NHKの大河ドラマ「真田丸」が面白いですね。
4月3日の第13回「決戦」では、第1次上田合戦で、兵力2000の真田勢が真田昌幸の策によって、兵力7000人の徳川勢を撃退するという大勝利を収める場面が放送されました。
このドラマに登場する戦国武将・真田昌幸は信繁(幸村)の父ですが、この第1次上田合戦で徳川軍を撃退した翌年の1586年(天正14年)に、豊臣秀吉は書状で真田昌幸の事を「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評しています。
今日はこの「表裏比興」について調べることにしました。
「表裏」とは、文字通り表裏の事で「態度や言葉と内心とが一致しないこと」です。
また一説には「非興:(興ざめ、あさましい)」の意味もあるとされ、更に、「正常から外れていてよくないこと」、「不合理なこと」、「卑劣なこと」、「臆病」などの意味もあります。
「比興者」には、今では「卑怯者」の当て字が使われ、負のイメージが強い言葉となっていますが、「表裏比興の者」は弱肉強食の戦国時代では一筋縄ではいかない一目おかれる存在で、老獪(ろうかい)、食わせ者と言った評価もあって、戦乱の世ではむしろ世渡り上手と賞賛される褒め言葉として使われたのでは、との見方もあるようです。
「表裏比興の者」
真田昌幸は武田家の家臣でしたが、武田が滅ぶと織田信長の家臣となり、その3カ月後に本能寺の変で信長が横死して北条氏直が侵攻してくると昌幸はまず上杉景勝に臣従します。
ところが、1ヶ月もしないうちに上杉を裏切って北条氏直に降っています。
沼田城に戻った昌幸は佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、3カ月後に突如北条氏を裏切るのです。
徳川軍と対陣する北条氏直は和睦の途を選択しますが、家康は氏直に和睦の条件として真田が支配する上野国の沼田領を譲渡するという条件を出しましたが、この徳川家康の要求に対して、真田昌幸はこれを一蹴し、再び上杉景勝の軍門に降ることを決断し、徳川方と決別します。
ほどなく豊臣秀吉の治世になると、真田昌幸は豊臣秀吉の軍門に降りたのです。
徳川、北条、上杉の3大勢力に挟まれた信濃の小豪族・真田家が生き残るためには、時に北条に付き、時に上杉に付き、また時に徳川に付きながら真田昌幸はその表裏比興の才覚を持って自分の領地を守ることに留まらず、領地の拡大まで果たし、真田家を一躍、大名にまでのしあげることに成功したのです。
これこそが真田昌幸が「表裏比興の者」といわれる所以です。
戦国の世とは言え、真田昌幸は裏切りを繰り返しながらもよく生き延び、勢力を拡大したものだと思います。
秀吉は上手く表現しました。