『八つの小鍋 ― 村田喜代子傑作短篇集』

 しゅ、しゅごい…と、終始おののきながら。 
 村田さんの描くおばあさん達には、足元から根っこが生えているかも知れない。あまりにも長く生きたから、根っこが生えてしまったのかも知れない。…と、想像したらぞくっとした。そんな得体の知れなさが茫々と漂う作風で、そこが読み応えだった。

 『八つの小鍋 ―村田喜代子傑作短篇集』を読んだ。
 
〔 青草の上に、落葉の上に、由美子の尿の一滴が降りかかる。わたしは歩きながらうれしくなった。由美子の股はなんだか世界の天井みたいではないか。ふっくらした柔らかい、湯気ののぼるような天井である。   
 「凄いね、由美ちゃん」
 手をつないで振りながら、わたしが由美子に話しかける。
 「りっぱなおちんこ」 〕 162頁

 収められているのは、「熱愛」「鍋の中」「百のトイレ」「白い山」「真夜中の自転車」「蟹女」「望潮」「茸類」。
 村田さんの作品を読むのは今回が初めて。短篇集となっているが、比較的長い「鍋の中」や「白い山」はなかなか読み応えがあり、この二つの作品で薄めの一冊になってもおかしくない…と思う。

 一話目に収められている「熱愛」は、全体を読み終えてみるとこれだけ作風が違う。これを最初に持ってくるところが心憎い。この作品、兎に角圧倒された。
 幼馴染の青年二人が、閉鎖された海の遊歩道へツーリングに行く…というそれだけの話で、オートバイに興味はないので読み始めは全然ぴんとこなかったのに、いつの間にか引き込まれていた。ラストまで読んで、タイトルに胸を打たれる。はあ…。
 「鍋の中」もとても好きだった。田舎のおばあさんの家で、夏休みを過ごす4人の孫たち。そうなったきっかけは、ハワイからおばあさんに届いた一通のエアメールである。差出人は、行方の知れなかったおばあさんの弟の息子…だったが。
 おばあさんの背後にある、気が遠くなるほどの長い年月。その重み、そして記憶と忘却。生きながら老いゆくこと、忘れながら生き続けることの底知れなさを覗き込んでしまったような、ふわふわとした心地になる不思議な作品である。“おばあさんの鍋は怖しい”…。

 どの作品も独特な味わいで忘れがたいが、とりわけ「蟹女」は凄かった。
 一人のおばあさんが、病院に入院している。お昼ご飯を終えると、てくてくと担当の医師のところへ行ってしばらく話をする。どうやらそれは治療の一環らしい。自分の昔の話をしているはずなのに、昨日と今日で語る内容が噛み合わないことから、認知症かな…と事情がわかってくる。
 院内食を食べ終えたおばあさんが先生のところに行くと、ちょうど先生は食事中で、これがまた働き盛りのガッツリした食事ばかりだ(牛丼とかトンカツカレーとか)。先生の食事の内容とおばあさんの存在感とが、あまりにもちぐはぐな感じがして、ものすごく奇妙な場の雰囲気を醸していて印象的だった。
 そして、毎日毎日おばあさんの一人語りは続き、その世界はいつの間にやら大変なスケールへと押し広がっていく。おばあさんの語りのパワー、壮観である。

 そして「茸類」。この作品…夫婦の深淵みたいなものを描いているのかな。ラストでぞぞ~っとしたけれど、怖さの中に魅了されるものがあり思考が停止してしまった。

 自分が子供の頃、祖父母に全く懐けなかったことを思い出す。会う機会が少なかったので無理もないけれど、実は年寄りが怖かったのだろうな…。幼い子供の目には、おじいちゃんもおばあちゃんも、ずっと昔からその姿のままでいたとしか考えられないほど、自分とはかけ離れた存在に見えていた。皺も、がさがさした肌も、どこかしら重々しい佇まいも、近寄りがたくて怖かった。…と、ふと思い出させられた一冊でもある。

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