あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

牧野伯を救った白衣の佳人

2019年02月10日 20時37分12秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊


森鈴枝 さんの談話

二月二十五日は、何となく無気味な日でした。
朝から雪もよいの陰鬱な空模様でしたが、
午後になって、何だか不審な人夫風の男が、たびたび別荘の周囲をウロウロしており、
夕方ご主人様が皆様で散歩に出られた後も、また見かけましたので、
いっそう気味悪く思っておりました。
それで夜になって当夜の宿直であった護衛の皆川巡査に、
「 今日は 何だか気味の悪い日ですから、
もし泥棒でも入るようなことがあると 私共の責任ですから気をつけて下さいね 」
と、お話 したような次第でした。
ところが皆川さんは、こともなげに、馬鹿なと言わんばかりに、
「 なに、これがありますよ、心配することはありませんよ 」
と、片手に拳銃を示しながら笑って済ましたのでした。
今から考えてみますと、やはりあれが予感というものであったのでしょう。
こうして二十五日の夜は、
いつもと同じように御主人様は九時半ころ お寝みになり、
私共も間もなく床に就きました。
当夜は表のほうには 御主人様と私がお居間に、玄関の間に皆川さんが宿直しており、
奥のほうには 奥様と吉田様の御嬢様に女中さんが二人 泊っていたのです。
夜に入って 雪が白く地面を覆っておりました。


二十六日、
すなわち翌朝の早暁でした。
いつも起きます時間とて、ウツラウツラして床の中におりますと、
何だか裏の御勝手のほうが騒がしく、
起きようとしておりますうちに、皆川さんが出て行ったかと思う間もなく、
大きな異常な音がして、表の玄関のほうで大きな声で怒鳴り合う声がして、
ただならぬ空気を直感いたしました。
「 これはただごとではない 」
と、瞬間に起き上がり、寝着を着換え、足袋をはき、御主人様のほうを見ますと
すでにお目醒めにて、不安のご様子に見受けました。
ただちに私は廊下に出て玄関のところまで行きますと、
皆川さんの部屋で大声に罵り合うような声と、靴音とを聞き、障子を開けて見る元気もなく、
半ば 焦心してすぐに引返し、御主人様の許に帰りました。
万一の場合、お寝着のままでは申訳けないと、大急ぎで着物を着換えていただきました。
その間に 表のほうの騒ぎは、ますます激しく私もまったく興奮と恐怖のため、
その間の状況はほとんど記憶に残っておりません。
とにかくピストルの音に交って大きな音がしており、
人々の怒鳴り合うような声だけがボンヤリ耳に残っております。
奥様がいつの間にか、御主人様の側に来ておられましたのも、
いつ来られたのか前後の記憶がございません。
そのうちに家事が始まりました。
煙が廊下からお居間へと入ってきます。
その間にも銃声が聞こえるのです。
外に出ようと雨戸の隙から覗いて見ましたが、外部は危険とみて、
皆様と部屋の中で呼吸を殺しておりますと、
廊下で皆川さんが私を呼ばれる声を耳にしました。
廊下に出てみますと、曲がり角のところに皆川さんは寝着姿のまま、
拳銃を右手に持って俯向きに倒れておられました。
近寄りますと、
「 森さん、三人ばかり斃しましたが 私もやられました。
もう駄目です。
どうか閣下をお願いします 」
と、呼吸もたえだえに語られるのです。
それだけ言ってしまわれると、
バッタリとそのままに俯伏せに顔を伏せてしまわれたのです。
私も無意識に皆川さんを抱き上げようとしましたが、
女手の私の力ではビクとも動かすことができません。
拳銃を持った手がいかにも苦しそうなので、
しずかにその位置を直してあげました。
傷は胸部に二、三発の銃創のように思いました。

煙がどんどんと入って来ます。
ヒシヒシと御主人様の身辺に危険が迫っているのを覚え、
私も もちろんごいっしょに死ぬ運命を覚悟いたしました。
銃声は断続して聞えます。
すぐにお居間に引返し、
かねて万一の場合にと、戸棚にしまってありました拳銃のことを承知しておりましたので、
取出そうと思い、戸棚を開け 心当たりをいくら探しても見当たらないのです。
御主人様は奥様と共に呼吸を殺しておられます。
その間にも火の手は次第に拡がるらしく、煙はもえもうとして迫り、
壁にあいた小穴を通して火の手が赤く目に映じるのです。
後でわかったことですが、探しあぐねた拳銃は、やはり戸棚の中にあったらしく、
焼跡のその場所から出てきたそうです。
また壁を通して火焔が見えるはずがないと、後で考えてみたのですが、
それは機関銃の弾による穴だったらしいのです。
逆上しているときは、まったく何をしているのか判りませんし、
もちろん正確な記憶も想い出すことは困難なものです。
もし、この間に、侵入者の一人でも われわれの部屋に入ってこられたら、
御主人様の運命は恐らく終りをつげていたでしょうし、
私もまた 同じ運命をたどっていたに相違ありません。
わずか三分か四分の間だったのでしょうが、当時の私共にとっては、
数時間の長さにも感じられたものです。
一寸先に迫った恐怖と、圧しつけられるような心臓の重圧感に、まつたくどうしてよいか。
身の置きどころもなく、いよいよ迫る火の手に追われて危険を考える余裕もなく、
否応なしに外へ出ることになりました。


雨戸を開けますと、庭先の崖のほうで軍人の人が 「 危ないから出てこい 」 と、
手招きをしてくれました。
しかし侵入者の目標である 御主人様の危険を感じますので、
ふたたび躊躇して屋内に入ろうとしましたが、火焔は もはや中にいることを許しませんでした。
火に追われ、煙に追いたてられて 奥様と二人で御主人様を抱え、
隠すようにして重なって庭へ飛下りました。
そして御主人様を護りながら お庭の中央に出ましたとき、
奥のほうのお部屋からも、私共の姿を見てでしょう、御嬢様と女中さんが飛出して来まして、
皆いっしょにひとかたまりになっておりました。
近所にはたくさんの人の気配がいたしますし、火の手はいよいよ家中に回ったようです。
突然、崖下のほうからと思いましたが 銃声がするとともに、
私は右肘の下に強い衝撃を受けました。
撃たれますと同時に、悲鳴をあげたことを覚えております。
しびれるような鈍痛を覚えつつも興奮し、気が張っておりましたせいか、
気も失わず、
とっさに女中さんの羽織を 御主人様の頭からかけて、皆で取巻くようにして支えながら、
庭の隅のほうへと参りました。
庭から裏山へ続く崖のほうには、消防隊や青年団の人々が来ていましたが、
ここに来たときに ふたたび銃声が聞こえました。
その銃声と同時に、
抱くようにしていた御主人様が、崩れるように 前かがみに倒れられたのです。
一同 ハッとして、
びっくりして 起こしましたが、
何事もなくまったく ご無事であったことが判ったのです。
拳銃の危険、襲撃者の来襲、追いかけられるような危急に押出されるように、
御主人様を真中にして、
いつの間にか町の人々の手に入っておりました。
女の羽織を頭からかぶって、
前かがみに丸くなって足許の危ない御主人様を、皆でお助け申しあげながら、
消防団員の手の中に辿りつきましたときには、
まったく ホッといたし、「 助かった 」 という気持とともに、
これら消防隊員がいかに力強く思われたことでしょうか。

屈強な青年が御主人様を背に負い、山へとかかりましたが、
私は背負うことが かえって身体を現わすことになりますので、すぐにやめてもらい、
そうしてその代りに、二、三人で両側から抱えながら、やっと危急を逃れることができたのです。
いっさい無我夢中でした。
何がなにやら判りませんでしたが、
町の人々から山の上に運ばれましたとき、やっと、もう 大丈夫だと考えました。
急に気がゆるみましたせいか、
今まで忘れていました傷の痛みと、出血のはなはだしいことが 初めて感ぜられました。


これより先、
別荘の庭を出ますとき、
だれかに、
「 もうだれも残っている人はありませんか 」
と、聞かれました。
集った方々を調べ、
「 皆川さんが一人見えません 」
と 申しました。
しかし、御主人様はじめ 皆さんは、
それに対して一言も お言葉がございませんでした。
そのままで、いそいそと先を急いで山へかかってしまったのです。
私としましては、これが唯一の心残りでなりません。
「 閣下をお頼みしますよ 」
と、苦しい呼吸のなかから、うめくように語られた皆川さんの最後の言葉が、
今でもなお 耳底に残って 忘れられません。
拳銃を持った手の位置を直してあげて、さらに安全なところに移してあげようと、
手をかけましたものの無駄でしたのは申上げたとおりです。
皆川さんはあれっきり、
一言も語られず、
そして
廊下に俯伏したあのままの位置で、
焼跡から無惨なお姿となって発見されたのだそうです。
あるいは あのお言葉を最後に、この世を去られたのかも知れませんが、
わずか数分前には はっきりと力強いお言葉を聞いた私には、
燃え盛る火焔の中に、皆川さん一人を取残して、
私たちのみが安全を求めて去って行くことがいかに恐ろしい、忍び難いことであったでしょう。
平静に返って静かに回想し、内省してまいりますとき、
絶え難い心の重圧が私の責任を叫び続けるのを感じるのです。
皆川さん一人の尊くもりっぱな犠牲によって、
御主人様は
まったく虎口を逃れられ、
私共もまた 生還の日を得たことに、いささかも相違ないのです。
それなのに・・・・・・
「 皆川さん、許してください 」
と、涙のうちに合掌して、
今は還らぬ皆川さんの霊に対し 心からなるご冥福を祈るのみでございます。
・・・
森さんは そっと、ハンカチを手に涙をふいた
・・・
私が皆様からのお勧めで、山を下りまして町の病院へ治療のために行きましたのは、
負傷後、約一時間以上も経っておりましたでしょう。
緊張がゆるみましたため、急に寒さが身にしみますと共に、
傷の痛みも感じ、なんとなく足許も定まらないように覚えました。
病院に参りましたら、皆川さんの拳銃で負傷された軍人さんが一人と、
土地の青年と消防の方が一人ずつ 襲撃隊の銃で傷を負って、治療に見えられたことを聞きました。
私が一番遅く手当にうかがったわけです。
銃傷は、弾が骨に当って貫通せずにはね返ったらしく、
当った場所とほぼ同じ個所を破って出て行ったもののようでした。
病院では簡単に考えて治療をしてくださったようで、
とにかく傷口は二十日あまりで癒り、病院を出ましたが、
しかし実際には骨を折っておりましたのと、出血が多量であったために、
その後 半年間、さらに治療のために苦しまねばならないことになってしまいました。
依然として身体はすぐれず、今だに仕事のほうも休み勝ちで、
ぶらぶらしております有様でございます。
これも災難と諦めておりますが、
逝くなった方々のことを考えますと、このくらいのことは 何でもないことでございます。
その後、牧野様へはご用もないのでございますので、
おうかがいもいたしませずにおりましたが、
先日ま皆川さんの一周忌の際 お招きにあずかっておうかがいいたしました。
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約一時間近く、森さんは終始緊張した面持ちで静かに語ってくれた。聞いている人たちも固唾をのんで耳を傾けた。
森さんにはてみれば、聞き手は皆、いわば « 御主人様 » 牧野伯の適役側の人ばかりである。
当日襲撃隊の一員、綿引正三もいる。ほかに前日に夫人同伴で湯河原の牧野伯滞在の別邸を観察してその動向を確認し、
その結果を一足先に帰京させた夫人から 西田、磯部に報告させた澁川善助の夫人の絹子さんもいる。
さらに襲撃隊員中ただ一人、死刑となった水上源一の未亡人初子さんもいる。
この人たちへの配慮からか、被害者である森さんの談話のなかに、
襲撃隊員側の行動に対する非難、憎しみの言葉が少しも聞かれない。
これが本当の心境であるかどうかは臆測の限りではないが、少なくとも、
面識のない私の 「 会って話を聞きたい 」 との電話での申入れに対して、いささかのこだわりの様子もなく、
快く承諾して出かけて来られたということは、私たちに敵意を持っていないことのしるしとして嬉しいことであった。 

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「 襲撃を知ったあとの、牧野伯の態度はどんなでしたか 」
との 質問に対して、
森さんは ただ口を緘とざして語らず、
重ねて反問すれば、
「 それは---」
と、言葉を濁して黙々として俯向くのみ。
すくなくとも当時主人として仕え、その生命を護りつつ死線を越えたる森さんとして、
この問に対して答ふるに能はざる心境を洞察するとき、
万事はこの無言のうちに千万言の解答を与へられたるに優るものと信ずる。
以上 当時における牧野伯の態度を察するに余りあるのではないか。
襲撃に腰を抜かし挙措悉く か弱き婦人の力に縋がり、
自ら辞瑛の方途を講ずるに非らず、勿論進んで襲撃者に対してその理由を質し、
非を脱服せしめんとするが如きは微塵だになく、
恰も蛇にみこまれた蛙にも等しく
進退の自由を失ひて諤々がくがくたる醜状彷彿として目を掩おおはしむるものに非ずや。
脱出するに当たりても、女中の女羽織を頭よりかぶりて辛うじて女手に縋りて支え、
一発銃声の至るや忽ち崩れ折れて地に伏す。
老齢なりといへども歩行に不自由あるを聞かず、
しかも歩行の自由を失ひて人の背によりて辛うじて身の安定を得たるを知る。
のみならず己れの安全を計るのみに汲々として他を顧ることなく、
貴重なる一身を犠牲にして
自らのために その職責に殉じたる皆川巡査の崇高なる生命すら、
冷然として火焔の中にこれを見殺しにして恬然たるに至っては
その心事一点人間として認むべき何物も存しないではないか。
事件平静に復したる後、虎口救出を助けたる人々への処置についても幾多の非難を聞く、
敢て真偽を確むるを要せん・・・・。
・・・河野司 森さんの談話を聞いた当日 ( 昭和12年6月9日) の手記

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襲撃隊員の銃弾による受傷をおして、
牧野伯を無事に救助隊員の手に引渡し、脱出を果した安堵と、
傷の出血・激痛にがっくりと崩れ折れて 半ば失心した森さんは、
消防団員に助けられて回春堂病院に運び込まれた。
そこにはすでに襲撃で傷ついた河野隊の宮田晃曹長と
消防団の岩本亀三、八亀広蔵の三名が入院していた。
最も出血の多かった森さんの治療が最後になったことは、その後に大きな影響を及ぼすことになった。
この病院で二週間の治療のあと、東京に帰ったが傷の工合は はかばかしくなく、
順天堂医院で検診の結果 骨折が判明し、その療養のためふたたび湯河原に戻り
佐野屋旅館で一カ月余の療養生活を送ったあと、いったん故郷に帰った。
この間の療養日は牧野家からの支弁であった。
受傷以来の貧血症に悩まされての在郷生活であったが、いつまでも遊んでいられず
東京の看護婦会に帰ったのは十二年の三月初めであった。
牧野家との縁は切れたが、復帰した森さんには、事件での名声で引く手あまたの人気が集った。
六月八日、私からの電話のあったとき、森さんは会長に相談したという。
会長の、
たびたび電話をもらっているので行っていらっしゃい
との言葉に、
承諾の返事をしたのでした
と 語ってくれた。
このことは
森さんにとって大きな影響をもたらすことになったようだ。
事件以来
当局の厳重な監視下にあった栗原大佐や私のほかに、
仮釈放で出獄していた 当の綿引正三の出席した集りとあっては、
当局が見逃すはずはなかったろう。
叛乱関係者に好意を寄せたと見られては、
森さんの身辺に影響が及ぶようになったことも想像されることである。
この年の夏、
牧野家から呼ばれた森さんは家令から、
これまでの謝礼金として、縁切りともいえる二百円を手渡された。
長い間の馴染で可愛がってくれた家令が、
慰めるような言葉をかけて小声でささやいたことによると、
皆川巡査の遺族には三千円が支給されたということだった。
二百円と三千円、生きている者と死んだ人との相違でもあろうが、
いぶかしい思いを秘めて牧野家とおさらばした。
当局の冷たい風が、次第に « 名物看護婦 » の 周辺におよんでいったようだ。
明石看護婦会への干渉も加わり、人気者が厄介者扱いとなって、
身辺に見切りをつけてか、森さんが淋しく東京を去ったのは 十二年の晩秋であった。
郷里に帰ってからも、さらに結婚後も、土地の警察の監視はつきまとい、
看護婦の免許さえ取上げられてしまったという。
驚いたことだった。

昭和十二年六月九日
出席者  栗原勇、中島荒次郎、綿引正三、渋川絹子、水上初子、河野司

二・二六事件秘話  河野司著 から