多和田葉子さん、『聖女伝説』

 ゆらぎかげろい境界を失くす、少女の性と生と聖。 
 その、バランスの拙さと言ったらどうしたものか。 その、不穏なまでの危なっかしさは。 感覚を直に刺激してくる多和田さんの文章が、つぶさに掬いとった少女の心と生理の軌跡。 読んでいて、誰かの手に胸の内をかき混ぜられるように気持ちが悪くなってしまうのはきっと、自身が少女という存在だった頃の何とも言えない居心地の悪さを思い出させられるからだろう。

『聖女伝説』、多和田葉子を読みました。 
「BOOK」データベースより
〔 「少女」から「美しき死」が奪い去られてしまったら、「少女」はいったい誰になるのか。オフィーリアの系譜に決別する画期的な少女小説の誕生。性と生と聖の少女小説。 〕  

 九歳になったばかりの“わたし”は、父親に似た顔の男・鶯谷によってこけしにされる。 そして、クリスマスの終わった三日もの間身動きのとれなかった“わたし”に下された診断は、想像妊娠だった――。 
 短くぎこちなかった手足がすんなり伸びて、誰かに追われているように必死に逃げながらも、いつか少女は成長してしまう。 九歳から高校三年生までの、切り取られた少女期。  

 女の性を受けたものが、何者でもない(女でもない男でもない大人でもない…)“少女”でいられる限られた時間。 少女時代、少女期。 ふわり、ゆらり――と宙に浮いているようでいて、けれども執行猶予のように張りつめてもいて。
 その、短くも儚い少女期の終焉には、必ずや死と再生が待っている。 少女としての魂は、己を待ち受ける次なるステップ“大人の女への変貌”のために、自らを殺め葬らなければならないのだから…。
 …と言いつつ、そんな、死を目前にしたい一瞬を、あの永遠に的に当たらない矢が飛んでいく瞬間のようにどこまでもどこまでも区切り続けて無限に引き延ばしておけたらば…という発想の方が、私の嗜好には合う。

 身を削る思いで、身を削られて、完成すると、実を結ぶこともなく、置き忘れられていく、わたしはそんなこけしになりました。 わたしは、恐いと思いながらも少しほっとしていました。 こけしの身体の中には空洞がなく、ぎっしり木がつまっていて、魂の入る場所がありません。 だから、魂を奪われる心配がありません。 血の流れる場所もありません。 だから、他人と血でつながれる心配もありません。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )