嶋津隆文オフィシャルブログ

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山本繁太郎(前山口県)知事が逝去。とても悔しい。

2014年03月31日 | Weblog

こんな理不尽なことがあるのだろうか。
天は何故にこんな酷いことをするのだろうか。

山本繁太郎さんの突然の訃報を耳にした時、彼の波乱の人生と高い志を知る者は誰もがこう感じたに違いありません。2度の国政選挙で落選の苦杯を舐めたのち、3度目にやっと当選した山口県知事の座を、わずか1年余で手放しました。のみならず辞職の1ヶ月後の他界です。まさに道半ばでの悲運というほかありません。

山本 繁太郎さんは昭和23年、山口県柳井市に生まれました。父親が柳井市議を経て山口県議を4期務めた家柄です。柳井高校から東大法学部卒後、昭和47年に建設省に入り、住宅局長、交通審議官等を歴任。内閣府の総括統括官等も経て、麻生内閣のもとでの内閣官房地域活性化統合事務局長。それを最後に役人生活を終えました。
それからは政治家の道を目指します。平成20年には衆院山口2区補欠選に自民公認、公明推薦で出馬。選挙戦では平岡秀夫(民主公認)と激しい一騎打ちを展開し、福田康夫、安倍晋三、太田昭宏、麻生太郎ら自・公幹部らによる応援に支えられて自民党の議席維持を目指すものの落選。その後も政治活動を続け、平成21年の衆院総選挙に挑戦、山口2区で平岡と再び対決。しかしあの民主党への追い風が吹く状況下で、再び敗れてしまいました。

そして平成24年の山口県知事選に、自民・公明の県連の推薦を受けつつ無所属で出馬。港湾整備による臨海部産業強化や産業人材育成、農林水産業の再生等を掲げ、初当選するのです。まさに苦節4年という挑戦でした。

知事在任中に繁太郎さんが掲げた政策の一つは、瀬戸内産業ルネッサンス構想です。国際バルク戦略港湾(宇部港および徳山下松港)の整備や岩国港臨港道路をはじめとした産業用道路網の構築など、港湾を重視したインフラ整備の推進を目指したもの。企業誘致200社以上、新規雇用2万人以上を達成するとしたものです。

もう一つは、年間宿泊観光客数4百万人構想です。観光客、特に宿泊観光客の拡大によって観光産業の振興を図り、四境(関門、萩石見、岩国、柳井・周防大島)連携、3空港(宇部、岩国、萩)連携、海路による中四国九州地域との連携強化などによる新たな広域観光ルートの形成で、最終的に年間観光客数3千万人を目指すとしていました。

山口県庁(旧庁舎)

しかし繁太郎さんは既に平成24年8月の知事就任式で、選挙中にこじらせた肺炎のため9月まで入院すると表明します。ところが一年半後の平成26年1月、知事辞職願を山口県議会に提出するのです。そしてこの3月15日、肺癌のため山口県宇部市の病院で逝去。65歳という若さでした。

繁太郎さんは霞が関の一角で、ある研究会を一緒にやっていた同僚メンバーです。研究会だけではなく、クエ鍋をつつく会や山登りの会にも常に顔を出し、人を明るくするその笑顔に周囲はいつも気持ちを和まされていたことでした。
人の気持ちを和ませるということでは、こんな話を彼から耳にしたことがあります。平成15年のいわゆる道路公団改革騒動の時のことです。

その年の秋、国土交通省は、藤井治芳日本道路公団総裁の解任に向けて、藤井氏から直接に弁明を聞く「聴聞」を行うことを決めました。そしてその聴聞の主宰者に政策統括官の繁太郎さんが指名されたのです。テレビ、新聞が連日報道した事件で、ご記憶の方も多かろうと思いますが、一徹の藤井総裁が集中砲火を浴びていた騒動です。「いやぁあの聴聞はとても難しいものでした。先輩の藤井総裁をカメラの前に晒しめることになるので、事前に内々にお会いし、私が担当する旨のご挨拶を申し上げたのです」。どんな場面であれ、人の気持ちを思いやる山本繁太郎さんの人柄が見える、きめ細かい心配りのエピソードです。

それだけに私もいつのまにか古くからの友人にでもなったような気持にさせられ、ある時、その声が聞きたくて繁太郎さんを柳井市に訪ねたことがありました。2度目の国政選挙に挑んでいる時で、陣中見舞いと称して訪問したのです。平成23年の夏のことでした。
柳井市は白壁と金魚のまちで有名です。柳井駅に降りると、ずっと待っていてくれたのでしょう、すぐに私たち夫婦に気付いて大きく手を振って迎えてくれました。そして白壁の静かなまちを歩きつつその歴史を語り、その一方でソフトクリームを私と家内のために買い求め、柳井のまちなみを縦横に案内してくれたのです。そればかりではありません。選挙事務所でスタッフを紹介し、さらには車で錦帯橋へ向かい、宇野千代の旧宅へも同行してくれる気遣いでした。そんなこんな貴重な時間をすべて私たちに費やしてくれたのです。帰路で持ちこまれた土産は地元岩国の銘酒「五橋」。陣中見舞いなどと私が口にするのはとても憚られる、一方的な接待を受けた一日でした。


平成23年夏

今にして思うのです。もしこうした人への徹底した気配りが、ひょっとして山本繁太郎さんの健康を蝕んだとすれば、何と悔しいことではないかと。それだけに繁太郎さんの訃報には改めて呟いてしまうのです。

こんな理不尽なことがあるのだろうか。
天は何故にこんな酷いことをするのだろうか。

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