獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一 はじめに
二 二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三 捜査の概要
1 捜査経過の一覧
2 身柄拘束状況
3 憲兵の送致事実
4 予審請求事実 ・公訴事実
四 北の起訴前の供述
1 はじめに
2 検察官聴取書
3 警察官聴取書
4 予審訊問調書 ( 以上三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五 西田の起訴前の供述
1 はじめに
2 警察官聴取書
3 予審訊問調書
4 西田の手記( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )
六 公判状況
はじめに
第一回公判 ( 昭和11年10月1日 )
第二回公判 ( 昭和11年10月2日 )
第三回公判 ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )
第四回公判 ( 昭和11年10月5日 )
第五回公判 ( 昭和11年10月6日 )
第六回公判 ( 昭和11年10月7日 )
第七回公判 ( 昭和11年10月8日 )
第八回公判 ( 昭和11年10月9日 )
第九回公判 ( 昭和11年10月15日 )
第一〇回公判 ( 昭和11年10月19日 )
第一一回公判 ( 昭和11年10月20日 )
第一二回公判 ( 昭和11年10月22日 )
第一三回公判 ( 昭和12年8月13日 )
第一四回公判 ( 昭和12年8月14日 )
七 判決
八 むすび ( 以上本号 )
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7 第六回公判 ( 昭和11年10月7日 )
終日亀川に対する訊問が行われた。この日の訊問は、相澤裁判關係でほぼ終始している。
以下、要点のみを抄録するが、若干訊問の順序と前後した個所がある。
(一) 相澤公判との関係について
〇 私 (亀川を指す。以下同じ ) が相澤中佐の公判に關係するようになったのは、山口大尉と西田税に頼まれたからである。
私は、法律家からは学者肌の鵜澤弁護士を、また軍人側からは満井中佐を選び、いずれも本人の承諾を得た。
〇 弁護の打合わせは、
第一回公判の前日である一月二七日と二月上旬の二回、私の自宅で行った。
第一回目の打合わせには、満井、山口、西田、村中、磯部、澁川、香田、安藤、栗原らが集まった。
満井、山口、西田以外の人々は、初対面であった。
村中か澁川かが、事件の原因は三月事件にあるから、この問題を持ち出そうと強く主張したので、随分強い意見の人もあるものだと驚いた。
満井は、「 ソムナ喧嘩腰デハ困ル 」 と言い、
私は、「 貴方達ノ目的ハ、相澤ノ刑ヲ輕クシテ貰ウノニ在ルノデハナイカ。
然ルニ三月事件ヲ持出シタリスルノハ、裁判ヲ求メルト云フヨリモ裁判ヲ破壊スル事ニナルデハナイカ。
ソムナ事ナラ自分ハ手ヲ引クヨリ外ハナイ 」
と言った。
結局西田が、
「 辯護ヲ依頼シテ置キナガラ弁護方針ニ干渉スルノハ失礼ダ。
我々ハ材料ヲ集メテ辯護人ニ提供シサヘスレバヨイノダ。法廷ノ方ハ辯護人ニ一任シテ置ケバヨイデハナイカ 」
と取りなし、その場はおさまった。
「 私ハ、相澤公判ヲ契機トシテ陸軍部内ノ派閥關係ヲ解消シ、 融和ヲ計リ、一致結束セシメ様トシテ居ルノニ、
彼等ハ相澤公判ニ於テハ相澤中佐ノ刑ヲ輕クシタイト云フ氣持ノ一面ニ於テ、相澤事件ノ原因ハ三月事件ニ在ルノダカラ、
三月事件ノ關係者ヲ苛かメ様ト云フ仇討式氣持ガアルノデハナイカト云フ事、
及彼等ハ席次ニ上下ノ區別ヲ設ケズ、議論モ統一スル者ナク、各自勝手ノ事ヲ言ヒ、少シモ統制ガナイト云フ事ヲ感ジマシタ。」
第二回目の打合わせには、
西田、村中、磯部くらいしか出席せず、弁護材料を持ち寄って満井に説明しただけであった。
〇 私は、弁護人の補佐役として常に公判廷に出入りしていた。 弁護費用については誰からも話が出ず、私も考えていなかった。
(二) 控訴取下運動について
〇 わたしとしては、相澤を精神異常者として特赦してもらうつもりでいた。
しかし、鵜澤から、特赦は判決が出た後の事だと説明されたので、ほかに手段はないかと尋ねたところ、
陸軍大臣さえその気になれば公訴取下という方法があると教えられた。
そこで、川島大臣にあって打診してみたところ、川島はそのような空気にさえなれば簡単だというので、
軍事参議官の林大将、奈良大将に対して、陸軍部内の融和のために陸軍大臣を説得するように依頼したが、最終的には断られてしまった。
私は、元老の西園寺によって軍事参議官を動かそうと考え、鵜澤に元老への働きかけを頼んだところ、
鵜澤が引き受けたので、鵜澤に興津の西園寺邸ヘ行ってもらうことになった。
〇 二月二四日の眞崎訪問によっても眞崎の証言は期待できない様子であったので、
私は公訴取下を推進するほかないと考え、同日鵜澤に会って、二月二六日朝興津に行ってもらう約束をした。
私は、鵜澤の言葉から、鵜澤と元老は非常に懇意な仲であると信じていた。
〇 この公訴取下運動は、秘密を要する事柄と思ったから、相澤弁護人である満井中佐にも話していない。
元来鵜澤と満井は、弁護方針について一回の打合わせをしたこともなく、
各自思い思いの行動をしていたので、あまり信用していない満井にはこの件を話さなかったのである。
このことは、久原房之助には話してある。
(三) 眞崎陸軍大将との接触について
〇 二月二二日頃証人として出廷することになっている眞崎大将を訪問し、教育総監更迭の経緯について詳細に証言して頂きたい旨懇請した。
しかし、眞崎は、勅許がないと困ると言って煮えきらない様子であった。
二四日にも訪問して証言を促したが、勅許が得られないとのことであった。
〇 二月中旬頃山口大尉から、青年将校の間に不穏な空気があるということを聞いた。
二月二一日頃、栗原に関する山口と西田との間の会話を傍らで聞いていて、「 之ハ可怪シイ。何カアルノカ知ラ 」 くらいの感じを抱いた。
その頃、西田に元老内閣を提案してみたところ、西田は即座に反対したことがあった。
「 私ハ、眞崎ト西田トハ相當ノ聯絡ガアルノデハナイカト感ジマシタノデ、
眞崎ノ人物試験旁々栗原ガ飛廻ツテ居ルト山口ガ言ツタガ、何ムナ事ヲシテ居ルノカ眞崎ヲ引掛ケタラ判ルカモ知レヌト思ヒマシタノデ、
二月二十二日眞崎邸ニ行ツテ、
『 證人トシテ出廷ノ節ハ内容ヲ明確ニ述ベテ下サイ 』
ト頼ムダ時、同大將ニ
『 若イ者ガ何ムナ事ヲシテモ、見殺シニシナイ様ニシテ下サイ 』
ト言ヒマシタ処、
眞崎ハ之ニ對スル返事ヲせず、別ニ
『 年寄ヲ誤ラセナイ様、若イ者ニ話シテクレ 』
ト言ハレマシタノデ、
私ハ眞崎ハ随分猾わるがしこイ人ダト感ジマシタ。」
その帰途西田宅に寄った際、私は西田に 「 眞崎ハ思慮ノアル人ダネ 」 と皮肉ったものである。
その際西田から、
「 抑ヘテハ居ルガ、萬一ト云フ事ガアルカラ、其ノ時ハ後ノ事ヲ宜シク願ヒマス 」
と言われた。
〇 私が西田から、歩兵第一聯隊と第三聯隊が起って
重臣を襲撃することをはっきり聞いたのは二月二五日夜のことであり、それまでは知らなかった。