多和田葉子さん、『文字移植』

 風邪気味…と言い切るにはあと少し猶予がある気がする、微妙な体調。のどが痛くて何となくぼ~っと過ごしていたら、うつらうつらしてしまった。
 多和田さんの作品を読んでいたら、手足にまとわり絡む夢のような感触から抜け出せなくなって、ぬるんとしたものが澱のように溜まった。うたた寝状態で本当に夢を見ると、そこもやっぱりぬるんとしていて、私はすっぽり呑みこまれてしまう。多和田作品の世界に、夢が侵されたようだった。

 『文字移植』、多和田葉子を読みました。
 
 〔 たとえば翻訳はメタモルフォーゼのようなものかもしれなかった。言葉が変身し物語が変身し新しい姿になる。そしてあたかも初めからそんな姿だったとでも言いたげな何気ない顔をして並ぶ。それができないわたしはやっぱり下手な翻訳家であるに違いなかった。わたしは言葉よりも先に自分が変身してしまいそうでそれが怖くてたまらなくなることがあった。 〕 30頁

 まず、タイトルにとても惹かれました。多和田さんらしい…と感じました。単行本で刊行された際には、『アルファベットの傷口』というタイトルだったそうですが、『文字移植』の方がもっといかがわしくて面白いような気がします。 無機的な“文字”と有機的な“移植”がくっついていることで、ざらりとした落ち着かない気分にさせられます。

 友人から借りた火山島の別荘にて、現代版聖ゲオルク伝説の翻訳を手がけようとする“わたし”。けれども言葉たちはつながらないまま、原稿用紙の上に散らばるばかり。
 “あらゆる翻訳は「誤訳」であり”と、多和田さんご自身がおっしゃっています。なるほど、どんなに優れた文学作品でもただ直訳しただけでは、その芳香は消え失せた味気ないものになってしまうのでしょう。だからそこで翻訳家は意訳をするのでしょうし、その作品の味わいを伝える為のさまざまな工夫を凝らすでしょう。その時点で翻訳とは、決して元の文章に忠実であるとは言えなくなってしまうのでしょう。
 ですから私のように母語でしか本が読めない人たちは、翻訳家それぞれの翻訳の技をも、楽しませてもらっているとも言えますね。
 
 ところが“わたし”にはその、“翻訳(=まさに言語をひるがえす?)”が巧く出来ない。なぜか。そうすることに抵抗があるのか、心が拒否してしまうのか。自分自身までもがひるがえってしまうのを恐れてさえいる“わたし”は、自分の判断で言葉をつなぐことに難渋し、つながらないままの言葉たちをただ書き連ねていきます。翻訳ならぬ、文字移植です。 
 それでも、プツンプツンと単語が並んだだけのゲオルクの物語が、少しずつ立ち上がってきます。読み慣れてくると、うっすらと物語が見えてきます。そしてその物語は少しずつ、“わたし”のいる側へと流れ出してくるのでした。

 いやそれにしても、多和田さんの作品を油断して読んでいると。

〔 深緑色に光る数個の突起はどうやら〈乳首〉らしいとそれが分かってきた時わたしは右の胸に痛みを覚え思わずそこへ手をやったがその時はすでに遅かった。乳首がぱちんと割れてふたつになってしまったのだった。わたしはあわてて分離したふたつの乳首をぎゅっとひとつにまとめて強く摑んだ。 〕 36頁

 お湯が出てくると思いこんでいたシャワーノズルから、いきなり冷たい水がとびだしてぎゃんっ! …みたいな文章に出くわします。ここは痛過ぎました。こういう感覚に訴えてくる文章は、体内に残ってしまう気がします。

 特に終盤の展開は読み応えがありました。イヤな方向へ転がっていくのに、わくわくするようなおかしな読み心地。抜け出せない夢のもどかしい感触に満ちていて、あがいている“わたし”の姿が夢の中の自分に重なってくるようでした。

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