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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

初ガツオ

2016-04-16 | 季節

山々が新緑に萌える季節となりました。
この時期になると、どなたもこの句を思い浮かべるのではないでしょうか?

「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」
意訳: 目にはまぶしく輝く木々の新緑が映り、耳には山ほととぎすの鳴き声が聞こえて、口では新鮮な初鰹を味わう。
よく知られているこの句は、詠まれたのは比較的新しく、今から300年ほど前の享保年間に山口素堂(1716年没)が詠んだのだそうです。

ところで、この句に詠まれている初ガツオとはどのようなカツオなのかご存知でしょうか?
先日、東京海洋大学客員准教授・名誉博士・さかなクンが解説していたところによると、初ガツオは生後1年程度の若いカツオの事で、陰暦4月頃(太陽暦の5月~6月頃)に黒潮に乗って日本近海に北上する一番早く獲れる走り(初物)のカツオを言うのだそうです。

ところが、近年、各国が赤道付近の漁場で獲ってしまうため黒潮に乗ってくる初ガツオが少なくなっているそうです。
しかし、カツオは黒潮に乗ってくるものばかりではない事が研究で分かっていることから、6月位になれば初ガツオの水揚げが増えそうだと言うことです。
そして、カツオ料理として、カツオの三色丼、カツオのへそのおでん、カツオのスープギョーザ、カツオのバジルステーキ、カツオのだし茶漬けを紹介していましたが、いずれも絶品だそうです。

なお、戻りガツオを聞いたことがあると思いますが、これは、秋から冬にかけて日本近海を南下するカツオの事を言います。
戻りガツオはエサをたっぷり食べて脂肪量を増加させてUターンしてくるので、魚類トップクラスの「たんぱく質量」を保持しており、脂肪量は春カツオ(のぼり鰹)のおよそ10倍だそうです。

戻りガツオは美味しそうですが、初ガツオも三色丼で食べてみたいですね。


大阪と大坂

2016-04-15 | 地元紹介

大河ドラマ「真田丸」はいよいよ大坂編に入り、10日に放送されたサブタイトルも「大坂」でした。
ドラマをご覧の皆さまの中に、「おや!大阪の漢字が違うのではないか?」と思われた方はいませんか。
大坂編の「坂」もサブタイトル「大坂」の「坂」も土偏(つちへん)となっています。
しかし、現在の大阪市や大阪城などに使われている「阪」は阜偏(こざとへん)の「阪」になっているのです。
なぜ、土偏(つちへん)と阜偏(こざとへん)に区別して使用しているのでしょうか?
そこで調べてみました。

調べてみると、大坂の地名の由来は520年ほど前に遡ります。
明応5年(1496年)9月、蓮如上人が大坂石山の地(現在の大坂城の辺り)に、石山御坊(後の石山本願寺)を建立したのですが、この付近一帯は古くは難波(浪速=なにわ)、中世には小坂(おざか)と呼ばれていたのだそうです。
ところが蓮如上人は縁起をかついで「小坂」を「大坂(おざか)」に変えてから「大坂」の呼称となりました。

その「大坂」が現在のように「大阪」と書かれるようになったのは、明治3年のことです。

東京が首府と決められた明治維新後、大坂は衰退の一途をたどっていたのですが、これは大坂の「坂」が「土に反る(返る)」と読めることから、人々が忌み嫌ったのだそうです。
そこで、「盛ん・多い」という意味を持つ「阪」が使われるようになったということです。

当時は公文書にも「大阪」と「大坂」が混在し、かなり混乱していたようですが、明治10年になると、ようやくその混乱も収束し、公文書の印鑑なども「大阪」に統一されたのだそうです。

なお、この大阪の漢字の変更を模倣したのが三重県の松阪市で、『松阪の町の歴史』の解説には、「松坂」が「松阪」となったのは明治22年の町村制実施の時で、その範となったのは大阪であり、「大坂が大阪になったので、「松阪」に決定したと、『松阪開府400年史』に記されていると言うことです。


怖い方言

2016-04-14 | 地元紹介

所用のためブログの書き込みを休止していましたが、今日から再開しますのでよろしくお願いします。

先日、某新聞に「てごうする」の見出しがありました。
もしやと思い記事を読むと、思った通り、私の故郷、岡山県西部地方で使用していた方言でした。
記事は、尾道市のデニムショップの社長がスタッフを探していた時、以前勤めていた会社の元上司と知り合いだった東京の女性に「てごうしてほしい」と声がかかったことから、その女性が尾道へやってきてこの「てごう」という言葉に遭遇したというものでした。

「てごう」は尾道も使っているようですが、私の故郷、瀬戸内に面した岡山県の西部地方でもよく使われる方言です。
意味は、「手伝う」「助けあう」で、漢字では「手合」を当てるようです。

この「てごう」は困った時、手を差し伸べるだけではなく、互いの手を重ねるように支え合えば、不思議と希望がわいてくる共助の心を表す言葉ですが、子供の頃に親からよく言われた「あそんどんならてごうせえ(遊んでいるなら手伝え)」は、そのような意味合いではなく、家事や農作業を手伝わせるために子供に指示しているもので、手を合わせるような気持ちなどはなく、完全な命令形で使用されるものです。

もう一つ、岡山の“怖い?”方言に「はよ~しねえ~」があります。
皆さんはこの方言はどのような意味だと思いますか?
発音通りそのまま素直に聞くと「早く死ねえ」と思われるでしょうね。
ところがそうではありません。

この言葉は決して怖い表現ではなく、「早くしなさい」という意味で使われる方言なのです。
使用例としては、出かける時間が迫っている場合などに、
「いそがにゃ~まにあわんど~、はよ~しねえ~」(急がないと間に合わないよ。早くしなさい)、などと使われます。

岡山の方言は、「てごう」で手を合わせ、「はよ~しねえ~」と、早く死ぬ事を願っているような変な言い回しですが、言葉にはほんわかと温かみが感じられる言葉です。
忘れていても、その環境に入ると何の抵抗もなく使用できる方言はいいですね。


「あさが来た」ゆかりの地(2)

2016-04-08 | 趣味

今日も「あさが来た」ゆかりの地をご紹介します。

京都・三井家に生まれた浅子(1849年~1919年)が嫁ぎ、九転十起の頑張りで切り盛りした加島屋は大坂有数の豪商でした。
中之島を挟み、東から西へ堂島川と土佐堀川が流れていますが、この中之島や堂島界隈は各藩の蔵屋敷が立ち並び、各地の米や産物が集まる流通の中心地でした。

「淀屋屋敷跡」
豪商・淀屋・常安の手により、中之島は1619年(元和5年)に開発され、諸藩は蔵屋敷に米を蓄え必要に応じて換金していました。
しかし、米問屋ごとに取引内容が異なっていたことから、常安は幕府に米市場の設置を願い出て取引所を開設しました。
その結果、米の価格は安定し、品質も向上したと言われています。
なお、この屋敷跡のすぐ東側に架かる橋が淀屋橋で、淀屋が架けた橋です。

・土佐堀川(中之島南側)南側道路沿いに設置されている淀屋の碑です。奥に見える建て物が日銀大阪支店です。


「常安橋」
常安橋と呼ばれる以前はすぐ東側に架かっていた橋を田辺屋橋と呼んでいました。
薬種商の田辺屋五兵衛の名に関係するものらしいですが、田辺屋が道修町に転出してからは常安橋といわれるようになったそうです。
この常安橋と言う名称は淀屋常安に由来するそうです。
豪商・淀屋の本宅が大川町(現中央区)にあったことから、淀屋常安は土佐堀川対岸の中之島を開発しました。
このようなことから、現在の中之島四~六丁目はもともと常安町と言っていたそうです。

・土佐堀川に架かる「常安橋」です。


「日本基督教団 大阪教会」
福沢諭吉、新島襄と並んで日本三大教育者の一人とされる成瀬仁蔵の影響を受けた浅子がキリスト教の洗礼を受けたプロテスタントの教会で、1922年(大正11年)に建築されました。
ヴォーリズの設計によるロマネスク様式の赤レンガ建築で、登録有形文化財に指定されています。

・浅子がキリスト教の洗礼を受けた教会です。


「福沢諭吉誕生地・中津藩蔵屋敷跡」

パンフレットによれば、「小説 土佐堀川」には福沢諭吉の書を読み夫と語り合う浅子の様子が描かれています。
鹿島銀行に女子行員を採用した浅子の考えは、諭吉の思想に通じるところがありました。
福沢諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれたそうです。

・福沢諭吉誕生地の石碑です。


「蛸の松」
諸国の蔵屋敷前には自慢の松が植えられていました。
とりわけ広島藩主福島正則が植えたとされる黒松は、枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていたことから人々に愛されていました。
なお、現在の松は近年植えられたもので、当時の場所と異なるそうです。



「大阪俵物会所跡」
江戸時代には金・銀・銅などの重要な生産物については幕府の厳しい統制下におかれ、会所と言う売買センターで特定の商人しか取り扱うことができませんでした。
俵物と呼ばれるふかのひれや干しなまこ、干しアワビなどは当時の日本の重要な特産品で、長崎から中国などに向けて輸出されていました。
この俵物は輸出入の代価に用いられる事もあったので延享元年(1744年)に大坂に会所が設けられ、ここで売買が行われました。
安永6年(1777年)にこの地に移り、明治まで続いたそうです。



・大阪俵物会所跡付近です。


「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  所用のため、明日から4~5日(少し長引くかも知れません)、ブログの書き込みを休ませていただきます。
  


「あさが来た」ゆかりの地(1)

2016-04-07 | 趣味

4月2日が最終回だったNHKの連続テレビ小説「あさが来た」は、平均視聴率が関東地区で23.5%と、今世紀最高を記録したそうです。
ある放送作家の分析では、主人公あさ(波瑠)の努力を惜しまず、先延ばししない生き方が共感を呼んだのは勿論のこと、夫の新次郎(玉木宏)の活躍がMVP級だったと解説しています。

更に、新次郎は遊び人のように見えて陰でしっかり支えており、有言実行のあさに対し不言実行であり、どちらも「実行」の人であること。
加えて、新次郎にはきちんと人を認められる良さがあること。
ともすれば人は劣情や嫉妬から自分以外の成功や業績を認められず、卑怯な言い訳を色々作り出して実行や努力から我が身を遠ざけるのも人間であるが、ドラマではそれがなかったことが支持されたのでは、と高視聴率の要因を分析していました。

そこで改めて、もう一度「あさが来た」のモデルである広岡浅子のゆかりの地を訪ねてみたくなり、所用で大阪に出たついでに、数か所立ち寄ってきたのでご紹介します。

「加島屋本家」
大同生命保険株式会社本社のすぐ横に建っている「加島屋本家」の石柱です。
ここに掲げられている説明によれば、かつてこの地に本宅を構えた両替商「加島屋」は、江戸期に大坂有数の豪商として繁栄を誇りました。
加島屋は嘉永2年(1625年)初代当主・広岡久右衛門正教が御堂前で精米業を手掛けたのが始まりと言われています。



明治維新により多くの両替商が廃業を余儀なくされる中、9代当主・広岡久右衛門正秋、正秋の兄・信五郎とその妻・浅子の奮闘により、加島屋は幾多の困難を乗り越え、大同生命を始め、様々な事業を展開する近代企業へと発展しました。



「天五に平五・十兵衛横町」
浅子の加島屋嫁入りと時を同じくして異母姉・春は天王寺屋に嫁入りしました。
天王寺屋は1628年(寛永5年)最初に両替商を開業したと言われています。その後、大阪には平野屋、鴻池、辰巳屋などが開業しています。
1670年(寛文10年)、大坂町奉行により「十人両替」(十人組)が設置され、天王寺屋五兵衛はその筆頭でした。
天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の両替商が道を挟んで店を構えていたことから「天五・平五(合わせて)十兵衛横町」と呼ばれていたそうです。



・現在の十兵衛横町の通りです。


「梅花女学校発祥の地」
梅花女学校の主任教師(アメリカ留学後校長に就任)成瀬仁蔵は福沢諭吉、新島襄と並んで日本三大教育者の一人とされ、1901年(明治34年)に日本女子大学校(現在の日本女子大学)を創設しました。
浅子は成瀬の「女子教育」に深く賛同し、大学設立に向けて大きく関与しました。

・『明治11年1月この地で大阪で初めての府知事認可による梅花女学校が創立者澤山保羅によって始められた』と書かれている石碑です。



表裏比興の者

2016-04-06 | 趣味

NHKの大河ドラマ「真田丸」が面白いですね。
4月3日の第13回「決戦」では、第1次上田合戦で、兵力2000の真田勢が真田昌幸の策によって、兵力7000人の徳川勢を撃退するという大勝利を収める場面が放送されました。
このドラマに登場する戦国武将・真田昌幸は信繁(幸村)の父ですが、この第1次上田合戦で徳川軍を撃退した翌年の1586年(天正14年)に、豊臣秀吉は書状で真田昌幸の事を「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評しています。
今日はこの「表裏比興」について調べることにしました。

「表裏」とは、文字通り表裏の事で「態度や言葉と内心とが一致しないこと」です。
また一説には「非興:(興ざめ、あさましい)」の意味もあるとされ、更に、「正常から外れていてよくないこと」、「不合理なこと」、「卑劣なこと」、「臆病」などの意味もあります。
「比興者」には、今では「卑怯者」の当て字が使われ、負のイメージが強い言葉となっていますが、「表裏比興の者」は弱肉強食の戦国時代では一筋縄ではいかない一目おかれる存在で、老獪(ろうかい)、食わせ者と言った評価もあって、戦乱の世ではむしろ世渡り上手と賞賛される褒め言葉として使われたのでは、との見方もあるようです。

「表裏比興の者」
真田昌幸は武田家の家臣でしたが、武田が滅ぶと織田信長の家臣となり、その3カ月後に本能寺の変で信長が横死して北条氏直が侵攻してくると昌幸はまず上杉景勝に臣従します。
ところが、1ヶ月もしないうちに上杉を裏切って北条氏直に降っています。
沼田城に戻った昌幸は佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、3カ月後に突如北条氏を裏切るのです。
徳川軍と対陣する北条氏直は和睦の途を選択しますが、家康は氏直に和睦の条件として真田が支配する上野国の沼田領を譲渡するという条件を出しましたが、この徳川家康の要求に対して、真田昌幸はこれを一蹴し、再び上杉景勝の軍門に降ることを決断し、徳川方と決別します。
ほどなく豊臣秀吉の治世になると、真田昌幸は豊臣秀吉の軍門に降りたのです。

徳川、北条、上杉の3大勢力に挟まれた信濃の小豪族・真田家が生き残るためには、時に北条に付き、時に上杉に付き、また時に徳川に付きながら真田昌幸はその表裏比興の才覚を持って自分の領地を守ることに留まらず、領地の拡大まで果たし、真田家を一躍、大名にまでのしあげることに成功したのです。
これこそが真田昌幸が「表裏比興の者」といわれる所以です。

戦国の世とは言え、真田昌幸は裏切りを繰り返しながらもよく生き延び、勢力を拡大したものだと思います。
秀吉は上手く表現しました。


イチゴ色づく

2016-04-05 | 家庭菜園

今年は早くもイチゴが色づいてきました。
昨年より半月ほど早く熟れ始め、孫が楽しみにしている5月連休のイチゴ狩りは、最盛期が過ぎて収穫が減りそうです。
今年はカラスの被害が出始めたため、例年より1ヶ月くらい早い2月中旬にビニールトンネルを張ったことから、生長が促されて予想以上に早く熟れ始めたものです。

・これが私のいちご畑です。鳥獣被害を防止するため全面に網を張り、更にトンネルをして雨除けをしています。


この為、できるだけ熟れるのを遅らせようと、日中はトンネルを開放し、夜には半分くらいまで下ろして雨や夜露を防せぐ作業を繰り返しています。



今年は蕾をたくさん付け過ぎたことから、イチゴの粒が小さく、その分肥料の吸収が分散したのか、昨年より甘味が少ないような気がします。
孫は「小さくても数が多い方がいい」と喜んでくれるのではないかと、勝手に思っているところです。





春のオープンカフェ

2016-04-04 | 地元紹介

今日は地元の話題をご紹介します。

昨日、熊取町山の手台では「フラワー山の手」と「ハミング山の手」が共催する「第22回春のオープン・カフェ」が行われました。
“フラワー山の手”は、山の手台住宅地内の老人施設や公園、遊歩道などに草花などを植栽して、住みよい環境を作るべく活動しているボランティアグループで、“ハミング山の手”は、歌うことが好きな住民の人たちで結成されたコーラスグループです。

「オープン・カフェ」は、地域住民とのふれあいや親睦を図る目的で、春と秋の年2回開催されており、春は“フラワー山の手”と“ハミング山の手”が共催し、秋は“フラワー山の手”が主催して行われているものです。
今回は珍しい事に、終盤になって町長が激励に来てくださいました。

・会場となった住宅地内の集会所“憩いの家”です


フラワー山の手のメンバーの皆さんが手作りしたケーキや多肉植物の小鉢など、本日販売品する品々を開会前に撮影させてもらいました。

・毎年好評で、すぐに売り切れとなる、ケーキや飲み物などのコーナーです。


・こちらも人気がある多肉植物のコーナーです。


・おしゃれな容器に植えられた小物鉢類です。奥様方に人気の品々です。


.一個100円のケーキは今回も開会直後にすぐ売り切れとなりました。


・多肉植物コーナーも忽ち人だかりができる人気ぶりです。


・気に入った品物を買い求める奥様方です。


・買い求めた食べ物や飲み物を飲食しながら懇談する住民の方々です。


・当初、憩いの家の中で歌っていたハミング山の手の方達ですが、その後庭に出て、オープンカフェのスタッフや参加者の皆さんと一緒に、「学生時代」や「母さんの歌」など、懐かしい歌を歌って親睦を深めていました。


「フラワー山の手」と「ハミング山の手」の皆さん、たのしい催しを有り難うございました。
そして、お疲れさまでした。


桃の花満開

2016-04-03 | 家庭果樹

各地でサクラが満開となり、桜の名所ではお花見客で賑わっているようです。
東京の上野公園では外国人観光客も大勢訪れていると報じていました。
最近では和食に続いて、桜も観光目的となっているようですね。

ところで桜も綺麗ですが、桃も美しさでは決して劣りません。
今日は満開となった我が家の桃の花を取り上げます。

・満開の桃です。


この桃は樹齢30年を超える白桃の老木ですが、毎年たくさんの蕾をつけ、果実を生らしてくれます。
傍で見る桃の花は美しく艶やかで、桜とは違う魅力があります。



庭の桃と言えば、万葉集に大伴家持が詠んだ歌があります。

「春の苑(その) 紅(くれない)にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ乙女」   (大伴家持)
意訳:春の庭で、桃の花が真っ赤に美しく色づいている。その紅が映えた道にたたずむ少女よ

・たたずむ少女はいませんが、ピンクの花はとても美しいです。



変貌する日本の「4月馬鹿」

2016-04-02 | 季節

昨日はエイプリルフールで、嘘をついてもよいとされている日でした。
嘗ては、日本人の真面目な国民性から個人がエイプリルフールの行事を楽しむ程度でしたが、最近は企業もエイプリルフール用のユニークなCMを制作するなど、日本の4月馬鹿も変貌しているようです。

昨日のニュースで紹介していた4月馬鹿のCMは「NISSANとNISSINが造った飛行物体がNISSENに不時着」と言う動画です。
ご覧になった方もおられると思いますが、もう一度ご覧下さい。

・エイプリルフール用の「NISSANとNISSINが造った飛行物体がNISSENに不時着」の動画です。


エイプリルフールで私が一番驚いた動画は、イギリスのBBCが8年前の2008年に制作した「空飛ぶペンギン」です。
ペンギンが本当に空を飛んでいるように作られており、しかも南アメリカまでの長距離を渡り鳥のように飛んでいるのです。
驚きましたね!
ペンギンが空を飛ぶことはないのに、と思いながらもついつい見てしまいました。

BBCはイギリスの放送協会で、日本で言えばNHKと同じ立場です。
もしNHKがエイプリルフールと言うことで嘘のニュースを流したら、日本では許されないでしょうね。
そのBBCが制作した見事なうその動画をどうぞご覧ください。

・2008年にBBCが制作したエイプリルフール「空飛ぶペンギン」です。