あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
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「 世直しや 」
私はそう答えた

43 二・二六事件湯河原班裁判研究 5 『 判決の問題点 』

2016年05月20日 15時38分01秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六  判決の問題点
1  反乱罪の正否について
判決は、その理由中で、牧野襲撃の事実を適示する前に、
「 栗原ら二十数名の者らが兵員を引率指揮し、内閣総理大臣らの官私邸を襲撃して重臣 ・大官らを殺傷し、
 他方帝都の枢要部分を占拠して国権の発動を妨害した 」
旨の事実を掲げている。
しかし、この適示が、東京部隊の行為をも被告人らの 「 反乱行為 」 として認定した趣旨なのか、
それとも牧野襲撃行為の事情として掲げた趣旨なのかは、必ずしも明らかではない。
判決が、右事実に続けて、被告人らが 
「 栗原より前記襲撃目標、決起の日時及び実行計画の概要を説示せられ、
 かつ被告人らは亡元陸軍航空兵大尉河野壽指揮の下に、
神奈川県湯河原町伊藤屋旅館貸別荘に滞在静養中なる、
前内大臣牧野伸顕を襲撃暗殺すべき任務を授けられるや、
いずれも勇躍してこれに参加せむことを快諾し 」 と説示しているところからみると、
おそらく前者の趣旨であろうと思われるが、
そうだとすると、後述のように証拠適示の関係で問題が生じる。
これに対して、もしも後者だとすれば、
判決は、被告人らについて、牧野襲撃行為それだけで反乱罪が成立するという解釈をとったことになる。
この場合には証拠上の問題は起きないものの、このような解釈論の妥当性が問われなければならない。
そこで、以下のこの点について若干の考察を試みる。

陸軍刑法二五條の反乱罪は、陸軍軍人が 「 党を結び、兵器をとり、反乱をなす 」 ことによって成立する。
「 党を結ぶ 」 とは、多数の者が同一事項の実行に関して意思を合一させることとか、
・・・(1)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 81頁。

共通の目的のために共通の意思をもって相団結することをいうとされ、
・・・(2)
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 23頁
「 反乱を為す 」 とは、国の権力の組織又は発動に対して、侵害を加える手段として暴行脅迫を為すこととか、
・・・(3)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 196頁。

暴行脅迫を以て兵力または官憲に反抗することをいうと理解されていた。
・・・(4)
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 24頁 

被告人らの牧野襲撃行為は、東京部隊の行動と切り離してそれ自体で、これらの要件に該当するのであろうか。
まず、自決した河野を含む牧野襲撃部隊の人員は八名である。
これで党を結ぶための要件である 「 多数 」 といえるかどうか、まず疑わしいが、
この点をさておいても、反乱罪の主体たり得る陸軍軍人の身分を有する者は、
そのうちわずか三名に過ぎない。
これを以て 「 多数 」 に当たるとは、とてもいえないはずである。
・・・(5)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 81頁は、
結党の要件としての多数人は、集団犯の本質から二、三人の者で足りるとすべきかは疑いか゜あるとし、
結局具体的事案において規定の趣旨を考え、社会的危険を生じ得るかどうかを調べて決定すべきであるとする。

もっとも、大審院の判例によれば、陸軍軍人の身分を有しない残りの五名についても、
刑法六五条一項の適用によって本罪が成立する。
・・・(6) 
大審院昭和一〇年一〇月二四日判決、刑集一四巻 1267頁
しかし、それは、身分者について本罪が成立した場合に、
それに共同した非身分者についても共犯の成立を認めるという趣旨に過ぎず、
「 多数 」 の認定について、身分者 ・非身分者を問わないとした趣旨ではない。
この問題は、軍刑法の趣旨と反乱罪の法的性質から論じなければならないであろう。
軍とは、国家防衛の任務を有する戦闘的機構ないし集団をいう。
その戦闘能力、すなわち戦力を保持するためには、軍の規律、すなわち軍紀の維持がきわめて重要である。
軍紀は軍の生命であって、軍紀の乱れた軍隊はその存在価値を失うに至る。
・・・(7) 
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 2頁 

そこで軍刑法は、その構成員である軍人に対して、一般刑法では罪とならない行為をとくに犯罪とし、
あるいはその刑罰を一般の場合よりも加重するのである。
このような軍刑法の趣旨から考えると、軍刑法犯罪の正否は、
原則的にその犯罪の主体たり得る軍人について論ずるのが当然といわなければならない。
軍刑法は、戦力保持の観点から集団犯罪をことさらに重視し、
一般刑法の共犯例のほかに、「 結党 」 「 党与 」 「 多衆聚合 」 という概念を設けて、
これらに対して厳罰をもって望んでいる。
・・・(8)
これらの概念については、菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 80頁以下参照

今ここでその詳細を述べることは差し控えるが、反乱罪はこの 「 結党 」 をその成立要件としている。
この反乱罪の法的性質からすると、党を結ぶ主体は、まさに先頭集団の構成員である軍人でなければならない。
以上の二つの理由で、
結党の要件である多数者の認定は、軍人の身分を有する行為者について論ずべきであると解する。
そうでないと、党を結んだ多数の者のうち軍人がわずか一名で、残りはすべて非軍人であった場合であっても、
反乱罪の成立を認めることになってしまう。
これは、本罪の性質を無視した、非常識な結論というべきであろう。

次に、「 反乱 」 要件への該当性について検討する。
牧野の暗殺を企てたことが、はたして 「 反乱 」 といえるかという問題である。
牧野はその前年に内大臣を辞しており、すでに 「 君側 」 を退き、悠々自適の身分であった。
このように、もはや国の権力組織の構成員とはいえない牧野である以上、
これを殺害することは、何等国の権力の組織 ・発動に侵害を加えることにはならない。
即ち、これだけでは反乱行為に該当しないというべきである。
以上の二点によって、東京部隊の行動と切り離した被告人らの牧野襲撃行為だけでは、
反乱罪の成立を認めることはできないと考える。
被告人らの行為を、東京部隊の行動を含めた反乱計画の一環と捉えてこそ、
初めてこれを反乱罪に問うことができるのである。

2  証拠法則違反
前項でみたように、被告人らの行為について反乱罪を適用するためには、
それが決起将校の反乱計画の一部であり、東京部隊の行動と合わせて 「 党を結び、兵器をとり、反乱を為した 」
事実が認定されなければならない。
東京部隊の行動は、被告人らにとってもまさに 「 罪となるべき事実 」 であるから、
これを判決理由中に示し、且、「 その事実を認めたる理由 」、すなわち証拠説明をすべきである。
・・・(9)
陸軍軍法会議法一〇一条二項  刑ノ言渡ヲ爲スニハ、罪ト爲るべき事実及其ノ事実ヲ認メタル理由竝法令ノ適用ヲ示スベシ
そこで判決をみると、全体の反乱計画と東京部隊の反乱行為についての適示は、
次のようなきわめて簡単なものである。
「 栗原安秀その他二十数名の同志が、所謂昭和維新断行の目的を以て相団結し、
 昭和一一年二月二六日午前五時を期し一斉に決起し、
かねて謀議決定したる部署に基づき、夫々所要の兵員を引率指揮し、
機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃、その他の兵器竝びに弾薬を携行し、
内閣総理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、侍従長鈴木貫太郎、
教育総監渡邊錠太郎、前内大臣牧野伸顕らの官私邸を襲撃して、前記の重臣、大官その他の者を殺傷し、
一方警視廳を襲いこれを占拠して警察力の発動を阻止し、
又東京市麹町區永田町を中心とする帝都の樞要地域を占拠して交通を制限し、
国権の発動を妨害したる上、
陸軍首脳部に対し維新実現の爲めの建設耕作工作を爲さむとするに當たり、云々 」
はたしてこれで、法の要求する 「 罪となるべき事実 」 の判示として十分かどうか疑問なしとしないが、
この点はさておき、ここで問題としたいことは、
かかる事実を認定した証拠説明が判決書に欠けていることであり、
又、公判調書上この事実について証拠を取調べた記載がまったくないことである。
陸軍軍法会議法一一二条二項七号によると、朗読した書類等は公判調書の記載事項とされており、
また一一六条は、公判期日における訴訟手続きは公判調書によってのみ証明できると規定している。
したがって、調書に記載がない以上む、その手続きは為されなかったものといわなければならない。
本件牧野襲撃を取り仕切ったのは、前述のとおり栗原であったが、
その栗原の調書さえ公判廷には提出されていない。
・・・(10)
先に本稿で引用した栗原、磯部の調書は、他事件の証拠とされたもので、本事件の公判に提出されたものではない。
すなわち、本軍法会議は、証拠に基づくことなく罪となるべき事実を認定したのである。
もっとも、判例によると、公知の事実及び裁判所が職務上知り得た事実、
すなわち裁判所に顕著な事実については、証拠による認定を必要としない。
そこで、次にこの二点について検討を加える。
本事件の弁論集結は昭和一一年五月十日であるが、
当時はいまだ戒厳令施行中であり ( 解止は七月一八日 )、当局の発表以外一切の報道が禁止されていた。
したがって、国民は、いまだ事件の全貌を知る由もなかった。
このような状況であるから、東京部隊の行動が公知といえないことは論をまたないであろう。
次に、「 裁判所の顕著な事実 」 という場合の 「 裁判所 」 とは、
審判を担当する訴訟法上の意味における裁判所を指している。
したがって、湯河原班の裁判を担当した訴訟法上の意味における軍法会議がその職務上知り得た事実であれば、
証拠に基づかずしてこれを認定することが可能である。
しかし、当該軍法会議 ( 人見ノート ) は、湯河原班以外の裁判を担当していないから、
東京部隊に関する事実を裁判所に顕著な事実ということはできない。
もっとも、伊藤法務官は湯河原班以外に属する被告人の予審官あるいは検察官として、
又その余の判士はすべて兵班の判士として、それぞれ事件の概要を知り得た立場にはあった。
しかし、それは、当該軍法会議そのものが職務上知り得た事実ではなく、
あくまでも各裁判官の個人的知識 ( 私知 )に過ぎない。
したがって、かかる私的な知識に基づく事実については、立証が必要となるのである。

以上の検討から明らかなように、
本判決は、証拠によることなく犯罪事実を認定するという、

近代法の大原則というべき証拠裁判主義に反する重大な違法をおかしているのである
・・・(11)
陸軍軍法会議法三八三条  事実ノ認定ハ証拠ニ依ル

3  中島に対する法令適用の誤り
本判決は、水上 ・宮田 ・黒田 ・綿引にのみ刑法六五条一項、六〇条を適用し、
中島に対してはこれらの刑法の条項を適用していない。
しかし、中島は水上らと同様に、現役の陸軍軍人ではない。
したがって、同人に陸軍刑法を適用するためには、右条項の適用が必要である。
本判決はこれを遺漏しており、この点において法令適用の誤りがあるといわなければならない。

4  水上に対する量刑について
本判決は、水上を 「 群衆指揮者 」 と認め、同人に対して死刑を宣告した。
検察官は、水上を他の被告人らと同様に 「 諸般の職務従事者 」 として起訴し、
求刑も懲役一五年であった。
求刑を上回った綿引 ・中島 ・黒澤に対する量刑も問題であるが、
本稿では水上に対する死刑の選択について考察を加えることにする。

水上は、河野が負傷して戸外に脱出した後、先頭に立って屋内に侵入し、
中島に対して軽機の射撃を命じ、次いで放火を思い立って自ら建物に火を放ち、
他の被告らに牧野を逃がさないように注意を呼びかけるなど、事実上サブ ・リーダー的な役割を果たしている。
これらの行動をみると、同人を単なる諸般の職務従事者ではなく、
群衆指揮者とした本判決の認定は、むしろ正しかったように思われる。
そこで、次に量刑について検討する。
判決が水上に対して法定刑中の最高刑を選択したのは、
同人の果した役割が大きかったことのほかに、
右翼革命運動の指導者として活躍してきた同人のキャリアを重視したからであろうと思われる。
その経歴と思想の強固な点において、水上は他の被告人らとは格が違うからである。
しかし、被告人らが狙った牧野伸顕は、身をもって逃げることができた。
護衛警官の皆川が死亡したが、これは皆川の攻撃に河野らが防戦したため発生した、
偶発的ともいえる不幸な出来事であった。
人の現住する建造物にたいする放火行為は、水上の刑事責任を考える上で見落とせない要因であるが、
本件では、幸いにも放火行為による死傷者はなかった。
医師の検案書によると、皆川の死因は火熱のための焼死ではなく、
右胸部の二個所の銃創による失血死であって、判決もこの事実を認めているからである。
被告人らの射撃によって、牧野をかばっていた看護婦と消火に駆けつけた付近の住民の二名が負傷したが、
二人とも幸にそれほどの重傷ではなかった。
焼け落ちた建物の被害額は、家具類を含めて七、五〇〇円であるが、
そのうち五、〇〇〇円は火災保険でカバーされたはずである。
このようにみてくると、被告人ら、とくに水上の責任が重いことはいうまでもないが、
極刑を相当とするほどの重大な結果の発生はなかったというべきではないであろうか。

次に、水上の経歴について考える。
確かに同人は、筋金入りの革命家であり、確信犯である。
しかし、彼には検挙歴こそあるものの、前科はない。
したがって、通常の量刑感覚で考える限りは、いかに彼の前歴を重視したとしても、
死刑を導く要因とはなり得ない。
他方、被告人らは、本件犯行後河野の命令に従って、平穏裡に三島憲兵分隊に赴き、捕縛されている。
陸軍司法警察官 ( 三島憲兵分隊長 ) が作成した送致書には、
「 ・・・・厳重処分の要あるものと認むるも、犯行の原因、前述の如く憂国の至誠に出でたるものにして、
 決行後は潔く兵器を捨て、憲兵の指示を乞うに至れるものにして、その情状相当酌量の余地あるものと認む 」
とある。
このような、実質的には自首にも匹敵する犯行後の状況は、
通常ならば被告人らに有利に作用するはずであったが、本判決は、なぜかそれに一顧だも与えることがなかった。
これらの情状を総合して考えると、被告人らに対する量刑、とくに水上に対する死刑の選択は、
不当に重過ぎるといわざるを得ない。
・・・(12)
戒厳司令部が集めた判決の反響中に、
「 ことに湯河原組は軍関係者に比しとくに重し 」 ( 右翼ならびに弁護士方面 )、
「 湯河原組に対し同一主旨に基づくにもかかわらずとくに厳刑を科せば、判断に苦しむ 」 ( 在郷軍人 )
「 水上の極刑は意外なり 」 
などの意見がみられる。
松本清張編 『 二 ・二六事件  研究資料 』 Ⅰ ( 一九七六年、文芸春秋 ) 281頁

七  おわりに
最後に、裁判記録の検討を終えてその感想を二、三記しておきたい。
まず、被告人らが揃いも揃って、自らの行動を少しも悔いていないことには驚かされた。
まさに全員が確信犯であって、彼らは栗原の甘言に乗せられたわけではなかったのである。
その強固たる意思には脱帽のほかはないが、
問題と思われるのは、検察官が論告で指摘しているように、
被告人らの牧野に対する敵意が、
何らの証拠にも基づかない巷説を無批判に軽信した結果によるものであった点である。
前述のように、ロンドン條約に関する加藤軍令部長の上奏を直接阻止した人物は、
牧野内府ではなく鈴木侍従長であった。
国際協調派であった牧野が同条約の批准を希望していたことは疑う余地はなく、
したがって彼がその実現のため最善の努力をしたであろうことも想像に難くない。
その意味では、牧野に対する軍部と右翼の敵意は必ずしも的外れではなかったというべきであろうが、
少なくとも巷説のように、彼が直接加藤の上奏を阻止した事実はなかったのである。
しかし、牧野はロンドン條約以降相次ぐ怪文書によって、「 君側の奸 」 の筆頭に祭り上げられてしまった。
水上は、法廷で、牧野がロンドン会議を成功させるために来日したアメリカのキャッスル大使から買収されて、
わが全権に譲歩をさせたと述べている。
・・・(1)
原田熊雄 『 西園寺公と政局 』 第一巻 ( 一九五〇年、岩波書店 ) 22頁に、キャッスル大使の着任後、
政教社の同人五百木良三の子分が同大使を訪ねて詰問したところ、
大使から軍縮会議の使命 ・日米親善 ・世界平和などの問題について諄々と説かれ、
その真摯な態度と誠意に感激して帰り、大使の人格を賞揚したというエピソードが紹介されている。
アメリカ大使が一流国の高官に対して直接買収工作をするなどということは、
およそ常識的にあり得ないことといわなければならない。
しかも、牧野は、天皇の側近とはいえ単なる廷臣に過ぎず、
外交 ・政治に関して何らの発言権も有していないのである。
また、このような牧野がロンドンにある若槻礼次郎らの全権に対して、
条約締結についての指示を与えるようなことができるはずもない。
しかし水上は、そのような噂を信じて疑わなかった。
このような単純きわまる思考様式は、水上に限ったことではなく、他の被告人にもみられるところであり、
そこにデマゴトギーの恐ろしさを感ぜずにはいられないのである。

記録に収録されている証拠を検討した結果、
水上を群衆指揮者と認定した判決の判断には、
合理性があることがわかった。
したがって、同人に対する量刑がその他の被告人よりも重くなることは、むしろ当然というべきであろう。
しかし、それにもかかわらず、水上を極刑に処すべき理由は、ついに見出せなかった。
水上は、河野の亡き後のいけにえにされたのである。
ここに、きわめて政治的な東京軍法会議の実体が浮き彫りにされている。
思うに、陸軍は、水上を血祭りにあげることによって、
軍人に接触のある民間右翼を恫喝しようとしたのではないだろうか。
後に北一輝 ・西田税をなりふり構わず殺してしまったやり方とは若干構図を異にしているが、
なぜか担当法務官がどちらも伊藤章信であったことは、興味をそそられる点である。