ヴィリエ・ド・リラダン、『未来のイヴ』

 読書会、今月の課題本。『未来のイヴ』の感想を少しばかり。

 “――生命のあるものしか愛せませんよ! (とエワルド卿は言つた。)” 144頁

 大変面白く読んだ。何と言っても、格調高い訳文が素晴らしい。当時の週刊紙にて連載され、1886年に完結した古い作品である。作者であるリラダンは、フランスの詩人。
 まずは冒頭から、アメリカの発明家エディソン氏が登場する。当年42歳。“世紀の魔術師”、“メンロ・パークの魔法使”、“蓄音器のパパ”…などなどの渾名で称される、伝説的な人物である。そんな彼が何をしているところかと言うと、独りごとを言っているところ。で、いやはやその独りごとが長いの長くないのって…長い! たとえば歴史上の有名な場面のあの時その時を取り上げて、おれの蓄音機がそこにあつたなら…と、埒もないことをかこちつつ要するに自画自賛に耽っていたりとか。突っ込みどころがあり過ぎて、しょうがないなぁ…という感じ。とそこへ来客がやってきて、やっとこさ物語の本題へと入るわけであるが。
 かつての命の恩人であるエワルド卿の、もはや自ら命を絶つしかない…とまでに思い詰めた、いささか人と違う変わった恋の話を聴いたエディソン氏は、相手を絶望の淵から救わんと驚くべき提案をする。外見は掛け値なしに完璧な美女、してその中身は…“俗物の女神”であるというミス・アリシヤ・クラリーを、あなたの為に理想通りの女性に仕立ててご覧にいれませうぞ…(という内容のことをこれまた長々と喋る)。

 アンドロイドものの先駆的な小説ということだが、100年以上もの時を隔てた今の読み手である私には、非常にプリミティブなところがとても魅力的にも感じられた。そんな風に、諷刺小説として書いたリラダンの思惑からはいささかずれた楽しみ方が出来てしまう…ということ、そこがまた面白いと思う。警句の言葉たちが色褪せているとまでは言わないが、古めかしいSFならではの大らかさを感じてしまうのは如何ともしがたいでしょう。
 こんなことも出来るかも知れない、あんなことも出来るようになるのかも知れない…と、どこまでも空想が広がっていくような記述に、諷刺だけとは言い切れない、夢…とでも呼びたくなる何かがあるような気がしてしまうのだ。たとえばその時代の人たちが、科学の行く末にぼんやりと見はるかしていた未来への憧れとか。リラダンは否定するかな…。否定するのならば、どうしてここまで描き込んだのかと是非とも訊いてみたい。

 終盤のハダリーの台詞がとても好きだったので、人造人間に恋したって別にいいのかも知れないよ本人がそれでよければね…なんて、ふと思ったりもしたのだけれど、ラストは概ね予想通りだった。科学を万能と崇める人々へ向けられた痛烈な眼差しと、その先に用意された結末。その一方で、所詮理想通りの女など人造人間でも作るしかあり得ない、生身の女なんぞどうせ俗物…とでも言わんばかりの皮肉が、ぴりりと効いている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )