兄がいくら妻帯を勧めても、頑として応じなかったという。
・・・(3)
河野司 『 私の二 ・二六事件 』 ( 1971年、河出書房新社 )  63頁

後に述べるように、事件後河野は熱海の衛戍病院で自決を遂げている。
享年二八歳であった。

2  水上源一
水上は北海道瀬棚郡に生まれ、函館商船学校から日本大学専門部政治科を経て、
昭和九年三月同大学法学部政治学科を卒業し、弁理士を営んでいた。
もっとも、収入は月に二、三○円程度にしかならず、郷里の実兄の援助で生計を維持していたという。
事件当時二七歳の彼には、妻と一人の娘がいた。
水上は、学生時代に共産主義思想が跋扈していることに危機感を抱き、
政治 ・経済・社会問題の研究を始めたが、
やがて日本の資本主義経済機構に問題があるのではないかという認識を持つようになった。
革新運動に入った動機について、彼は法廷で次のように述べている。
「 ・・・・昭和五年ロンドン條約については、
 最初對英米日率最低七割でなければ國防の安全は期し得られずと主張し居りたるに拘わらず、
ついに六割何分にて條約を締結したるが、
これについても米國政府特使キャッスルが直接日本に乗り込み來りて誘惑し、
結局當時の内大臣牧野伸顕らは同特使より多額の金員の提供を受け、
わが全權をして譲歩せしめ、一方統帥權を干犯し、
以てかかる屈辱的條約を締結するに至ったのであるということを聞き、
更に、斯の國を擧げての關心たる満洲事變勃發し、
而も出征兵士の家族中には幾多悲惨の生活者あるのときに當たり、
財閥は國家國民を思わずドル買いにより私に巨利を博したる如く、
即ち、政党、重臣、財閥等特權階級は、何れも彼等の私利私欲のためには、
天皇も國家も、國體も國民も全然顧みないという有様にして、
是等は既に國民の常識と迄なって居るのであります。
茲に於て私は、彼等の爲めに歪められたる國體を何とかして匡さなければならぬとの氣持ちを抱くに至りました。
是、私が昭和維新運動をなすに至った、抑々そもそもの動機であります 」
水上も当初は合法的な運動を考えていたという。
しかし、意見を発表してみても、少しも反応がない。
これではとてもだめだという気持ちになりかけていたところに、
昭和七年五月、海軍士官らによる犬養首相暗殺事件が起きた。
いわゆる五 ・一五事件である。
水上は言う。
「 ・・・・まったくこれに共鳴し、
 自分も直接行動により、所謂昭和維新運動の捨石となろうと決心しました 」

水上は、同年五月中央 ・早稲田 ・慶応などの学生に呼びかけて、
救国学生同盟を組織した。
・・・(4)
救国学生同盟については、馬場義續 『 我國における最近の国家主義乃至国家社会主義運動に就て 』 ( 司法研究報告書集一九輯一〇号、1935年 )  628頁参照

その綱領は、
①  一君万民制の確立、
②  資本主義機構の改革
などであったが、彼の目的は、
真に維新運動の捨石となるべき人物を選び出すことにあったという。
参加者は四〇〇人にも達したが、
彼はその多くが自己の利益のために参加していることを知って失望し、
同年末にはこれを解散してしまった。
その後水上は、後述の救国埼玉挺身隊事件の関係者として検挙されたが、
釈放後の昭和九年二月には合法的政治団体の日本青年党を、・・・(5) 日本青年党については、前掲書804頁参照
また同年一〇月には在郷軍人の有志を集めて関東郷軍同志会をそれぞれ結成した。
しかし、官憲の圧迫がひどく、活動らしい活動はほとんどできなかったという。
水上は、昭和八年五月宇垣朝鮮総督暗殺計画の関係者として、約一月間西神田警察署に留置された。
また、同年一一月の救国埼玉挺身隊事件
 ・・・(6)
郷里の熊谷市で同志を指導していた吉田豊隆が、同志とともに、昭和八年一一月四日川越市で開催される立憲政友会関東大会に来会する
同党総裁鈴木喜三郎の暗殺を企てた事件で、大会前日に検挙された。
浦和地裁は、翌九年七月、吉田を懲役二年、他の六名を懲役いちねん六月から一年に処した。
宮本彦仙 『 社会思想の変遷と犯罪 』 ( 司法司法研究報告書集二〇輯一三号、1935年 )  354頁参照)

では、二月余りもの間埼玉県内のあちこちの警察署に留置されたが、
最終的には嫌疑が晴れて釈放されている。
水上が栗原と知り合ったのは、
昭和七年一二月幹部候補生として歩兵第一聯隊に入隊した友人山内一郎 ( 日大生 ) の紹介による。
爾来水上と意気投合し、山内や、後に埼玉挺身隊事件を起した吉田豊隆 ( 拓大生 ) らの同志も加えて、
国家改造運動についてしばしば協議していた。
栗原が指導するこのグループは、昭和八年九月二二日夜半を期して戦車数台を含む軍隊を出動させ、
西園寺公望、牧野伸顕ら重臣 ・政党首脳 ・財界人らを襲撃する計画を立てていた。
・・・(7)
救国埼玉挺身隊事件を捜査中にこの事件を探知した浦和地検は、
これを内乱予備事件として大審院検事局に移送し、同検事局は取調べを進めたが、
栗原らが 「 暴動を起こし本計画を実行するの真意の有無についてなお疑うべき点あり、
またこれ以上捜査を進むるの機に熟せざるものと認むるを以て、爾後の推移を厳重する 」 との理由で、昭和九年六月中止処分に付されたという。
現代史資料4 『 国家改造運動 』 1 ( 1936年、みすず書房 ) 137頁 ( 斎藤三郎 『 右翼思想犯罪事件の総合的研究 』 思想研究資料特輯五三号、1939年 )

これは西田税から察知され、厳しく叱責されて、暴発寸前で中止させられている。
・・・(8)
予審官の西田税に対する昭和一一年六月二日付第二回被告人訊問調書 ( 拙稿 「 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 」 (二) ・獨協法学三九号17頁 )、
西田の第二回公判における供述 ( 同 (三) ・同誌四〇号344頁 )
検察官の磯部浅一に対する昭和一二年二月二一日付聴取書 ( 拙稿 「 二 ・二六事件北 ・西田裁判研究 」 同誌四二号138頁 ) 参照

実は、埼玉挺身隊事件は、この軍隊の出動中止に飽き足らない吉田らが企てた、
民間側同志のみによるテロ計画であった。
牧野らをなぜ奸賊と認めるのかという裁判官の質問に対して、水上は次のように答える。
これは、問いに答えたことにならないのだが、彼は論理の飛躍に気づかない。
「 私は、我が國體を考え、
 陛下の大御心は國民全體をして均しく恵擇せしむべきものと信じております。

然るに現狀は、一方に大富者あり、他方に貧者あり、一様になっておらぬのであります。
是、何故かと申しますに、これは畢竟するに翼賛の方法惡しく、
且、大御心を中途において横取りする牧野、齋藤らの
元老 ・重臣 ・財閥その他の特權階級があるために外ならぬので、
此の點より観察し、是等の者は奸賊なりといい得ると思います 」
水上は、現在の心境を次のように述べる。
「 今回の事件は餘りにも大きく、陛下の大御心を悩まし奉り、
 國内を一時にもせよ不安の思いをさせたことについては、誠に申譯ないと思っているものであります。
しかしながら、私の從來よりの信念には是が爲め少しも影響するところなく、微動だもしませぬ。
( 中略 )
( われわれが ) 今日のこのような境遇に立ち至ったのは、輔弼の責めにある者が、
私ら同志の本當の氣持ちを陛下に奏上し奉らなかったによるものと思います。
元老、重臣らは陛下と國民の間に介在し、中斷して、
上聖明を覆い、下國民を苦しましむるの一例證であります。
身はかかる輔弼者のために現在斯様な境地にありますけれど、
この度決起し、牧野を襲撃した點については、これが殺害の目的を遂げなかったにせよ、
維新運動史上何らかの役割を果たしたものと思っております。
將來維新實現の實が見えなければ、如何に宏なる牢獄を次々に増築するも、
とうてい私ら同志を収容し盡くせないであろう。
必ずや牢獄は内部より破壊さるるに至るものなることを、信じて疑いませぬ 」
このように水上は、民間人ではあるが、かなりファナイックな思想の持ち主であった。

3  宮田晃
宮田は茨木県猿島郡の農家出身で、商船学校を中退した後、
昭和四年一月に歩兵第七五聯隊 ( 朝鮮 ・会寧 ) に入営し、
昭和八年八月戦車第二聯隊 ( 習志野 ) に転属となつた。
同一〇年一一月には陸軍歩兵曹長に進級し、同時に満期除隊となっている。
宮田と栗原との出会いは、戦車第二聯隊においてであった。
栗原は、昭和八年五月から約二年間聯隊に勤務したが、
その間下士官 ・兵に革命精神を植え付けるため、活発な洗脳教育を施している。
栗原の感化を受けて昭和維新への参加を誓った下士官 ・兵は、一時期かなりの数に上ったという。
しかし、栗原が昭和一〇年三月に転出するや、聯隊内の維新熱は急速に冷めてしまったが、
宮田はその後も栗原の忠実な弟子の一人であった。
除隊した宮田は、歩兵第一聯隊に栗原を訪ね、就職の斡旋方を依頼した。
栗原は、先輩の山口一太郎大尉にこれを頼み、
山口の口利きで、宮田は大森の日本特殊鋼合資会社に就職することができた。
彼はこれを非常に恩義に感じ、
「 決起するときは来い 」 との栗原の言葉に 「 喜んで死にます 」 と答えたという。
もっとも宮田は、就職させてくれた義理で決起に参加したものではなく、
この決心は昭和八年頃から変らなかったと述べている。
宮田は、現在の心境について次のように述べる。
「 私らのとった今回の行動の善惡はともかく、
 私ら下層階級の者として、社會の現狀を見て已むに止まれず、
直接行動より他にとるべき方法、手段なしと信じて決行したものでありまして、
現在においてもその信念に變わることはありませぬ。
( 中略 )
この度もも眞崎、荒木、柳川らの陸軍首脳部の人々が、
私らと同じ信念の下に率先して昭和維新の爲に盡力してくれておるとのみ信じておったので、
是等の人々が中心となってやるのだから、必ず決起の目的は達成せられ、
不成功に終わるようなことはないと絶對に信じておったのであります。
ところが後に聞く所によると、栗原中尉らは元軍人の磯部、村中らと一團となってことを決行したので、
軍首脳部では何も了解しておらなかったとのことで、
これでは、ただいま斯かる境地に立つのも致し方のないことだと諦めておりますと同時に、
この點は、さらによく考え直して見ればならぬと思っております 」
事件当時宮田は満二七歳、妻と二人の子供があった。

4  中島淸次
中島は、新潟県南魚沼郡に生まれ、
地元の小学校を卒業後前橋の姉の婚家の手伝いなどをしていたが、
昭和四年一月歩兵第三〇聯隊 ( 高田 ) に入営し、同八年一二月戦車第二聯隊に配属となり、
一〇年一一月陸軍歩兵曹長に進級して満期除隊となった。宮田と同年兵である。
彼は、昭和九年頃から栗原の感化 ・指導を受けるようになり、
やがて現在の重臣ブロックを倒し、天皇政治を確立することが急務であると考えるようになった。
宮田と同様に、この気持ちは除隊後も変わらなかったという。
中島は、法廷で次のように述べる。
「 漸進的改革を待っておれる間は結構でありますけれど、
 現在の國内情勢はそんなのんきなことを言っておるときではなく、・・・・最惡にして、
且 急進の場合にとるべき直接行動により維新を斷行するよりほか、
途がない・・・・・私は私として、この信念に基づき行動して居れるに拘らず、
今回決行するに際しては、何等信念なき者の如くみられ、恰も日雇い人足の如く扱われたかの感が起りました 」
この最後のくだりは、栗原 ・河野ら決行将校から同志扱いにして貰えず、
情報も満足に与えられないまま、一方的な命令 ・服従の関係のもとで、
将棋の駒のように扱われたことに対する不満であろう。
しかし、このように栗原らを批判した中島ではあるが、現在の心境らついては、
昂然と次のように言い切る。
「 現在の社會情勢を革新するの手段として私らが決起し、直接行動に出たことについては、
 今尚惡いことをしたとは思って居りませぬ。
私ら同志の今日の行動により、大なる意味においては必ずや社會がよくなるものと考えて居ります。
もし事實においてこれに反し、社會情勢が惡化するようなことがありとすれば、
それは、私ら決起したる者の決行の程度
及び襲撃の範囲が不足しておったために外ならぬと思うのであります 」
当時彼は二八歳、独身であった。

5  宇治野時参
千葉県東葛飾郡 ( 現松戸氏 ) に生まれ育った宇治野は、昭和七年一月入営の現役兵であり、
歩兵第一聯隊第一中隊に所属する陸軍歩兵軍曹 ( 二四歳 ) であった。
彼がいかに革命精神に燃えていたかは、裁判官から決起に参加した動機 ・理由を問われたのに対して、
「 私は、參加したのではありませぬ。強いて申せば、合流したのであります 」
と答ていることからも明らかであろう。
彼は、千葉県立葛飾中学校を一年で中退して上京し、呉服屋の店員見習いなどをしているうち、
蒲田にいた中国浪人深沢四郎を知り、三年間住み込んでその薫陶を受けた。
尊皇絶対と特権階級打倒の信念は、その頃に培われたという。
その彼の思想は、昭和一〇年一一月頃聯隊で栗原と相知るに及んで、
いよいよ確固たるものになって行った。
宇治野は、栗原と初対面のときに、
「 將校が社會問題を論じたり、
 鍬を持ったことのない者が農村問題を論じたとて、何がわかる。

それよりも將校は將校自らをまず改造し、
下士官をして眞の日本國の下士官たらしむべく敎育するのが急務ではなかろうか 」
と直言したという。
その反骨ぶりが窺われる。
彼が最大の標的としていた人物は、牧野伸顕その人であった。
彼は、法廷で次のように言う。
「 私は私として、自分が目標にしている牧野伸顕だけ倒せばよいと思っておりましたので、
 いつぞや栗原中尉と會った際にも、決行するときは私に牧野を撃たせて下さいと頼んでおいたことがあります。
今回牧野の襲撃部隊に振り當てられたのも、斯かる關係があったからではないかと思います 」
牧野を狙う理由を尋ねられて、宇治野は
「 君側の奸臣だと信じて居るからだ」
と答えるだけで、そう信じた理由については述べるところがない。
また、直接行動を決意した理由については、次のように述べる。
「 君に忠たるの途は、君の馬前で死ぬ場合/君を諫めて死ぬ場合の二つであると思います。
 私は、渡満して匪賊相手に死ぬよりも、渡満前に君側の奸を除き、
以て君を諫めて死ぬ方が、より以上忠たる所以と信じたからであります 」
しかし、彼は、栗原らが命令によって下士官 ・兵を出動させたことについては批判的であった。
以前に栗原からそのように企てを聞いたとき、宇治野は、
「 直接行動は必要だが、もともと國法に悖る惡いことだから、
 何の信念もない者を連れ出すことは良くないのみならず、決起將校の恥辱ではないか 」
と反対したという。
彼は、衛戍刑務所に収容されている叛乱部隊の下士官の多くが、自らの行動を泣いて悔み、
自らの将来について思い悩んでいることを指摘して、
「 彼等は信念なく、成功すれば將校となれるだろう、相當の地位にしてくれるだろう、
 多大の行賞が得られるだろうと思い、これを目途としておったものとしか思われない 」
と批判し、自分が栗原に忠告した所以もここにあったと述べる。
この点は、まさしく正論というべきであろう。

6  黒澤鶴一
黒澤は埼玉県秩父郡の出身で、
昭和九年一月に歩兵第一聯隊に入営した現役の陸軍一等兵であった ( 満二〇歳 )。
彼は最初機関銃隊に所属し、後に歩兵砲隊に転属となったが、
機関銃隊にいたときに栗原の指導を受けて啓発されるところがあり、
砲隊に移ってからも一週間に一度は栗原を訪ねて、指導を受けていた。
一月下旬と二月中旬の二回、栗原から、
「 覚悟はいいか 」 と真剣に尋ねられたので、
近々決起するのではないかと思っていたという。
黒澤は、入営前に西郷侯爵邸に住み込んで書生をしながら、
府立第五中学校の夜間部に通っていたことがあった ( 四年中退 )。
西郷家で、彼は上流階級の腐敗堕落ぶりを目の当たりに見せつけられ、
また、五 ・一五事件など刺激されて、特権階級打倒の思想を抱くようになったという。
黒澤は、現在の心境について次のように述べる。
「 直接行動の惡いということは、最初からわかっております。
 しかし、惡いと知りつつ、已むに止まれず決起するに至ったのでありまして、
現在においても私自らの考えが間違っておったとは思いませぬ。
しかし、今後は眞に僞らざる眞面目な生活を送りたいということを基盤にして、
さらに反省してみたいと思っております 」

7  黒田昶
黒田も埼玉県秩父郡の出身で、昭和六年一月に歩兵第一聯隊に入営し、
同七年七月に帰休除隊となった予備役陸軍上等兵である。
彼は、同聯隊で初年兵係教官だった栗原の指導を受けて、その感化を受けた。
除隊後は、農 ・養蚕業の家業を手伝っていた二四歳の青年である。
黒田は法廷で、多額の村債がある上、一戸平均八〇〇円もの個人負債を抱えた秩父の山村では、
「 村民は天衣粗食、家は雨の漏れるに任せ、尚且つ、喘いでいる狀態 」
であって、「 いかに励んでも食えない 」 と、その疲弊ぶりを訴える。
そして、これは 「 特権階級が陛下と国民の間に介在して、自己の利益のみを考えているから 」
であり、
「 國家改造は非常手段に訴えてでも速やかに着手せねばならぬと考えるようになった 」
と述懐する。
黒田は直情径行型の人物であったらしい。
彼は、単独で牧野伸顕と鈴木貫太郎に天誅を加えようと決意し、
二月一五日に家出して、栗原にその胸の内を明かにした。
しかし、お前ように興奮していてはだめだと叱られ、
少し頭を冷やすようにと宮田を紹介されたという。
黒田は、決起した目的について、
「 陛下の御仁政に、
 私ら農民や無産階級の者たちまでも
一様に浴し得られるような日本の社会情勢にしたいためであります 」
と答えている。

8  綿引正三
茨木県久慈郡出身の綿引は、県立茨木工業高校を経て、
昭和一〇年三月に日大専門部政治科を卒業した二一歳の青年であった。
卒業後も就職することなく、実家と先輩水上の家を行き来していた。
彼は、専門部在学中から国家改造運動に関心を抱き、
水上の指導のもとで救国学生同盟に加盟し、続いて日本青年党の党員となった。
綿引を信頼していた水上は、彼を日本青年党の学生の責任者の地位につけていた。
綿引は、昭和九年水上の紹介で栗原を知り、その後も水上に連れられて、ときどき栗原を訪ねていた。
彼は、いわば水上の舎弟分であって、二月二五日夜に栗原を訪ねたのも、
水上に誘われてのことであった。
綿引は現在の心境として、
「 一日も速やかに國體の眞顯現を祈るのみ 」
とだけ答えている。