獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一 はじめに
二 二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三 捜査の概要
1 捜査経過の一覧
2 身柄拘束状況
3 憲兵の送致事実
4 予審請求事実 ・公訴事実
四 北の起訴前の供述
1 はじめに
2 検察官聴取書
3 警察官聴取書
4 予審訊問調書 ( 以上三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五 西田の起訴前の供述
1 はじめに
2 警察官聴取書
3 予審訊問調書
4 西田の手記( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )
六 公判状況
はじめに
第一回公判 ( 昭和11年10月1日 )
第二回公判 ( 昭和11年10月2日 )
第三回公判 ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )
第四回公判 ( 昭和11年10月5日 )
第五回公判 ( 昭和11年10月6日 )
第六回公判 ( 昭和11年10月7日 )
第七回公判 ( 昭和11年10月8日 )
第八回公判 ( 昭和11年10月9日 )
第九回公判 ( 昭和11年10月15日 )
第一〇回公判 ( 昭和11年10月19日 )
第一一回公判 ( 昭和11年10月20日 )
第一二回公判 ( 昭和11年10月22日 )
第一三回公判 ( 昭和12年8月13日 )
第一四回公判 ( 昭和12年8月14日 )
七 判決
八 むすび ( 以上本号 )
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5 第四回公判 ( 昭和11年10月5日 )
第四回公判では、北に対する被告人訊問が始められた。
以下、主要部分を要約しながら紹介する。
なお、表題は私が便宜付したものである。
(一) 被告事件に対する陳述等
法務官ハ被告人北輝次郎ニ對シ、
問 位記、勲章、記章、年金及恩給等ヲ有セザルヤ
答 アリマセヌ。
問 刑罰ニ処セラレタル事ナキヤ
答 昭和五年十月三十日大審院ニ於テ上告棄却ト爲リ、
原審ノ暴力行爲等処罰ニ關スル法律違反罪ニ依リ言渡サレタル懲役四月、四年間執行猶餘ノ判決ガ確定シ、
昭和九年二月十一日勅令第十九號ニ依リ懲役三月二十二日ニ變更セラレマシタガ、
刑執行猶餘ヲ取消サルルコトナク期間ヲ經過シマシタ。
又、御成婚當時警視廳ニ檢束セラレマシタガ、關係シテ居ナイ事が判ツテ翌朝釋放サレタ事ガアリマス。
問 被告人ニ對スル犯罪じ事實ハ斯様ニ爲ツテ居ルガ之ニ附陳述スル事アリヤ
此時法務官ハ、公訴狀記載ノ犯罪事實を讀聞ケタリ
答 私ト西田ガ今回ノ事件ノ主動者トナリ、私ノ日本改造法案大綱ヲ實行セムガ爲ニヤツタ様ニ論ゼラレマシタガ、
左様ナ事實ハアリマセヌ。
私ガ支那革命ニ關係シタ事ガアルト云フノデ私ノ書イタ日本改造法案ガ危險デアルト云フ観方ハ、
息子ガ燐家ニ泥棒ニ入ツタカラ、自宅デモ泥棒スルダラウト思フ様ナモノデアリマス。
最初西田ヲ庇ツタ爲憲兵隊ニ聯行サレタノデ、私ガ今回ノ事件ノ泉ノ様ナ立場ニ置カレタノデアリマシタガ、
檢察官ガ警視廳ノ警部ノ様ナ事ヲ述ベラレタノニハ驚キマシタ。
憲兵隊長ハ私ニ對シテ、死処ヲ選ブベキダト言ハレマシタガ、私ノ如キハ西郷南洲ニ比較サレル様ナ人間デハアリマセヌ。
兎ニ角、事實ハ事實トシテ有リノ儘ニ申上ゲマスカラ、裁判官ノ方々モ有リノ儘認メテ頂キタイト思ヒマス。
問 被告人ノ學歴如何
答 私ハ出生地ノ高等小學校ヲ卒業シテカラ県立佐渡中學校ニ入學シマシタガ、
脳神経衰弱ノ爲第三學年修了後中途退學シ、郷里ニ於テ病気療養ニ努メ、
二十二歳ノ時東京ニ出テ、夫レヨリ後ハ獨學ニ依ツテ勉強シマシタ。
(ニ) 中国革命参加の経緯
日露戦争後、北は宮崎滔天に誘われて、
当時日本に亡命中の孫逸仙、黄興、宋敎仁、張繼ら中国革命の志士たちに会うべく、孫の家に行く。
孫は、
「 自分ハ亡ビタ明ノ後ノ漢民族デアル。明ノ亡ビタ狀況ハ御承知ノ通リダ。
満洲朝廷ハ自分等ニ對スル征服者デアル。是非之ヲ斃シテ復興セネバナラヌ。
斃シ得ザルニシテモ、満洲ニ追歸シタイモノデアル。
自分等ハ、其ノ爲ニ斯様ニ放浪シテ努力シテ居ルノダ。」
などと熱弁を振るった。
「 私ハ、若イ時ノ事トテ情熱ニ軀ラレ、
征服者ニ對スル被征服者ノ叫ブ民族獨立ト云フ事ニ非常ナ感興ニ打タレマシタノデ、
宮崎滔天ガ
『 他ノ事ヲヤルヨリモ、其ノ方ニ加ハツテヤル方ガ男トシテ働キ甲斐ノアル仕事ト思フカラ、 一緒ニヤラヌカ 』
ト言ハレルト、
直グ 『 ヤリマセウ 』 ト答ヘテ、
孫逸仙等ノ支那革命党秘密結社ニ加盟ノ誓ヲ立テマシタ。」
(三) 国家改造案原理大綱執筆の経緯
「 第二ノ世界大戰前ニ日本ノ國内ヲ改造シテ置ク必要ガアルト考ヘマシタノデ、
大正八年八月ヨリ約一ケ月ヲ要シ、上海ニ於テ執筆シタノガ、御訊ネノ國家改造案原理大綱デアリマス。
私ガ夫レヲ書キ終ル頃、未知ノ大川周明ガ満川亀太郎ノ紹介状ヲ持ツテ上海ニ來リ、
『 日本ハ今ニモ革命ニナリサウデ支那ヨリモ日本ガ危イカラ、支那ヲ捨テテ早ク日本ニ歸ツテクレ。
私ガ斯ウシテ居ル間モ、日本デハ騒動ガ起キテ居ルカモ知レヌ 』 ト 」 迫った。
そこで北が
「 執筆中ノ改造案ヲ示シマシタ処、大川ハ宿舎ニ持歸リ、翌日再ビ私ノ所ヘ來テ、
『 アノ改造案ヲ基礎ニシテ日本國内ノ改造ヲヤラウ。唯、資産限度ノ三百万圓ハ高過ギル様ニ思フ 』
ト言ヒマスカラ、私ハ 『 資産限度ハ幾ラデモ宜イ。原理理論サヘ明確ニ摑ンデ居レバ宜イノダ。
君ハ之ヲ持歸ツテ指導者ニ与へ、參考トシテ一定ノ方針ヲ立テテクレ。
自分ハ書殘リヲ書イタ上、ナルベク早ク歸國スル 』 ト申シマシタ。
大川ハ其ノ原稿ヲ持ツテ、先ニ日本ニ歸リマシタ。」
周知のように、この国家改造案原理大綱は後に、「 日本改造法案大綱 」 と改められ、
わが国の国家社会主義運動の聖典とされた。
(四) 大川周明との決別について
北は大正九年の元日に帰国し、大川周明が満川亀太郎と作った猶存社に入った。
しかし、両雄相立たず、両者はやがて袂を分かつようになる。
「 大川ノ如キハ、最初私ヲ迎ヘ入レタモノノ床ノ置物ニシテ置ク心意デアツタラシク、
私モ一切外出セズ、人ニモ會ハヌ様ニシテ同年八月頃迄何モセズ、猶存社ニ止ツテ居リマシタガ、
此時起ツタノガ彼ノ御成婚問題デ、
・・・(1)
大正九年、ときの皇太子 ( 後の昭和天皇 ) の婚約者久邇宮良子女王 ( 現皇太后 ) の母系 ( 島津家 ) に色盲の遺伝があることがわかった。
純血論を唱えて婚約解消のために動いた元老山県有朋 ( 長州出身 ) らに対して、
人倫論の立場から東宮御学問所御用掛杉浦重剛がこれに抵抗したが、ことはやがて政治問題へと発展した。
これが 「 宮中某重大事件 」 である。
右翼の大御所の頭山満らと共に、大川、北らの猶存社も杉浦を支援して活発に動いたようである。
結局山県の全面的敗北に終わり、宮内大臣には薩摩派の牧野伸顕 ( 大久保利通の次男 ) が就任した。
最近の文献として、渡辺克夫 「 宮中某重大事件の全貌 」 THIS IS 読売一九九三年四月号56頁、
大野芳 『 宮中某重大事件 』 ( 一九九三年、講談社 ) 参照
私ハ事實關係ナカツタノデアリマスガ、一晩檢束、留置サレタノデ、初メテ一ツノ仕事ヲシタ様ニ感ジマシタ。
私ハ御成婚問題ニ附テハ薩長何レノ派ニモ屬シマセヌデシタガ、
結局薩摩ノ希望ガ容レラレテ此時宮中ニ入ツタノガ、實ニ牧野伸顕ノ人デアリマス。
ソコデ牧野ハ、猶存社ガアツタ爲ダト恩ニ被テ、同社ヲ實価以上ニ買被リ、
言論ハ兎ニ角行動ハ立派デ、非常ニ働ク此人々ガアレバ惡イ風潮ヲ善導シテ行ク事モ出來ルト思ヒ、
大川ナドヲ非常ニ贔屓ニシマシタ。
其ノ頃、王陽明學者デ年中形堅苦シイ事バカリ話シテ居タ安岡正篤ガ、
大川ト竝ンデ牧野ノ信任ヲ得タ様デアリマシタガ、後、大川ノ如キ無骨者ヨリモ安岡ノ方ガ好キダト見ヘ、
大川ヨリモ餘計ニ信任スルニ至リマシタ。
私モ安岡ハ近年珍シイ人ダト思ヒ、尊敬シテ居リマシタ。
兎ニ角大川ハ、牧野ノ背景ガアル爲自然ニ金ガ出來、私ガ何モセズヂツトシテ働カヌト云フ様ナ事ヲ言ヒ出シ、
結局猶存社同人ハ私ノミヲ取殘シテ行地社ヲ結成シマシタ。
然シ、必ズシモ私ニ反感ヲ抱イテ別レタト云フ程デハナカツタト思ヒマス。
其ノ後大川ハ、行地社内閣トカ、北ハ監督ダトカ自ラ大言壯語シテ喜ムデ居ツタ様デ、
私ハ此子供ラシサガ若イ學生ナドノ氣ニ入リ、多ク其ノ傘下ニ集ツタモノト思ツテ居リマス。
又、私ノ改造法案ガ社會ニ擴ガツタノハ、多ク大川ノ方面カラデアリマシタ。
問 被告人ガ西田税ヲ知ツタノハ何時カ
答 西田税ハ士官學校在學中私ガ猶存社ニ居タ當時、
大正十五年頃大川カ満川ノ紹介デ私ヲ訪ネテ來テ會ツタノガ初メテデアリマス。
其ノ後西田ハ士官學校在校中ニ、三回私方ニ見ヘマシタガ、
同校ヲ出ルト朝鮮ニ赴任シタ爲交際ハ途絶ヘテ居リマシタ処、同人ガ軍職ヲ退イテ上京シ、
行地社ニ入ツテヨリ後ハ、屢々訪ネテ來ル様ニナリマシタ。
問 西田ハ何故行地社ヲ脱退シタカ
答 其ノ譯ハ十分知リマセヌガ、何デモ先輩達ニ煽テラレテ大川ニ忠告シタ所カラ、
西田ノ方ガ怒ツテ出タト云フ事ヲ仄カニ聞イテ居リマス。
問 其ノ頃ノ行地社ト被告人トノ關係ハ何ウデアツタカ
答 私と行地社同人トハ別ニ感情ノ衝突ガアツタ譯デハアリマセヌ。
又、社員ノ八割迄ハ大川派デ、満鐵ヨリ金ヲ貰ツテ居ルノデ、爲ニ小サイ喧嘩ノ絶間ガナク、
バルカン半島ト云ハレタ程デアリマス。
其ノ内西田ガ怒ツテ同社ヲ出マシタガ、夫レカラモ私トノ間ノ交友ハ元ノ儘續イテ居リマシタ。
処ガ大川ト私ノ仲ヲ引裂ク必要ノアル人ガ居ツテ、中傷、離間策ヲ講ジ、遂ニ大川ト私ハ袂ヲ分ツニ至ツタノデアリマス。
後デハ大川モ心淋シク思ツタ事ト思ヒマスガ、私ハヨリ淋シイ思ヒヲ致シマシタ。
問 大川ト別レタ直接ノ原因ハ何カ
答 何モ之ト云フ原因ハナク、大川トハ性格的ニ相違する所ハアリマシタガ、
取立テテ云フ程ノ相容レナイ所ガアツタ譯デモアリマセヌガ、
何時ノ間ニカ大川ガ私方ニ來ナクナリ、私モ亦大川ニ會ハヌ様ニナリマシタ。
大川トシテハ、無力ナ私ヨリモ有力ナ牧野ノ方ガ便利デアツタデセウシ、
安岡モ何ウシタノカ私ヨリモ大川ノ方ニ寄ツテ行キマシタ。
結局周囲ノ事情ニ依リ、自然別レル様ニナツタノデアリマス。」
このように答えた北であるが、法務局の更なる追及にあって、
日本改造法案大綱の出版権を行地社から取り上げて西田に与えたことと、
ソ連承認問題で大川と意見を異にしたことが対立の直接的な原因であると認めている。
(五) 朴烈 ・文子怪写真事件について
・・・(2)
大正一五年、朝鮮人朴烈とその内妻金文子が大逆罪で死刑の判決を受けた。
( その直後恩赦で二人とも無期懲役に減刑 )
ところが判決の後、朴が文子を膝の上に抱いている写真が各方面に配布され、
しかもこれが担当予審判事の撮影によるものであることが判明し、内閣不信任案迄提出される騒ぎとなった。
これが 「 朴烈 ・文子の怪写真事件 」 である。
我妻栄外編 『 日本政治裁判史録 ・大正編 』 379頁 [ 許世楷 ] ( 一九六九年、第一法規出版 )、
野村正男 『 法窓風雲録 』 上巻222頁 ( 一九六六年、朝日新聞社 ) 参照
「 問 被告人ハ、何ムナ事ヲシタ爲ニ処罰サレタノカ
答 大正一五年頃西田ハ、宮内大臣牧野伸顕ニ對スル辭職勧告文ヲ出シタガ返事ガ來ナイカラ、
更ニ出サウト思フト云フノデ、二度目ニ出ス辭職勧告文ノ草稿ヲ持參シマシタノデ見ルト、
非常ラ激烈ナ文句ヲ烈ネテアリマシタカラ、私ハ
『 此様ナ事ヲ書イテハ、警視廳ニ廻サレテ君ハ直グ捕ヘラレルカラ、激烈ナ文句ダケハ避ケタ方ガ宜カラウ 』
ト申シテ、夫レヲ修正シテ遣リ、尚 『 手紙ナド出スノハ止メテハ何ウカ 』 ト申シマシタガ、
西田ハ肯入レズ、私ノ卓子デ私ノ封筒ヲ使ツテ手紙ヲ書キ、牧野ニ送リマシタ。
之ガ所謂宮内省怪文書事件デアリマスガ、之ト併行シテ所謂朴烈 ・文子ノ怪冩眞問題ガ起リマシタ。
私ハ、國家改造ニハ倒閣ニ次グニ倒閣ヲ以テ進マウト考ヘテ居リマシタノデ、
朴烈 ・文子ノ怪冩眞ヲ見タ時、之ヲ以テ倒閣ニ導カウ、之ガアレバ江木司法大臣ハ十分倒セル、
其ノ一角ヲ崩セバ、或ハ内閣ノ致命傷トナルカモ知レヌト思ヒマシテ、
政友會、小川平吉及山本悌次郎ナドニ其ノ事ヲ話シマシタ処、森恪ガ政友會ヨリトシテ賛成ナル旨ヲ通知シテ來マシタ。
私ハ、此運動ハ西田ヨリモ他ノ者ガ宜イト思ヒ、其ノ者ヲシテ冩眞ヲ添ヘテ其ノ筋ニ文書ヲ出サセマシタノデ、
司法省トシテハ威信ヲ傷ケルモノトシテ大ニ憤慨シ、調査スルト、私ト西田ガ關係シテ居ル事ガ判リマシタガ、
夫レデハ何トモ言ヘヌノデ、牧野ニ出シタ手紙ニ仮託シ、西田等ヲ警視廳ニ勾引シテ家宅捜査ヲシマシタガ、
冩眞の原板ガ出テ來ズ、私ノ家宅ヲ捜査スルト牧野ニ出シタ狀袋ト同ジ狀袋ガ私方ニ在ツタノデ、
之レ幸ト私ヲ勾引シタ次第デ、結局怪冩眞ノ方ハ問題ニナラズシテ、
西田ノ出シタ手紙ニ依ツテ、暴力行爲等處罰ニ關スル法律違反トシテ罰セラレタノデアリマス。
北は、この事件で約半年間勾留され、昭和二年一、二月頃保釋で出所した。
「 其ノ頃ヨリ神秘ノ生活ニ入ル様ニナリ、其ノ方ヘ力ヲ注イデ居リマシタ。
昭和五年頃海軍ノ ロンドン條約問題ガ起リ、西田ハ私ノ關係デ森恪、中野正剛等ニ接近シ、
其ノ反對運動ヲ致シマシタガ、私ハ單ニ西田ヨリ狀況ヲ聞知シテ居タ程度デアリマス。」
「 問 昭和五、六年頃ヨリ陸海軍青年將校ノ間ニ國家改造意見ガ高マツタ様デアルガ、
之ニ對シ如何ニ観察シテ居タカ
答 私ガ改造法案ヲ執筆シテ居タ當時ハ、日本デハ今ニモ大騒動ガ起キ、
戒嚴令ヲ布キ、三年、五年ノ内ニハ改造ガ斷行サレルト思ツテ居リマシタガ、
西田ニ譲ツタ頃ニハ改造實現ハ遠イ將來ノ事ダ、十年ヤ十五年デハ其ノ時期ハ到來シナシモノト思ヒマシタノデ、
西田ハ未ダ若イ、其ノ内ニハ實現サレル様ニナルカモ知レヌ位ノ気持ハアリマシタ。
夫レガ満洲事變ガ起キタ爲ニ、國家改造ト云フ事ガ頓ニ喧シク叫バルル様ニナツタノデアリマス。」
(六) 十月事件との関係について
北は、十月事件にはまったく關与していなかった。
彼は言う。
「 十月事件ノ事ハ、西田カラ尠シ聞イタダケデアリマス。
内相安達謙蔵ノ処ヘ關屋貞三郎ガ行ツテ、陸軍ハ何日ヲ期シテ蹶起シ、
元老 ・重臣ヲ襲撃、殺害スルト言ツテ居ルト告ゲタトカ、大川ナドハ待合デ、革命ダ、維新ダ、
中野正剛ナドノ様ナ癪ニ觸ル奴ハ殺シテ了ウナドト大聲デ叫ンダトカ云フ事ヲ耳ニシマシタノデ、
私ハ待合ト警視廳ハ何事デモ筒抜ケニ知レル所ナルニ、ソムナ所デ彼是言フノハ判ラヌ、
又關屋ガ内相ノ所ヘ告ゲニ來タトスレバ、既ニ牧野ノ所ヘ洩シテ居ルニ違ヒナイ、
サウスレバ牧野等ハ陛下ヲ擁シ奉ルデアラウ、スルト蹶起軍ハ何所ニ銃口ヲ向ケルカナト思ヒマシタノデ、
十月十六日建川ニ電話ヲ掛ケタ上會ヒマシテ、
『 蹶起スル日迄外部ニ知レテハ駄目ダカラ、日ヲ改メタ方ガ宜イデハナイカ 』 ト申シマシタ。」
問 十月事件ニテ後々迄問題ニナツテ居ルノハ、
豫メ詔勅案文ヲ認メ、陛下ヲ強要シ奉ル計畫ガアツタト云フ點デアルガ、之ニ對スル被告人ノ見解如何
答 大川ガ詔勅ノ案文ヲ書イタト云ヘバ書イタダラウト思フ位デ、
書イタカラトテ之ヲ以テ陛下ヲ強要シ奉ル事ガ出來ルカ出來ナイカモ判ラズ、
先カラ先ヲ仮定シテ物事ヲ考ヘル様ナ事ハ致シマセヌ。
唯陸軍トシテハ、満洲問題ガ此所迄來テ居ルノニ之ヲ防ゲルノハ不都合ダト云ツテ奮起スルノハ當然デ、
其ノ手段方法モ已ムヲ得ザルニ出デタ當然ノ事ト思ヒマス。
( 中略 )
問 十月事件以來、軍部殊ニ青年將校ト西田ノ關係ヲ如何ニ観テ居タカ
答 十月事件ノ頃ニハ菅波ガ見ヘタ位デアリマシタガ、
五 ・一五事件デ西田ガ川崎長光ニ狙撃サレ瀕死ノ狀態ニ在ツタ時、
安藤、山口、大蔵、栗原等數数名ノ陸軍青年將校ガ見舞ニ見ヘマシタノデ西田ト關係ノアル將校ダト思ヒマシタガ、
西田モ亦私ニ聞カシテモ役立タヌトデモ思ツテ居タノカ、青年將校トノ關係ニ付テハ尠シモ話シマセヌデシタノデ、
一般青年將校ト西田トノ關係ハ私ニ判リマセヌデシタ。
私ハ其ノ時西田ノ看護ヲシテ居タ關係デ、彼等青年將校ヲ相知ルニ至ツタノデアリマス。
問 被告人ハ軍部ノ動向ニ附多大ノ關心ヲ有シ居タ爲、青年將校ニ接觸スルニ至ツタノデハナイカ
答 私ハ政党 財閥 官僚トノ交友ハ廣クアリマシタガ、青年將校トハ何ノ關係モアリマセヌテシタ処、
十月事件ニ依リ青年將校ガ私ノ眼前ニ映ル様ニナリマシタ。
然シ、事實青年將校ヲ知ツタノハ西田ヲ通シテ知ツタノガ大部分デアリマス。」
(七) 日本改造法案大綱の思想について
問 被告人ハ、現在ニ於テモ國家改造理論トシテ日本改造法案大綱ノ内容ト同一思想ヲ抱イテ居ルカ
答 現在ハ私ガ改造法案ヲ書イタ當時ニ比シ、日本ノ客観的情勢ガ幾分異ツテ居リ、
且同法案ノ叙述ニ附不穏當ナ所ガアリ、表現ノ方法ニ附訂正補足ノ必要ヲ感ジテ居ル部分モアリマスガ、
根本ノ指導原理ニ於テハ変更スル必要ヲ認メテ居リマセヌ。
即チ、私ノ思想其ノモノハ執筆當時ト同様デアリマス。
私ハ、國家ノ改造ハ必ズ同法案ニ示ス様デナケレバナラヌト主張スルモノデハアリマスガ、
結局同法案ニ示ス所ノ如ク改造サレルモノト思ツテ居リマス。
問 日本改造法案ニハ憲法停止ノ事ヲ書イテアルガ、憲法ヲ停止シ戒嚴令ヲ布クノカ
答 私が改造法案ヲ執筆シタ當時ハ、憲法其ノ他ノ參考書籍ガ手許ニ在リマセヌデシタ。
唯私トシテハ、結局ハ動亂ニナル、
動亂ニナレバ、戒嚴令ヲ以テ鎭靜シテ置イテカラ改造ヲスルト云フ意味デ書イタモノデアリマス。
憲法ヲ停止シナイト、貴族院、衆議院ノ如キガ、憲法ニ違反スルトカ法律ニ牴觸スルトカ論議スルニ至ルベク、
サウナツテハ陛下ガ大英斷ヲ以テ國家改造ニ御決意遊バサレテモ、
之等ノ爲ニ改造サレナイト云フ虞レガアルカラ、彼等ニ口ヲ開カシメズ、
大御心ノ儘改造ガ出來ル様ニト思ツテ、憲法停止ノ事ヲ書キマシタ。
然シ、如何ニ戒嚴令ヲ布クト書イテアツテモ、動亂ガ起キナケレバ無論其ノ必要ハナイノデアリマスシ、
現在デハ、陛下ガ改造斷行ト御決意遊バサレ給ツタノヲ反對スル様ナ不忠者ハ恐ラクアルマイト思ハレマスカラ、
或ハ實際改造スルニ當ツテハ戒嚴令ヲ布ク必要ガナイカトモ思ハレマス。
問 被告人ハ明治天皇ヲ特ニ尊崇シ奉ツテ居ルトノ事ナルガ、左様カ
答 左様デアリマス。
私ノ如く日本ヲ離レテ生活シタ者ニハ、明治天皇ノ有難サガ特ニ身ニ沁ミテ居リマス。
問 其ノ明治天皇ガ欽定アラセラレタル憲法ヲ、今生陛下カ停止遊バサレル事ハアルマイト思ハレルガ、
停止シ給フモノト考ヘル事夫レ自体、既ニ明治天皇及今生陛下ノ御意圖ニ副ヒ奉ラナイ事ニナルノデハナイカ
答 夫レハサウナルト思ヒマス。
問 スルト、我國體ヨリ観テ何ウナルト思フカ
答 明治天皇ハ、憲法ハ不磨ノ大典ト仰セラレテアリマス。
憲法ハ萬代不易デ停止スベハデナイ、必要ガアレバ改正シテモヨイガ、全面的停止ヲシテハナラヌ、
從テ一時デモ憲法ヲ停止スル事ハ、明治天皇ノ御意圖ニ副ヒ奉ラナイ事ニナル様ニ思ハレマス。
サウ解釋スルト私ノ思想行動ハ其所ニ出發シテ居ルノデ、
私ハ日本人トシテ不都合ニシテ非國民デアリ、不逞ノ徒ニシテ逆賊ナリト云フ事ニナリマス。
然シナガラ、私ハ憲法ヲソムナニ解釋シテ殊更停止ト云フ文字ヲ使ツタノデハアリマセヌ。
私ハ停止ヲ以テ否定ト同様デアルトハ思ハズ、却テ改正ト同様ニ見テ居リマス。
陛下ハ憲法ノ下ニアルノデナク、憲法ノ上ニ在ラセラレルノデアルカラ、
大權ヲ以テスレバ憲法ノ改正、停止、何事デモ御意ノ儘ニ爲サセラレ給ヒ得ルモノト思ツテ居リマシタ。
從テ、憲法停止ト書イタ事ト我國體トハ何等ノ關係モナク、國體ニ違反シテ居ラナイモノト思ツテ居リマス。
尠クナクトモ私ハ、國體ニ違反シタ様ナ事ヲ考ヘテ居リマセヌ。
( 中略 )
問 被告人ハ、之迄長イ間世間ヨリ彼是攻撃セラレテ居ル様デアルガ、若シ危険思想ヲ抱イテ居ナイモノナラバ、
世人ノ攻撃ニ對シ反駁、弁明スベキ筈ナルニ、之ヲ爲サズ放任シテ居タノハ何ウ云フ譯カ
答 私ハ改造法案中訂正スベキ個所ノアル事ハ氣附イテ居リマシタガ、
一個所ヲ訂正スルト自然他ノ個所モ訂正シナケレバナラナクナリマスノデ、
御イノリノ關係デ非常ニ疲レルノト暇ト根氣ガ無カツタ爲ニ、訂正ガ出來ナカツタノデアリマス。
又、アノ古イ、薄イ小册子ガ今頃有志者ニ用ヒラレ様トハ全然思ハズ、既ニ一ツノ籾もみニナツテイタノデ、
今デハアノ籾カラ芽ヲ出シた別ノ物ガ實ツテ居ル、アレハ既ニ世ニナキモノト思ツテ居リマシタカラ、
其ノ儘ニシテ置イタノデアリマス。
然シ、私ノ右小冊子日本改造法案大綱ガ籾種ト爲ツテ夫レカラ出タ種々ノ思想、議論ガ危險 ・不逞デアリトスレバ、
無論籾種ヲ作ツタ私ニ責任ガアリマス。
唯私トシテハ、屢々申上ゲル通リ、危險思想ガアツタ爲ニ同法案ヲ執筆シタモノデハアリマセヌ。
實ハ、世間デハ私ニ對シ色々ノデマヤ惡評ヲ放チ、
或人ヨリハ改造法案ヲ書直シタラ宜カラウト忠告シテクレタ事モアリマシタガ、
別段氣ニモ留メズ、放ツテ置イタノガ惡カツタノデアリマス。
西田トモ、「 憲法ヲ停止シナクテモ改造ガ出來ルカモ知レヌ 」 ト話合ツタ程デアリマスカラ、
早ク訂正シテ置ケバ宜カツタト思ヒマス。
問 今回ノ事件ニ參加シタル青年將校等ハ、被告人ノ右改造法案ノ趣旨ヲ信ジテ居ル様デアルガ何ウカ
答 私有財産ノ限度ト云フ事ハ、私ガ始メテ申シタ言葉デハアリマセヌ。
専制政治ハ ロシア、支那ノ様ナ國デナケレバ出來ナイ事デ、
日本ハ自律的自由デナケレバナラヌト思ツテ居リマスノデ、
私ノ改造法案ノ骨子ハ此所ニ在ルノデアリマシテ、他ノ事ハ枝葉末節デアリマス。
憲法停止ヲ主ニシテ書イタノデハアリマセヌ。
又對外的ノ事ヲ書ク趣旨デハアリマセヌガ、名かニ對外的議論モアリマスカラ、
青年将校等ハ此点ガ氣ニ入リ注目シ、爲ニ改造法案ヲ金科玉条ノ様ニ愛讀シ、
私ヲ先覺者ノ様ニ見ルニ至ツタモノト思ヒマス。
私ハ國體破壊等ノ考ガアツテ書イタノデハアリマセヌガ、
青年將校等ガ改造法案ヲ見テ、之ヲ信ジタガ爲ニ國體ヲ破壊スルガ如キ行動ニ出タトスレバ、
其ノ責任ハ全部私ガ負フベキモノト思ヒマス。
問 被告人ガ青年將校等ト接觸シタ程度ハ
答 栗原安秀ハ五 ・一五事件以來三、四回、
菅波三郎ハ同事件前後頃數回、安藤輝三ハ同事件以來二、三回、
山口ハ同事件ノ頃一回、昭和九年十四、五回 ( 尤モ、之ハ揉療法ガ主 )、及本年ノ元旦一回、
對馬勝雄ハ少尉時代一回、大蔵榮一ハ百人町在住當時三、四回、村中孝次ハ昭和十年頃三回位、
ソノ後中野ニ移ツテヨリ屢々各訪問ヲ受ケタ程度デアリマシテ、其他ノ將校ハ知リマセヌ。
問 被告人ハ夫等ノ者ニ對シ思想的ニ指導シタカ
答 私ハ彼等ガ遊ビニ來ルノハ歓迎シマシタガ、
思想上ノ事ニ附テハ、此等ノ人ニ限ラズ一般ニ話シテ居リマセヌ。
時々質問スル者ガアリマスガ、其ノ様ナ時ニハ必ズ、「 學校ノ先生ハ御免ダ 」 ト申シテ居リマシタ。
私ハ彼等ノ様ナ美シイ心ノ持主ト會フノハ嬉シクアリマシタガ、
彼等トシテモ國家改造ニ關スル同志的關係ニ於テ、
私ヲ先輩トシテ、私ニ會フノヲ光榮トシタノデ、從テ會ツタ丈ケデ満足ヲシタ譯デ、
此爲思想的ノ話ハ致シマセヌデシタガ、親シク交ツテ居リマシタ。
ダカラ、彼等ノ思想ノ中心ヲ爲シテ居タノハ私デアリ、日本改造法案大綱デアリマス。
故ニ此意味ニ於テ、結局ハ日本改造法案大綱ヲ中心トシテ、私ハ彼等ノ主動的立場ニ在ツタ次第デ、
從テ彼等ガ同法案ヲ中心トシ、背景トシテ改造ニ志シ、
之ガ斷行ノ爲直接行動ニ進ミツツアツタ事ハ間違ヒナイト思ヒマス。
言ヒ換ヘマスト、私ハ改造法案ノ趣旨ヲ實現化スル爲、彼等ヲ通ジテ其ノ気運醸成ニ努メテ居タ次第デアリマス。
( 中略 )
問 被告人ハ、改造法案ニ記セル憲法停止ハ超法規的行爲ト見テ居ルノカ
答 左様デアリマス。
大權ノ發動ニ依リ憲法ヲ停止スル事ハ超法規的行爲デ、天皇ハ之ヲ爲シ得ルモノト思ツテ居リマス。
問 彼等ガ稍モスレバ超法規的ナル言葉ヲ使フノハ、
被告人ノ改造法案ニ超法規的ナル語ヲ使ツテアル所ヨリ出テ居ル思想デハナイカ
答 其ノ程ハ判リマセヌガ、人ハ時ニ法ニ觸ルルノヲ覚悟シテ犠牲ニナル場合ガヨクアリマス。
之ハ身ヲ殺シテ仁ヲ爲スノ行爲デハアリマスガ、
決シテ法律ヲ超越シタ罰セラレナイ行爲ニハナリ得ナイノデアリマスカラ、
彼等ガ超法規的行爲ト云フ言葉ヲ使フ事ハ私ノ希望スル所デモナク、
又彼等ニシテモ相澤ヤ此度彼等自ラ爲シタ行爲ヲ以テ、
超法規的デ刑責ナシト考ヘル様ナ没常識ノ者ハ居ルマイト思ヒマス。
事實左様ナ言葉ヲ使ツタトシテモ、夫レハ私ノ思想ニ出發シテ居ル思想ダト解釋スル事ハ出來マイト思ヒマス。
斯ノ如キハ、徳川綱吉ハ男色女色ニ耽リ、犬ニ至ル迄溺愛スルニ至ツタガ、經書所持シテ居タトノ事デアリマスガ、
之ヲ以テ經書ト綱吉ノ思想行爲ハ同一ナリト以テ云フ様ナ論法デハナイカト思ヒマス。
(八) 事件余地後のこうどうについて
問 被告人ガ今回ノ事件ヲ知ツタノハ何時カ
答 私ハ昭和元年頃ヨリ法華經ニ専念シ信仰生活ニ入浸リ、世間ト遠ザカリ、
從テ青年將校等モ殆ド私方ニ出入シナクナツテ居リマシタノデ、
今回ノ事件ニ附テモ青年將校ト直接交渉ノアツタノハ西田デ、私ハ西田ヨリ聞イテ知ツタ位ノモノデアリマス。
本年二月中旬頃西田ガ私方ニ來テ、相澤公判ノ狀況ヲ話シマシテ、
若シ弁護人申請ノ證人ヲ却下スル様ナ事ニナレバ、青年將校ガ蹶起スルカモ知レヌ様ナ不穏ナ空氣ガアルト申シマシタ。
然シ、其ノ頃私ハ三月ニナレバ支那ニ行カウト思ツタノデ、左程氣ニモ留メズニ居リマシタ処ガ、
同月二十日頃ヨリ同月二十五日頃迄ノ間ニ毎日ノ如ク西田ガ來テ、
具體的計劃ノ事ヲポツリポツリト話シテクレタノデ、驚イタ次第デアリマス。
( 中略 )
問 被告人ハ其ノ話ヲ聞イテ何ウ思ツタカ
答 最初話シタ時西田ハ悲壯ナ顔ヲシテ、
「 モウ今度ハ止メナイデ下サイ。何モ言ツテクレルナ 」
ト申シマシタノデ、
私ハ胸ヲ打タレ可哀想ナ気持ニナリ 「 サウカ 」 トダケ言ツテ、他ハ申シマセンデシタ。
私ハ五 ・一五事件ノ時西田ニ話シ、同人ヲシテ仲間ニ入ラズ手ヲ引カセタ爲、
西田ハ同志ヨリ裏切者ト思ハレ、川崎長光ノ爲狙撃セラレ、夫レ以來西田ハ妙ナ立場トナリ、
官憲及世間カラ色々ニ批評サレ、爾來長イ間心苦シイ生活ヲシテ來テ居ルノデ、
西田ノ氣持ハ私ニヨク判つて居リマス。
私ハ西田ノ話ヲ聞イテ、同人ハ自分ノ本心カラデナク、
從來ノ義理ニ絡マサレ、彼等青年將校等ノ大勢ニ動カサレ、引張リ込マレ、
自分デ出來ル方面ノ事ヲ手伝フ事ニナツタノダ、之ハ危キニ近寄ル事ダガ、又已ムヲ得ナイダラウト思ヒマシタ。
ソコデ私トシテハ、西田ガ如何ナル事ヲ担任シタカハ判ラナイケレドモ、
其ノ事ノ善惡ニ拘ラズ何所迄モ西田ヲ庇ツテ遣ラウ、警視廳カラ西田ヲ聯レニ來タラ之ヲ匿シテヤラウ、
變な奴ガ西田ヲ襲フ様ナ事ガアレバ、之ヲ妨碍シテヤロウ、ソシテ西田ノ目的ヲ達成セシムル爲、
出來得ルダケノ事ヲシテヤラウ、西田ガ青年將校ニ引カレテ行クナラ、自分ハ又西田ニ引カレテ行ツテヤラウ、
西田ノスル事ハ止メモセズ、其ノ思フ通リニ働カセテ遣ラウト思ヒマシタ。
即チ私ハ、西田ニ從テ行クノミダト決心致シマシタ。
尚其ノ時、西田ハ
「 此事ハ、事前ニ於テハ誰ニモ話サヌ事ニナツテ居ルカラ、自分カラ聞イタト云フ事ハ誰ニモ言ハナイ様ニシテクレ 」
ト申シマシタ。
問 スルト被告人ハ、當時西田ハ彼等ト或程度關係ガアルモノト見テ居タノカ
答 私ハ、西田ハ彼等ト或程度具體的關係を生ジテ居タモノト判斷シマシタ。
夫レモ西田ノ本心カラデナク、義理ニ絡マサレテ抜差シノ出來ヌ立場ニナツタモノト思ヒマシタ。
問 彼等ガ蹶起スル事ヲ、西田以外ノ者ヨリ聞イタ事ハナイカ
答 村中ハ二月二十日頃ヨリ後二、三回私方ニ來テ蹶起スル事ヲ話シマシタガ、
夫レハ外ナラヌ私ダカラ、既ニ西田ガ私ニ告ゲテ私ガ知ツテ居ルモノト思ツテ話サレタ様ナ話振デアリマシタ。
其ノ間、何時如何ナル話ヲシタカ忘レマシタガ、要スルニ村中ハ
「 第一師団ノ渡満前ニ、東京ノ青年將校等ガ蹶起シテ君側ノ奸臣ヲ襲撃スル。
自分等ハ、世界ニ未ダ類ノ無イ様ナ大變革ヲヤリタイト思フガ、支那革命デ參考ニナル様ナ事ハナイカ。
自分等ハ、兵馬ノ大權干犯者ヲ討ツテ御稜威ヲ現ハス唯一ノ途ダト信ジ、此方針デ進ム。
自分等ハ五 ・一五事件ノ様ニ決行後直ニ自首シテハ何ノ効果モナイカラ、
蹶起後ハ陸軍省、參謀本部等麹町附近一帯ヲ占據シ、
陸軍大臣ニ向ツテ肅軍ニ關スル意見ヲ述ベタイト思ツテ居ルガ、
占據シテ上部工作ヲ爲ス事ハ國體観念ヨリ見テ何ムナモノカ 」
ト云フ様ナ事ヲ申シマシタ。
私ハ、西田カラ聞イタ様ナ事ハ嚥えんニモ出サズ、
「 勢ニ乗ジテヤルト七裂八分スル事ニナリ、意外ノ方面ガ撹亂サレル虞レガアリ、
襲撃範囲ハナルベク縮小シナイト洪水デ堤防ガ崩レタ様ニナツテ事態収拾ノ途ガ無クナルカラ、
統帥權干犯者ヲ討ツノハ既ニ定メタ事デ已ムヲ得ナカラウガ、其ノ目標ハ既ニ決定シタ範囲ニ止メル様ニシ、
其ノ範囲ヲ擴大セヌ様ニ注意セネバナラヌ 」
ト申シ、支那革命ノ事ヲ聞カレタ時ニハ笑ツテ答ヘマセヌデシタ。
又、占據シテ上部工作ヲ爲ス事ガ國體観念上許サルベキ事カ何ウカニ附テハ、十分判リマセヌデシタカラ、
「 君等ガ主張シ、決行セムト思ツテ居ルダケ、思フ存分ヤツタラ宜カラウ 」
ト申シテ置キマシタ。
( 中略 )
問 村中ハ、被告人ヨリ右靈感ニ附、暗雲ヲ拂ツテ天日ヲ仰ギ、宮中ハ御安泰ダト説明サレタ様ニ申シテ居ルガ何ウカ
答 夫レハ、公判ノ宮中ハ御安泰ダト言ツタノハ私デ、前半ノ暗雲ヲ拂ヒ天日ヲ仰ギハ村中ノ言ツタ文句デアリマス。
村中ハ、ヨク自分ノ話ト人ノ話ヲ混同シテ他人ニ言フ癖ガアリマス。
( 中略 )
問 村中ハ被告人方ノ二階ヲ借リタ際、蹶起趣意書ヲ起案シテ居ツタノデアルガ、
其ノ事實ヲ知ツテ居ルカ。
答 當時村中ガ二階デ何ヲシテ居ルカ知ラヌノデ、蹶起趣意書ヲ起案シタトハ思ヒマセヌデシタ。
又、其ノ起案ニ附テハ誰ヨリモ意見ヲ求メラレタ事モアリマセヌ。
問 村中ヨリ、占據シテ上部工作ヲスル事ハ我國體観念ヨリ見テ何ムナモノカトノ質問ニ對シ、
不可ナリト答ヘナイ計リデナク、思フ存分遣ツタラ宜カラウト言ツタノハ、之ヲ是認シ、煽動シタノデハナイカ
答 私ハ先程申上ゲタ通リ、樞要地域ヲ占據シテ上部工作ヲスル事ガ
國體観念上許サルベキカ何ウカ判ラナカツタ爲答ヘナカツタノデ、又思フ存分ヤツタラ宜カラウト言ツタ事ハ、
世間普通ノ輕イ挨拶位ノ心意デ合槌ヲ打ツタニ過ギズシテ、他意ガアツタ譯デハアリマセヌ。
問 村中ハ、軍隊ガ一定ノ場所ヲ占據シ、上部工作ヲスル事ハ國體観念上疑問ニ思ツタノデ被告人ニ尋ネタ処、
十月事件ノ様ニ大詔渙發ノ爲陛下ヲ強要シ奉ル事ハ國體観念上許スベカラザル事デアルガ、
左様ナ事ニナラヌ範囲内ニ於テ上部工作ヲスル事ハ差支ナイカラ、
ヤル以上ハ一歩モ退カヌ様ニシテ目的ヲ貫徹セネバナラヌト云フ被告人ノ意見デアツタ、ト言ツテ居ルガ如何
答 村中ハ軍隊ヲ引出ス事ニ附テハ何モ言ハズ、
占據シテ上部工作ヲ爲ス事ハ何ウカト云フ様ニ申シタノデアツテ、
私トシテハ、軍隊ヲ引出ス事ガ國體観念上何ウカト尋ネルノデアルナラ兎ニ角、
夫レハ既ニ決定シテ置キ、占據云々ノ事ダケヲ聞クノデハ質問ノ意味ヲ爲シテ居ラヌノデ、
其ノ點ニ附テハ答ヘナカツタノデアリマス。
然シ、私ガ夫レニ附テ答ヘズ、
單ニ思フ存分ヤツタラ宜カラウト申シタノデアリマスカラ、夫レヲ聞イタ村中トシテハ、
一歩モ退カヌ様ニ徹底的ニヤレト激励サレタ様ニ解スルノハ當然デ、
サウスルト言葉ノ上ダケデハ、私ハ軍隊ヲ聯出シ、或地域ヲ占據シ、上部工作ヲ爲スコトハ
國體観念上許サルベキデアルト云フ意見ノ下ニ、村中ヲ煽動、激励シテ遣ツタ事ニナリマス。
私ハ言葉ニ注意シテ、モ尠シ判リ易ク申シタラ宜カツタト思ヒマス。