皆川博子さん、『二人阿国』

 『二人阿国』、皆川博子を読みました。

 まず、阿国と呼ばれた女性について…ですが、伝承こそあるものの確かなことは定かでなく、ときに“出雲の阿国”と名乗っていたことがあっただけで、真の出自は詳らかにされていないそうです。伝承と謎に包まれた、歌舞伎の創始者。“ややこ踊り”に芝居をかけ合わせたような“かぶき踊り”なるものを演じたところ、それが広く衆に受け入れられたそうです。そしてそれが後の歌舞伎の、原形となった…と。 

 この話には、題名そのままに出雲の阿国ともう一人の阿国が登場します。その、もう一人の阿国…いずれ阿国と名乗ることになる笠屋舞の一座の舞子お丹が、この物語の主人公です。
 そして出雲の阿国のことは、あくまでもお丹の目を通して描かれていきます。ですからここで主軸となるのは、少女から女へとあやうい変化を遂げていくお丹の物語です。描かれているのはお丹自身の抱えた葛藤でもあり、女である自分を決して内側に入れることはない能の世界への焦がれるような憧れだったり、阿国へと向けた屈折した思いだったりします。
 あえて出雲の阿国を主人公とはせずに、阿国の天与の才を誰よりも理解しているが故にこそ、誰よりもあがめつつ妬まねばならない宿命の少女の視点を使っているところに、何とも言いがたい巧みさがあると思います。 

 お丹の胸に渦巻きとぐろ巻く、“天下一”の名を勝ち取った阿国への憧憬と畏れ、共感と反発…。それらを越えた上での互いの芸に対する賛美と軽蔑、魂の響き合いのような綾が全篇を貫く底流となっているのが、この作品の魅力でした。
 天才を真に知る人もまた、ある意味においては天才なのかもしれない…。残酷なことだけれど。 

 阿国にたいして近寄りがたさを感じていたお丹の目には、阿国の濃やかな心情が映ることはなかった。だからこそ、阿国という際立って特異な女性の、神秘的で神がかりなところが損なわれることなく、伝説を生きた一人の女としての姿が鮮やかに浮き彫りにされている。
 (2007.5.7)

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皆川博子さん、『聖餐城』

 かなり長い作品でした。どっぷりと浸りながら堪能いたしました。
 『聖餐城』、皆川博子を読みました。

 歴史の裏側に隠されてしまう、表向きの光に対して闇の方へ葬られて忘れ去られしまう…無惨な事実に、あえてもう一度光を当てようとする。もう一度、物語の中で蘇らせようとする。皆川さんの歴史物には、そんな印象を受けます。裏側へと追いやられた敗者や市井の人々へと向けられた、共感を湛えた眼差しを感じます。 
 たとえば『総統の子ら』ではそれが、第二次世界対戦におけるドイツ側の物語だったりしました。そしてこの作品では、ドイツの三十年戦争における傭兵とユダヤ人の数奇な物語を主軸に据えながら、常に社会における群集が孕む憎悪をその身に受ける人々(ここでは刑吏や皮剥ぎのような)の存在にも触れていて、重層的にその時代をえぐりつつ描いています。その筆は鋭く、容赦もありません。迫力があって格好良くて、兎に角しびれます。

 かつてヨーロッパが麻のように千々に乱れていた頃、富めるユダヤ人は歴史の裏舞台において、富に物を言わせて戦争を操ろうとしていた…? キリスト教史上常に迫害を受け続けてきたユダヤ人のこと、彼らがヨーロッパにおいて担ってきた役割のことについて、私は殆ど知らなかったのかもしれません…。
 “馬の胎から産まれた少年”アディと、宮廷ユダヤ人の息子イシュア・コーヘン。二人が短い時代を駆け抜けつつ、世界の理不尽に屈服しまいと必死で足掻く姿が、切なくも美しかったです。
 人の世に、人の世である以上は、理不尽なことが溢れかえって決してなくならないのは、今も昔も変わらない。どうにもならないことへの恨みを抱えつつ、屈服しないことの困難さも。
 (2007.5.2)

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