サルマン・ラシュディ、『真夜中の子供たち』

 『ムーア人の最後のため息』では“ルシュディ”となっているけれど、こちらは英語読みで“ラシュディ”と。『真夜中の子供たち』の感想を少しばかり。

 素晴らしい読み応えだった。激動の時代のインド・パキスタンを舞台に、歴史的偶然との重なりによって混乱させられ崩壊していく、三代に渡る一族の物語。彼らの内に繰り返される形式と回帰、それらが織り成す綾で皮肉な模様から、まったく目が離せなくなる。

 語り手であるサリーム・シナイは、インドの独立達成のまさにその瞬間(“時計の針が恭しく合掌”)に、産声を上げたと言う。ここでくどくどと正確な時間にこだわる理由は、物語の流れの中でおいおい明らかにされていく。祖父アーダムと祖母ナシームを結びつけた“丸い穴のあいた白いベッドシーツ”にまで遡り、すでに31歳になっているサリームは、世話を焼き面倒を見てくれている女性パドマを聴き手にして、長い長い物語を語り始める。時にその、キュウリのように顔の中心に垂れさがる巨大な鼻を使って、歳月の隔たりを越えて異様な臭いを嗅ぎとりながら…。
 まるで手を変え品を変え…とでも言いたくなる、執拗に出てくるパターンのあれこれが、張り巡らされてこの世界を覆っている。チャツネとピクルス、情念を加味された料理の数々、名前を変えるひと連なりの女たち、楽天主義の病にかかる男たち、“息子を持つことなく息子を持つ”宿命、いつも天から降ってくるものに弱かった一族。そしてまた、主人公サリームの行く先々には必ず蛇が何らかの形でその姿を現し、転機にいるのは常に女たちであるという約束事。復讐心と、立ちはだかる裏切り。

 上巻の終盤でやっとサリームの十歳の誕生日にまで話が及ぶのだが、その少し前の辺りでいよいよ“真夜中の子供たち”というタイトルの意味がわかり、彼らの存在も徐々に明らかになっていく。そこにはサリーム自身の出生にまつわる秘密も、実は関係しているのだ。ある出来事をきっかけに想像も付かないような超能力を得たサリームは、何も知らずにややこしく困難な人生へと踏み出していってしまう…。 
 饒舌な語りにいざなわれていく思いがけない展開の連続に、いささか前のめりになって堪能した作品。流石はインドの濃厚さ。
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7月4日(月)のつぶやき

09:43 from web
桃なう。桃にゃう。桃にゃうーっ。…こないだ生協で欠品だったので、やっとありつけたよう。
09:58 from web (Re: @hanakochia
@hanakochia 吐くなら飲むなって、た、確かに(爆)。私はこの作品、酒好きにはなかなか楽しめると思うのですが…^^ ただ、会社物は私もそんなに好きじゃないかなぁ。買わなくてよかったですね(こそっ)。
10:04 from web (Re: @ayaoshima
@ayaoshima この頃の話は面白いですね。でも私、二番目の夫の顔を見る度に「エグザイルがいるぞ…」と思ってしまうのがちょっと(笑)。
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