るりこんの気が付いたらの日記

あるアマチュア声楽家の忘備録とつぶやき

いきなり日本歌曲

2014-04-25 22:03:00 | 声楽(レッスン)
6月に「トスティ歌曲集」をテーマにしようと20枠のコンサートを申し込んだが、選曲に悩んでいた。
F先生の所はベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」の「ああ幾度か(Oh quante volte)」で行くつもりだったが、8月の本番が本命になっているために、更にもう1曲保険ということで、ロッシーニの「ウィリアム・テル」の「暗い森(Selva opaca)」も考える、ということになっている状態。
L先生の所は文化財の10分枠一般募集コンサートで、GWの最後の日にシューベルト2曲と、初ドイツ・アリアのワーグナーでいく予定で、今日はそのL先生のレッスンだった。

そうしたら、「確か去年の6月に20分くらい歌っていたけど、今回もあるの?」とL先生が聞いてきたので、「一応申し込んだけど、曲はまだ決まっていません」と答えた。
そうしたら、GW最後の3曲+日本歌曲は?という提案。

いきなり「宵待草」「沙羅」「平城山」を歌って、どっちもいいわね、って感じになった。
「宵待草」は短いけど華やかだし、「沙羅」「平城山」は以前レッスン受けたことあった。
というか「平城山」は、前の先生の時だったから、かなり昔。
この3曲はどちらも短調だから、もう少し明るくなるような曲も間に入れた方が良い、ということだったので、「お菓子と娘」を挙げたが、「あなたには向かないでしょう」で×。
他に先生が挙げたのは、武満徹「小さな空」、團伊玖磨「紫陽花」、高田三郎「くちなし」だった。
帰りに日本歌曲を聞きながら帰ったら、山田耕筰の「野薔薇」もいいかな、なんて思ったりもした。
帰宅して、武満徹「小さな空」、團伊玖磨「紫陽花」がどんな曲かというのと楽譜を確認しようとしたら、武満徹の歌曲集はケース付きで5,000円!信時潔歌曲集の3,500円でさえ、躊躇してしまうのに。

日本歌曲集は、海外のネットショップでは扱っていないし、時代的に新しい人が多いから、高い楽譜が多い・・・

暗い森

2014-04-21 12:53:00 | オペラ(鑑賞)
先日のF先生のレッスンでは、「ああ、幾度か(O quante volte)」の他に、もう一曲、ということで、ロッシーニの「ウィリアム・テル」の「暗い森(Selva opaca)」が出てきた。
そういえば、私が声楽習い始めた頃、「この曲が私に向いている」と言った人がいたと思う。

ロッシーニといえば、ソプラノからバリトンまで、コロというイメージが強いがこの作品は、ロッシーニ最後のオペラということで、どんなものだろうと、このアリアを歌う人たちの曲を何曲か聞いてみた。

確かに、よくいるロッシーニを歌うソプラノ歌手のようなコロラトゥーラ系よりも、スピント系の方が多そうな感じ。
他にもロッシーニの歌曲など、後期の作品を聞くと、ブッファで軽そうなものよりも、ヴェルディの初期に近そうな雰囲気のものもあるので、ドニゼッティやベッリーニよりも、長く生きていた、というのがわかる。作品を通して作曲家の人生を知ることができる、ということに気付いた。



セリフだけの役をもらいました

2014-04-17 10:24:00 | オペラ(出演)
4月末のオリジナルオペラの練習が続いているが、モチベーションが限りなく下がっていて、もう途中で止めようかとさえ思っていた。
なんとなく、細くて若くて軽い感じが好き、という主宰者の好みというのはわかった。
でも、そんな雰囲気の起用されている人たちの歌を聴いて、どんなに謙虚になってもこれが自分自身が目指べきものとはとても思えない。
「上手」「下手」というのともまた違うのである。
確かに役を貰えるアマチュアはいるけど、彼女たちは、自分の歌の研鑽以上に雑務に追われている。好きでやっているのならいいのだけど・・・
このまま続けても労力と時間の無駄かな・・・と思っていた。

が、いきなりセリフだけの役を貰えるということに。
俗っぽいことを言う女性6人組の狂言回しのような役。
6人のうち半分が演劇畑出身。
自分の仕事の仲間でも、「業務につながる」という理由で、演劇を勉強している人はいる。
セリフを話すフレーズそのものは短いのだけど、その分、掛け合いの場所が多くなるのが大変。

モチベーションが回復しました。



お手本になる録音

2014-04-08 16:23:00 | 声楽(レッスン)
昨日はF先生のレッスンだった。
いつも、歌曲とアリア1曲ずつ、という組み合わせが、オペラアリア解禁になっていらいの進め方だったのだけど、今回は、アリア2曲。

ベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」より「ああ幾度か(Oh,quante volte)」とレオンカヴァッロの「パリアッチ」より「鳥の歌(Stridono lassu)」。

高校生で声楽初めた頃は、、丁度CDというものが流通し始めていた時期であった。
youtubeなんてものはない代わりに、毎週日曜日の午後に「オペラアワー」というラジオ番組があって、それはそれで楽しかったが。
一度、どういうCD買えばいいですか?と聞いたら、当時の先生は「そんなものに頼ってはダメ!」と答えていた。
youtubeどころか手頃に買える市販のCDもあまり出ていなかったけど、女声の「イタリア歌曲」というものについては、大学入学直前になってようやっとM女史が出した程度。その時期、録音で「イタリア歌曲」といえば、テノールが歌う近代歌曲が主流だったのではないかと思う。
高校時代、従姉に「イタリア歌曲歌っている」と言ったら、「『カタリ』とか『マンマ』とか好き?」と聞かれて、「はぁ?」だった覚えがある。
今になって、自分の馴染み深く好きな作品をやろうとすると、歴史的なプリマの録音だとしても必ずしも正確なリズムになっていないのに、影響を受けてしまうから、危険といえば危険なのはよくわかる。

「ああ幾度か(Oh,quante volte)」はyoutubeで色々な録音を聞いたけど、大抵、若手の声の細い歌手か、有名所だとコロラトゥーラソプラノの人ばかりで、自分の参考になりそうな人はどれだろう?と思った。
個人的に気に入ったのはスミ・ジョーとかデヴィーアとかだけど。
喉にはしっくり来るけど、自分はどんな風に聴かせるか?というと、なかなかイメージできない。
好きな歌手とお手本になる歌手、というのはかなり違うのではと思う。




グループシンクを考える

2014-04-02 14:56:00 | つぶやき
集団凝集性というものがある。
集団で物事を行う場合、各メンバーに結束が強いほど成果も良い、という動機づけになる。
集団では、2人が別々のことをすれば、2の成果しか起きないが、2人が同じことをすれば、2+αの成果が出る、
でも、これには罠がある。その集団の外側から見て奇妙だったり危険だったりしても当事者はそれに気付くだけの客観性がなくなっている、というものであり、「グループシンク」と呼ばれる。
よく、反社会的なカルトとか、70年代の学生運動などで、こうした例が引きあいにされがちなのだけれども、そこまで物騒にならなくても現代の企業でも、単なるサークルなようなものでも、多かれ少なかれ起きる現象でもある。

自分の前職の会社でも、そのようなことはよくあった。
特に私の職場は右上がりで成長していった会社だったので、どんどん人を増やしていった。
経営者は数年後には従業員数を2倍に増やしたいと言って、創業時から従業員数が右上がりに増えていくグラフを誇らしげに説明していた。
とにかく組織が大きくなる、ということに酔っているようだった。肝心の利益のことには全然触れずに。
しかし、1人で1つできていたことが2人になって、1.5くらい、つまり1人あたりの成果がどんどん落ちていったのである。

沈みかかっていく船に居座り続ける意味はなんなのだろう?
私は、何とか抜け出せて良かった。
単独での活動はそれなりに大変でもあるが、もう戻りたいとは思えない。
もちろん、とても思い入れがあれば、ずっとその船と運命を共にするのもアリなのかもしれないが。
他人を意識したり、集団で取り組む、ということのリスクについても、考えるべきなのだと考えた。


それでもって、なぜこのブログにそんなことを書くのかって?
そもそもなんのために自分は歌うのか、といえば、自分自身のためだろう。
誰も、私自身が歌わないとダメだ、なんて言う人もいない。
「どうせアマなんだから好きなことすればいいのよ」という意見の無責任さになんだか違うとは思うけど、アマでもそれは色々な考えも向き合い方もあるし、他人の考えを否定も肯定もしない。
他人と「そうだね。うんうん」と言い合える関係を作れば、満足できるのか、とも思えず。
努力が成果に結びつかない経験なんて、いくらでもしているから「私はこんなに頑張っているのよ」とアピールする気にもなれないし、他人にアドバイスするほどのおこがましさも持てない。
他人が何と言おうと思うと、自分は自分。