あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

41 二・二六事件北・西田裁判記録 (四・完) 『 第一三、一四回公判 』

2016年06月14日 18時13分04秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判  ( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
七  判決
八  むすび  ( 以上本号 )
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14  第一三回公判 ( 昭和12年8月13日 )

この日、約三〇〇日ぶりに弁論が再開された。
冒頭、裁判長は合議の上弁論を再開するとの決定を宣告した上、
「 公判開廷後引続キ十五日以上開廷セザリシニ依リ 」 弁論を更新する旨告げ、
「 各被告人ハ第一回乃至第九回公判調書記載ノ通供述 」 している。
弁論更新は、陸軍軍法会議法三九七条 ( 旧刑事訴訟法三五三条と同文 ) の定めるところによる。
私は、この公判調書の内容を検討するまでは、
吉田裁判長の手記によって、弁論再会は北 ・西田の刑責につき合議が紛糾したためであろうと推測していた。
しかし、本公判調書によると、新たに取調べられた証拠は亀川 ・西田に対するもののみである。
ということは、すでにこの時点では、北の刑責問題については一応の決着がついていたことを意味する。
新証拠のうちとくに注目されるものは、
本事件の弁論集結後に作成された検察官の磯部淺一 ( 昭和十一年七月二十九日死刑宣告 )、
山口一太郎 ( 昭和十一年七月五日無期禁錮宣告 ) 及び鵜沢聡明 ( 不起訴 ) に対する各聴取書である。
磯部 ・山口の調書は、主として亀川 ・山口の磯部に対する西園寺襲撃中止要請の事実を内容としており、
鵜澤の調書からは、亀川の鵜澤に対する西園寺への働きかけの要請の事実が浮かび上がる。
これらのことから考えると、弁論再会は、亀川につきこれらの事実を認定して、
亀川を 「 反乱罪謀議参与 」 ( 起訴は反乱幇助罪であった ) に問うための証拠調べを目的とするものであったように思われる。
また、西田についての証拠調べは、右と関連して、
西園寺救命運動と西田とのかかわりを糾明するためではなかったであろうか。
これらの点についての詳細な検討は、後日に譲る。

亀川は、証拠調べの後で、
自分は西田から西園寺襲撃のないことを知らされていたので、
事件発生当日鵜澤を西園寺のもとに派遣した旨述べて、西田の憤激を買っている。
亀川のこの主張は、同人のこれまでの供述とは矛盾しており、
一件証拠から西田が西園寺襲撃の中止を事前に知っていたとはかんがえられないが、
事件発生当日の亀川がわざわざ鵜澤を興津にやったことには、なにか裏がありそうである。
今後の課題としたい。
なお、公判調書の記載によって、補充裁判官であった村上中佐が酒井大佐と交替して正規の構成員になったことと、
藤室裁判官が陸軍歩兵大佐に昇進したことを知ることができる。

(一)  亀川に対して取調べられた証拠
〇  検察官の鵜澤聡明に対する第一回ないし第六回聴取書 ( すべて昭和十二年四月以降に作成されている )
〇  検察官ノ熊谷八十三に対する昭和十二年四月八日付聴取書
〇  検察官の山口一太郎に対する昭和十二年三月一二日付聴取書

(二)  西田に対して取調べられた証拠
〇  検察官の磯部淺一に対する昭和十二年二月二一日付、三月二日付、三月一六日付聴取書
〇  検察官の山口一太郎に対する昭和十二年三月一二日付聴取書
〇  昭和一一年押第三六号ノ一三 ( 西田が作成した、眞崎教育総監更迭問題についての 「 軍閥重臣閥ノ大逆不逞 」 と題する文章 )
〇  同年押第三号ノ一三ノ一〇 ( 西田が作成し、頒布した、磯部 ・村中定職問題につき幕僚を非難 ・攻撃する 「 根本方針 」 と題する謄写刷文書 )
〇  同年第二号ノ六 ( 西田が作成した 「 相澤中佐公判対策大綱 」 )
〇  同年押第一号ノ四八三ノ一ないし四 ( 相澤公判対策宣伝のため、西田を編集主任として発行された新聞 「 大眼目 」 一号ないし四号 )

(三)  亀川の陳述 ( 抄録 )
〇  「 私ハ鵜澤ニ對シテ、老公ハ俺ノ力デ助ケルト云フ様ナ法螺ヲ吹イタ事ハアリマセヌ。
  只二月二十二日西田トノ間デ何ウモ危イ情勢ニナツテ來タ、
臺灣カラ柳川中將ヲ呼バナケレバト話合ツタ時、
私ハ老公ハ何ウデスカト申シマスト、
西田ハ老公ハ大丈夫ラシイト云ハレマシタノデ、
私ハ鵜澤ニ對シテ老公ハ大丈夫ダラウト云フ様ニ云ツタト思ヒマス。」

〇  「 二十六日午前三時頃澁川ヨリ電話ヲ掛ケテ寄越シ、
  遂ニ歩一、歩三ガ蹶起スルラシイガ、西園寺公ハ大丈夫ダト云フ趣旨ノ事ヲ申シマシタ。
私ハ既ニ二十二ニチ西田ヨリ老公ハ大丈夫ダト云ハレ、今亦澁川ヨリ大丈夫ダト云ハレマシタノデ、
本當ニ大丈夫ダラウト思ヒマシタノデ自動車ヲ呼ビ、眞崎大將ヲ訪問シ、色々活動シタノデアリマス。」

(四)  西田の陳述 ( 抄録 )
〇  「 龜川ハ、二十二日私ト會ツタ時ニ、私ガ老公ハ大丈夫ラシイト云ツタト云ヒマスガ、
  左様申シタ記憶ハナク、
山口ハ、西園寺襲撃不可説ガ龜川、山口、私ノ三人ノ間デ意見一致シテ居タ様ニ云ヒマスガ、
ソンナ事ハアリマセヌ。
山口ト龜川ハ其ノ意見デアツタラウト思ヒマスガ、私ハ立場ガ違ヒマス。」

〇  「 私ハ不戰條約問題當時ヨリ老公ノ責任ヲ問ヒ來リ、
  引續キ其ノ不信任ヲ標榜シ來ツタノデアリマシテ、
世ノ中ガ良クナラヌノハ元老ノ責任ダト確信シテ居リマス。
今回ノ事件ニ附テモ、
何ウシテモ彼等ガ止マラナイ場合ニハ自分モ或程度ノ犠牲ニナラネバナラヌガ、
之迄長年苦勞シテ來タ事モ水泡ニ歸シ、將來ノ目的モ流レテ了フ事ニナリ、
殘念デハアルガ、
夫レデモ西園寺ト牧野ヲ襲撃スルトノ事ガ判ツタカラ、
此二人ガ無クナレバ世ノ中ガ幾分變ツテ來ルデアラウト思ヒ、
私及青年將校ガ何ウナラウトモ世ノ中ガ良クナレバヨイト思ヒ、
十九日、二十日頃迄ハ彼等ノ抑止メテ來タガ、
二十二日ニハモウ何ウシテモイカヌ、ヤルナラ勝手ニシタラヨカラウ、
若イ者ガヤルナラ自分モ引ズラレテ犠牲ニナラウト考ヘ、
青年將校ノ計劃ニ容喙ようかいスル氣持モアリマセヌデシタ。

二十一、二日頃、
山口トノ間デ彼等ノ蹶起ヲ抑止スル方法ハナイダラウカト云フ協議ヲシタ時モ、
元老ヲ助ケル、助ケヌノ話ハ出ナカツタノデアリマス。
斯様ナ次第デアリマシテ、
元々ヤルトスレバ元老ハ第一ニヤルベキダト考ヘテ居タ位デアリマスカラ、
二十二日頃龜川ニ對シ、元老ハ大丈夫ラシイト云フ様ナ事ハ云フ筈ガナイト思ヒマス。」

(五)  亀川の再陳述 ( 
抄録 )
〇  「 西田君ハ私ニ對シ、老公ハ襲撃シナイト云フ事ハナイト陳述セラレマシタガ、
私ガ探リヲ入レル積リデ 『 興津ハ何ウナルノカ 』 ト尋ネマシタ処、
西田君ハ確カニ  『 興津ハ大丈夫ノ様デス 』 トカ、『 興津ハヤラナイ積リデアル 』 トカ答ヘラレマシタノデ、
私ハ興津襲撃ハ手ガ廻リ兼ネルノデ中止セラレ、西園寺ノ身邊ハ安全デアルト確信スルニ至ツタノデアリマス。
其処デ、万一青年將校等ガ蹶起シタ場合ニハ、豫テ西園寺公ト懇意ノ關係ニアル鵜澤ヲ興津ニ派遣シ、
建設工作ニ利用スル事ヲ考ヘ出シタノデアリマス。
而シテ二月二十四日朝鵜澤ヲ訪問シ、近々青年將校等ガ蹶起スルラシイコト、
青年將校等ハ蹶起後ノ事態収拾ニ眞崎内閣ヲ希望シアルコト、
青年將校等ガ蹶起シテモ西園寺公ハ大丈夫ナルコト等ヲ話シ、
萬一蹶起ノ節ニハ速ニ興津ニ行キ、右ノ趣旨ヲ進言セラレタイト依頼シテ置イタノデアリマス。」
〇  二十六日午前三時頃聞き覚えのある澁川の声で、歩一と歩三が決起すること
「 興津ハ駄目ニナリマシタ 」 旨の連絡があった。
私はこれで興津襲撃中止の確定を知ったのである。

(六)  弁論集結
「 檢察官ハ事實及法律ノ適用ニ附、第十二回公判調書記載ノ通リ陳述シタリ。
 法務官ハ各被告人ニ對シ、最終ニ陳述スベキコトアリヤ否ヲ問ヒタル処、
各被告人ハ第十二回公判調書記載ノ通リ陳述シタリ。
法務官ハ弁論ヲ終結スル旨ヲ告ゲタリ。
裁判長ハ結審ヲ宣シ、次回公判期日ハ追ツテ指定スト告ゲ、閉廷シタリ。」

15  第一四回公判 ( 昭和12年8月14日 )
八月一三日午後一時四〇分、法廷から独房に戻ってくつろいでいたのであろう被告人らに対して、
召喚通知書が示された。
公判期日、すなわち判決宣告期日は、翌日の午前九時となっている。
疾きこと、風のごとし。
極刑が予想されるだけに、常人ならば一瞬、顔面蒼白となったはずである。
追って指定すると告知された判決宣告期日が、数時間後にその翌日と指定されることは、
当時としても異例というべきである。
判決を急げという陸軍省からの圧力でも加わったのであろうか。
北 ・西田に対しては、求刑どおり反乱罪首魁として死刑が宣告された。
一方、反乱幇助罪として禁錮一五年が求刑されていた亀川については、
反乱罪謀議参与として無期禁錮刑が言渡された。
判決文はすでに公刊されているので、掲出を省略する。

田中惣五郎 『 北一輝 』 によると、
Y判士の 「 手記 」 には、次のように記されているという。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
 好漢惜しみても余りあり。
今や如何ともするなし。
宣告後、西田氏は裁判官に対し何事か発言せんとする様子に見受けられたが、
北氏は穏かに之を制し、
両人とも裁判官に一礼して静かに退廷したのであった。」

  第十四回公判調書
北輝次郎ニ對スル反乱、西田税ニ對スル反乱、亀川哲也ニ對スル反乱者ヲ利ス各被告事件ニ附、
昭和十二年八月十四日東京陸軍軍法会議法廷ニ於テ、
裁判長  判士  陸軍少将  吉田悳
裁判官  陸軍法務官  伊藤章信
裁判官  判士  陸軍工兵大佐  秋山徳三郎
裁判官  判士  陸軍歩兵大佐  藤室良輔
裁判官  判士  陸軍歩兵中佐  村上宗治
陸軍録事  鈴木又三郎
列席ノ上、檢察官陸軍法務官竹澤卯一立會、公判ヲ開廷ス
陸軍軍法会議法第四百十七條ニ依リ、審判ヲ公開セズ
各被告人ハ出頭シ、身體ノ拘束ヲ受ケズ
裁判長ハ前記記載ノ順序ニ從ヒ、各被告人ニ對シ訊問スルコト左ノ如シ
問  氏名ハ
答  北輝次郎
答  西田税
答  龜川哲也
裁判長ハ判決ノ告知ヲ爲ス旨ヲ宣シ、主文ヲ朗讀シ、理由ノ要旨ヲ告ゲテ判決ヲ宣告シ、閉廷シタリ
昭和十二年八月十四日
東京陸軍軍法會議
陸軍録事  鈴木又三郎 印
裁判官  陸軍法務官  伊藤章信 印