るりこんの気が付いたらの日記

あるアマチュア声楽家の忘備録とつぶやき

コンコーネ25の6上がり

2013-03-31 11:30:00 | 声楽(レッスン)
捏ねくり回すように難しくなっていったコンコーネ25の6番がようやく上がりになった。これは階名で歌う方が、母音だけで歌うより歌いやすい。まぁ、でも、16分音符の後のシンコペーションが好きだったりするのだけど。発声練習とコンコーネだけで、レッスン時間の半分以上を占めたのではないかと思う。
次回7番ね、と言われたけど、これも同じような理由の難しさがあるんだろうな。しかもテンポがAllegrettoだというし。もっとも、最初はゆっくりしたテンポでやって、と言われたが。
もはや、コンコーネは、焦ってどんどん進みたい、という気持ちが、わかなくなってしまった。

「道化師」の「鳥の歌(Stridono lassu)」は、一回通したら、もう大分まとまってきたので、何か本番の機会があるまで、とっておきましょう、という感じで終わった。
そして、ベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」の「ああ、幾度か(O quante volte)」は、最初のレチタティーボの休符の合間の取り方などを中心に、1曲通して、次回はこの曲を中心にやりましょう、ということだった。
でも、この曲は「鳥の歌(Stridono lassu)」よりもずっと歌いやすいので、あと2,3回したら、「上がり」とまではいかなくても、「他の曲も持ってきて」とか言われないかなぁ、という気もしなくはない。

でも、この2つのアリア、いつ歌おうか、悩み中である。おそらく、夏に教室の発表会があるから、どちらかは歌うのだろうけど、時間制限があるだろうし。
一般公募については、20分枠は6月にあるけど、日本語フィガロの次の週、10分枠は9月以降になるということだった。



何足わらじを履いていると言いますか?

2013-03-27 08:51:00 | つぶやき
「二足のわらじ」という言葉がある。本来の意味は、仕事を2つ持つことを指すと思うのだが、「五足のわらじ」を履いている、という人も何人かいるので、気になって調べてみた。

ちょっと呆れるのが「女・母・嫁・妻・会社員」。
つまり母親になっても、会社員になっても女磨きは怠らないし、嫁・妻の役割も果たすわよ!ということなのだろうが、会社員以外はどれもお金を稼いでいない。それを「わらじ」の数に入れてしまっても良いのだろうか?それとも、会社員以外に「女」であることを仕事にするようなついているってこと?
そういえば、L先生は「プロの歌手である以上、女磨きは絶対に怠れない」とおっしゃっているな。

じゃあ、私は、まだ母親にはなっていないけど上に加えて声楽ともう一方のライフワーク(時々ギャラも発生)もあるから、「六足のわらじ」になるってこと(笑)?
少なくとも、私はその人ほど女性としての魅力はないかもしれないし、夫は家事を「協力をお願い」しなくても主体的にやってくれるし(家事は独身時代よりラク)、義理の両親は私をコキ使うような人でもないのだが。

まぁ、こんな疑問は沸くところの本質といえば、
①優先順位に差があるものを「わらじ」と呼んで良いのか?
②お金をもらう、かどうかは関係ある?
③実質上、人にやってもらっているのは?
④結果はどのくらい重視?

私が疑問なのは「仕事しながら家事も頑張っているわよ!」っていうの。
優秀なビジネスマンであることをアピールしているのに、なぜ家族が「協力をお願いされる」以前にイヤな気持ちを抱かずに主体的に家事をやろう、という気持ちにさせられないのか?(育児に対しても同様な疑問は感じるけれども、母親でないとできないことと、そうでないことの正確な区別は経験がないから、よく分からない)


facebookの記事に悩む

2013-03-24 09:18:00 | つぶやき
昨日で、もう一方のライフワークでの1年間の勉強会が終了して、最終プレゼンを行った。
24人の発表者のうち、女性は私を含めて2人なのだが、やはり女性は表情とか服装などのチェックも入るものなんだな、と思った。
もっと体力があれば、集中力も出てきてより質の良いものが作れたりするのかな、なんて思ったりするのが心残り。せめてビデオに撮るなり夫に聞かせて意見を聞いてみるべきだったな。

今、自分の課題と思っていること。それはfacebookの記事である。
見境なく書き込めば関係者に迷惑がかかることもある。かといって、何も更新しないと活動していない人に見られてしまう。

何もやらなければいいんじゃないの?というツッコミはナシ。
もはやfacebookは異業種交流会に参加していたりとかフリーランスになりたい人には必須と言われている。
これで仕事が来たという人もいるのだから。



人と比べられる脅威

2013-03-22 00:14:00 | 声楽(レッスン)
声楽を10年も続けられた理由を今になって振り返ってみると、個人レッスンなので人と比べられずに済んだからではないかと思う。

その前の稽古事を振り返ると、

バレエ:大人になって3年間頑張るも、「太っているから発表会に出さない」と言われる。いつも「痩せなさい。夕食抜けばいいでしょ」と言われながら痩せられなかった私が悪いのだが、自分の後から始めた人がキラキラした目で「花のワルツ」を踊っているのに、なんとも・・・。これが芸術の残酷さってものかな、と思ったりもした。

フラメンコ:足を怪我して、復帰しようとするも追いつかず。

・・・まぁ、色々他にもあったけど、グループでやると人との差がわかってしまうことが苦手というのはあるな。

それを考えると、個人レッスンって、あくまで比較対象は自分自身だから私にはおめでたい状態であったともいえるんだけど、いざ誰かと組んだり関わったりしたら、互いに触発し合える仲間が増える機会も得られるけど、周囲に追いつかずに心が折れてしまうという脅威もあるんだと思う。


ブラームス「永遠の愛」

2013-03-20 13:11:00 | 声楽(レッスン)
昨日は、L先生のレッスンだった。
曲は前回と同じく、シューベルトの「音楽に寄す(An die Musik)」、ブラームスの「君の青い瞳(Deine blues Auge)」、「永遠の愛(Vor ewige Liebe)」、ドン・カルロの「世の虚しさを知る神よ(Tu che le vanita)」で。

「永遠の愛(Vor ewige Liebe)」、ドン・カルロの「世の虚しさを知る神よ(Tu che le vanita)」は大曲のせいか結構長くやっているなぁ。

「永遠の愛(Vor ewige Liebe)」は曲の終わりがこんなんでいいのか、といつも疑問に感じてしまう、と先生がおっしゃっている。私の歌い方だけの問題というより、作品の構成自体に釈然としないものがある、という様子だった。

この曲の歌詞の意味を考えると、
暗い人気のない森道を、1組のカップルが歩いていて、男性が「君のために別れよう」というのだが、女性は「私たちの愛は永遠よ」と言う所で、クライマックスになってそのまま終わってしまう。
でも、結局、2人は別れたのか、別れなかったのかよくわからない。L先生は「『私たちの愛は永遠よ』と言っていて、別れないはずがないじゃない」というけど、本人だけではどうにもならない理由で別れても愛だけは続いている、ということだってあるんじゃないの?と私は思ってしまうのだけど。
そもそも、どうして「永遠の愛」でありながら、男性が「別れよう」と言ったのか。身分違いとか?

うーん・・・