退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「観察者の抗議と高校時代あるいはいつものダラダラ」について

2018-02-18 02:48:48 | Weblog
晴れ。風強く冷え雪も。

今宵は研修で老舗バーはお休み。

帰りの夜道の寒いこと。
いつもは歩きながら吸うタバコをやめたほど。

「ファーブル昆虫記3」を少しだけ読む。

ハチたちが幼虫のエサに施す「新鮮さを保つための外科手術の妙」と
幼虫たちの行動からすると「とても進化論が正しいとは思えない」という記述が再び。

虫たちの行動には「論理」がなく「盲目的」。
ならば「どこで学習するのか」ということも大きい模様。

「試行錯誤の結果」ではなく「本能」なのだと。
思い出すのはチョムスキーの「生成文法」。

「擬態」に関する疑問もあれこれ。
というか「見た目の一致」があまりに優先されすぎていたことへの「観察者の抗議」か。

「アンフォゲッタブル 完全記憶捜査 シーズン2」の最終回を観る。

今回はキャリーの高校の同窓会がらみの事件。
同級生から繰り返される「不気味キャリー」という「愛称」の扱いがなかなか。

遠く暗い過去が現在に与える「影響」よ。
「学校カ-スト」からハズれた生徒たちは「アウトサイダー」と呼ばれて。

当時から現在への「変遷」も描かれて何やら趣き深い印象。

ちなみに高校の同窓会には参加したことがなく。
「アウトサイダー」ではなかったもののどこかスネていたような記憶はある。

当時から恋愛沙汰にはあまりご縁がないまま。
常に「自分だけで手いっぱい」だったようでいまだに成長していない次第。

さて。

このところ「連休」がないので「のんびりした感じ」がしない。
観るべき映画は結構あるもののついついダラダラしてしまう。

というわけで今宵も同様に。
眠くなったら寝る。
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「身近なスペインと爬虫類度を増した女優」について

2018-02-17 02:57:51 | Weblog
晴れ。暖かくおだやか。

エクトル・ガルシア「コモエスタ・ニッポン!」を読む。

副題に「世界で最も読まれているスペイン語ブログのひとつは日本ガイドだった」。
そうなんですかという感じ。

あまり「外国人特有の見方」が感じられないのがポイント。
下手な日本人より日本のことがわかっているような印象。

「コモエスタ」といえばやはり「赤坂」だろう。
「コモエスタ」は英語だと「How are you?=ごきげんいかが」なのは有名か。

「yes」が「シ」で「no」が「ノ」だったり。
「しの」という日本名は微妙なことになる。

「アディオス アミーゴス」で「さらば友よ」。
ヴァイヤ・コン・ディオス」は「神とともに行け=お元気で」。

いずれも開高健が「弔辞」を扱った本のタイトルにもなっていたか。
宇崎竜童には「涙のヴァイヤ・コン・ディオス」という曲も。

身近なスペインあれこれ。
マドンナには「ラ・イスラ・ボニータ=美しい島」。

女子にはフラメンコやパエーリャがお馴染み。
男子にはフラメンコギターなど(偏見かな)。

深夜オリヴィエ・メガトン「96時間/リベンジ」(’12)を垣間見る。

リーアム・ニーソンの超人ぶりに笑う。
どこか「沈黙シリーズ」のスティーヴン・セガールに似て。

ファンケ・ヤンセンが「爬虫類度」を増しているのを確認。
そうか彼女も53になるのか。

ボンドガールの後はXメンへ。
23年前と18年前のこと。

最近では「ブラックリスト」のシリーズにも出ている模様。
キリがないのでそろそろ寝る。
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「即興=一期一会あるいは十年前の若き女優」について

2018-02-16 03:09:13 | Weblog
『くもり。昼夜の寒暖差が激しい。

「戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ」読了。

大江健三郎、倉橋由美子、中上健次あるいは相倉久人、平岡正明。
白石かずこの朗読に「ジャズ」を観る視点にふむふむ。

どうやら「即興=一期一会」であることが肝心。
生まれた時から死に向かう存在であるわれわれにとって全ての時間は不可逆。

そこで散らされる火花こそが「ジャズ」だということで。
「こいつ、なかなかやるじゃん」と思う相手でありたいもの。

曽利文彦「ICHI」(’08)を観る。

十年前の綾瀬はるかはまだ二十三歳。
その姿を確認したくて観た次第。

「座頭市」の主人公を「瞽女」にしたのがポイント。
篠田正浩「はなれ瞽女おりん」(’77)も忘れずに(当時のキャストの豪華さも同時に)。

殺陣がきちんと出来ない部分はスローでカバー。
もっとも十年後の「精霊の守り人」ではしっかりこなしていて。

声がまだ若く「出来上がっていない」感じ。
台詞も実は歌と変わらず。

同じ監督の「ピンポン」はもう16年前になるのか。
本作にも出ている中村獅童を知ったのはそれが初めてだったはず。

リサ・ジェラルドの音楽が素敵。
アイリッシュな曲調はどこかわが国のそれと相性がいい模様(NHK大河「龍馬伝」の音楽も)。

大沢たかおは「母を傷つけた呪縛」から綾瀬はるかは「父と別れた呪縛」から解放される。
「子どもが大人になる物語」だと思えばいいかも。』でまた寝る。
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「残念な映画と切り口の新しい『評価』そしてあれこれ言いたくなる映画」について

2018-02-15 02:41:26 | Weblog
晴れ。寒さは緩む。

久方ぶりの有給休暇。

近所のシネコンで「リング/リバース」と迷って吉田大八「羊の木」(’18)を観る。
原作が山上たつひこ&いがらしみきおだというのに惹かれたのだけれど。

原作との違いは未読なので不明。
ただ映画は残念な出来。

「過疎化対策」に「元殺人犯」を利用するという設定に「衝撃」はあるものの
6人を「紹介」するという「王道パターン」に楽しさがなく。

北村一輝、優香、市川実日子、田中泯、松田龍平を使ってこれはないだろう。
水澤紳吾は悪くなかったけれどエピソードの処理が微妙で。

おまけに松田龍平の最期たるや。
おそらくはマンガの世界であり得た「雰囲気」が「ただの実写」になることで消えてしまい。

それぞれの俳優の「イメージ」をなぞるだけの演出にはガッカリ。
この監督にはどこか「根本的な勘違い」があるとしか思えない次第。

マイク・モラスキー「戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ」を途中まで読む。

「文化の高低」の度合いを基準にするのにふむふむ。
かつて「ジャズ」は「外国音楽の総称」であったことを知っておこう。

その音楽は「国内にはない『自由』」を感じさせた模様。
ジャズにあまり親しまないまま「本質」を捉えた五木寛之の小説が懐かしい。

相倉久人や平岡正明は「女性」を排除していたというのに「そうか」。
わが国のジャズの歴史においては圧倒的に「秋吉敏子」が重要だというのに。

明日読了予定だが結末が楽しみ。

「口直し」というわけでもないがGyaoで白石和彌「凶悪」(’13)を観る。

何人も殺した暴力団のピエール瀧の死刑囚が雑誌記者の山田孝之に「告白」して
自分以上の「悪玉」リリー・フランキーを「有罪」に持ち込むお話。

取材にのめり込み今まで以上に「認知症の母を妻に任せたままにする」ジャーナリストよ。
池脇千鶴の妻の「死んだ人の魂なんてどうだっていい」という叫びがなかなか。

「自分を裏切る奴は許せない」という信条の下で
シンプルで圧倒的な暴力を奮いつつ殺人の後で線香を焚く存在の不思議さよ。

その彼を「どうにも憎めないのよね」という妻もいる。
彼女はすべての事情を知っていて。

「突き抜けた世界」において一番「暴力的」だったのは主人公だったり。
あるいは借金を重ねた夫の保険金で自分たちの「今後」を維持しようとする家族など。

「凶悪」とは何なのかと問うかたち。
ならばラストがあれでよかったのかと思うことしきり。

むしろ夫婦は別れるのが「本当」ではないのか。
その一点は疑問だけれどいろんな意味で「刺激的」な作品でグッド。

少なくとも「あれこれ言いたくなる複雑さ」を味わえるのは確か。
「脇役の地味さ=普通さ」が「リアルさ」を保証しているのも忘れずに。

それとは別に白川和子と吉村実子が「現役」なのがうれしい。
前者はかつての「ロマンポルノの女王」で後者は今村昌平作品の常連。
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「映画を『立体的』に味わう豊かさあるいはあらゆる分野に功績のある実業家」について

2018-02-14 02:01:49 | Weblog
晴れ。昼間の空気が冷たい。

町山智浩「映画と本の意外な関係!」を読む。

「映画の中の本棚や本」に始まり
原作との関係や引用される聖書の言葉や詩などについてのあれこれ。

映画を「立体的に味わう」この試みはなかなか。
オリバー・ストーンの作品に「名言が多い」という意外さよ。

つまり。

著者は尊敬する淀川長治のように
「知らなかったことを教えてくれる存在」を目指した模様。

そしてひとつの作品からの「広がり」を楽しむことについても同様。
もっともこれはジャンルを問わず「王道」ではあるのだけれど。

残念ながら現在の作品をあまり観ていないので
実際に確認できる数は少なかったものの。

ひとつだけ贅沢を言うならタイトルの「!」をなくすこと。
内容の盛り沢山さがすでに「!」を表しているから。

ただ著者の実際の語り口を思えばその方が合っているかもしれず。
あるいは「照れ」だと解釈すればいいのかも。

「アメリカ文化のよき紹介者」であることは確かで。

「ブラタモリ #95 宝塚」の再放送を観る。

明治以降昭和の半ばくらいまでは「温泉」が「一大観光地」であったことを思い出す。
もちろん現在でもそれは続いていなくもなく。

武庫川を挟んだ「娯楽の差」よ。
片や男性専門で片や家族用に。

後者を開発した小林一三の話がいつ出てくるのかと思っていたらようやく後半に。
ついでに阪急電鉄(前身は有馬箕面電気軌道)の話もあったらよかったのに。

鉄道を引くことで人々を集め町を盛り上げる手法は彼が嚆矢。
確か猪瀬直樹「ミカドの肖像」で知ったのだったか。

さらには「宝塚少女歌劇」から「宝塚歌劇団」への「娯楽の発明」も。
「ベルサイユのばら」はもう44年も前のこと。

年間100万以上の観客をいまだに集めているのだからスゴイ。
「女子の妄想」を「実現する場所」だと思えばなるほど。

ジャック・ドゥミによる映画はその5年後。
なぜか主役カトリオーナ・マッコールが「おでこ」だったことだけを覚えていて。

阪急と名のついたものには他にも百貨店やプロ野球の阪急ブレーブスがあり。
後者は今や「オリックス」になって久しいけれど。

美術品の蒐集もしたり「吉兆」の上客でもあり。
こういう「人物」が今でもいるのだとしたらお会いしたいところ。

ちなみにNHK朝ドラで高橋一生が演じているのがこの人。
ドラマは「作りもの」なので実際の歴史とは異なるのでよろしく。
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「すでに遠くなった過去と現在あるいは無理筋の美学」について

2018-02-13 02:17:15 | Weblog
『晴れ。また夜にやや冷える。

吉田文和「グリーン・エコノミー」(’11)を読む。

3.11から7年になろうとする現在。
当時の「脱原発」の勢いが消えたのはチェルノブイリのその後に同じ。

経産省の「エネルギー・ミックス」という「出来レース」があった上に
今ではTVで石坂浩二がその片棒を担いでいる始末。

そもそも「アンダー・コントロール」と言った首相を問い詰めない野党とは何なのか。
「凍土壁」という「まやかし」の現状も追わずじまいで。

いわゆる「モリカケ問題」などどうでもよく。
「肝心なところ」をピンポイントで突けない「無能力さ」よ。

国土を失わせ国民から「故郷」と「生活」を奪うようなエネルギー政策があっていいわけがなく。
いまだに新たな危険は続いていることも忘れて。

残念ながらわれわれに「学習能力」はないのだと思うのみ。
こんな国を維持するためにかつても今も「犠牲」になる人々がいるのが何とも。

昨日のNNNドキュメント「見えない壁 福島・被災者と避難者」では
「賠償金の有無」を巡る住民たちの「争い」もあり。

もっともここでは「好ましい調停者」がいてどうにか「対立」は収まった模様。

それにしても。

これほど「古典的」な「対立の構図」が残り続けるのは
「貨幣の多寡」にこだわりすぎるからだろう。

「貧しくとも楽しく暮らせる」という「事実」を忘れすぎているような。
そのために必要な「資源」を是非とも確保しておきたいもの。

繰り返すが一番重要な「資源」は結局「人」。
「好ましい未来」のための「土壌改良」が望まれる次第。

「合理的あるいは長期的な視野」を持てない者は「貧しい」。
スマホ片手にうつむくのが「基本」となるような「生活」をいったい誰が予想したのか。

「さまざまな知恵」が集積されるはずだったネットが
「事実」も見据えない輩たちの「バカバカしさ」に覆われることになったのも同様。

おとなしく「滅びること」がそれらの存在のせめてもの「美学」であってほしいと思いつつ
いたずらに「跳梁跋扈」するのがそうした人々であることもあらためて。』でまた寝る。
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「できるだけ相手を限定しない『観察』の素敵さと『手軽さ』の生み出すものもしくはそれに逆らえないのが『普通』であること」について

2018-02-12 01:51:54 | Weblog
晴れ。風強く冷える。

「ファーブル昆虫記2」読了。

「描写の基本」はここにあるのか。
安易な結論に飛び付かず徹底的に実験を繰り返す姿も。

「観察すること」の「理想的な形」よ。
対象に迫るその姿には頭を垂れるのみ。

マル激を観る。

自分の「情報収集」や「判断」に疑問を抱くためには
それらを超えた「現実」に出会っているという「経験=失敗」が大事かも。

「行動経済学」によれば
「いいね!」の情報によって人種・性別・嗜好などがかなりの確率で明らかになるらしい。

思ったよりわれわれは「単純な存在」でもある模様。
その「情報」をどう利用するかはその人次第で。

テクノロジーによる「新たな発見」は必ず「両刃の剣」であること。
その上で「まともな道」を探る「動機」は「なぜそうするのかを問うこと」か。

フェイスブックはこれまで「リベラルな志向」をしているけれど
「バイアス=偏見」があるのは確実でなおかつ「特定のルール」に縛られることになり。

一番いいのは「フェイスブックをしないこと」だとはいえ(個人的には未体験)
それが「基本」になる未来も十分にあり得るわけで。

「ネット及びSNSの利用」は便利ではあるものの
従来では思いもつかない大量の情報の集積とその分析による「知恵」を生み出し。

それらの「好ましい利用」もあればそうでない利用もある「現実」は時代を問わず。

結局「何がしたいのか」ということに尽きるのかもしれず。
もちろんそれは「育ってきた歴史」に左右されて。

ひとつだけ確かなのは「人は『自分の思い通り』が好きであること」。
だからこそ「認知的不協和=見たくないものは見ない」のが「当然」に。

繰り返すがたかの知れた「思い通り」より「世界の複雑さ」を味わいたいもの。
ただしそれが「高嶺の花」であるのが「現実」でもあることは間違いなく。

ファーブルは「普通の人」ではない。
当時のフランスの田舎の人々は彼の不思議な行動に「どう儲かるのか」と聞いていたし。

さて。

もうちょいとゴソゴソして寝る。
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「老舗バーとファーブルあるいは自分しかない『反応』とそうでないものと『エンジェルたち』」について

2018-02-11 02:22:53 | Weblog
くもりのち雨。深夜に止む。

今宵も老舗バー。

昨日は思いのほか盛況だったらしく今日は休もうかと思ったというのがマスターの弁。
仕方なく店を開けたものの客は自分を含めて3人か。

ピョンチャン五輪の開会式の映像など観つつ。
しばし「放置プレイ」の後帰宅。

「ファーブル昆虫記2」を半分くらい読む。

ダーウィンが死んだ記述がある。
彼とのやりとりは多少あった模様。

自分の判断の過ちをきちんと書いている姿にふむふむ。
それにしてもこの文章は読ませる。

そして根気よい観察についても。
好きでたまらないことについて人は何でもできるらしい。

実はそこが肝心。

何事かを本当に好きになれば何でもしてしまう。
それがわれわれの「本能」だったり。

もっとも「好きになる対象」とその手段が問題になることも。
やはり「バランス」が大事ということか。

さて。

個人的な観察によると「暑さ寒さ」についてすぐに口にする人は「残念な人」。
それが相手に向けられず自分の感想のみという限定付きのお話。

要は。

「暑い」「寒い」と言うだけの人がそれに当たる。
「暑いね」とか「寒いね」ならOKなのだが。

わずかな違いだけれど「大きな違い」。
相手に発した言葉なのかどうかがポイント。

「自分の好き嫌い」をただ単に口にするのかあるいはそばにいる相手に向けるのかどうか。
それだけでわかることがある。

前者は「自分」だけを見ていて後者は「他人」を見ている。
おそらくは「伝えられない経験」をしたのが前者で。

何事かに反応してくれる相手がいる環境で育てば後者になるはず。
「物理的な距離」と「心理的な距離」の違いを覚えておきたいもの。

「共感」が必要以上に求められる世界の「不健康さ」よ。
それはむしろ「身近な環境で共感を得られない現実」を示すのみ。

TVで「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」(’03)が始まる。

眠くなるまで観て寝る予定。
キャメロン・ディアスもルーシー・リュウもドリュー・バリモアも素敵。

「日米対抗ローラーゲーム」も懐かしく。
「河野のビンゴ」とかもあったと記憶している。
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「オリジナルとコピーあるいは観察者の倫理」について

2018-02-10 02:19:16 | Weblog
晴れ。寒さはやや緩む。

エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク「レンブラント」を観て読む。

光の魔術と圧倒的な質感で迫る作品の数々。
とりわけ「金色の光」が素敵。

たとえそれらを生かすために鮮やかな色彩を禁じることになっても。
漆黒があらゆる色を「輝かせる」ことにもなり。

本書の最後に載っている「議論」が面白い。
「オリジナル」にこだわる者と「コピー」こそ「オリジナル」を求めさせるという者と。

「原画」がある国の美術館にしかないのだとしたら
それを観られる人々は「特権」を持っていることになる模様。

もちろんときどきは「展覧会」で観ることはできるのだとして。
映画もそうなのだが作者が望んだ形で観られないことが多いのは確か。

活字なら基本は「コピー」なのでそうしたこともないのだけれど。
もっとも「生原稿」をありがたがる向きもある。

その点「版画」や「写真」は大量生産できたり。
ベンヤミンは「アウラ=オーラ」が凋落すると言った模様。

「複製技術時代の芸術作品」を読んで確認するか
それとも仲正昌樹「ヴァルター・ベンヤミン」を読むことにしようか。

ただし。

あらゆる作品は「こちらの都合(年齢や境遇もしくは体調)」によって「変化」するので
「オリジナル」に一度接触したからといって味わい尽くせるものでもなく。

もちろん複数回接すれば「印象」も変わるだろうから何が「本当」かは不明のまま。
その「刺激」によって生み出された「反応」が素敵ならいいだけかもしれず。

そうしたことをすべて「承知の上」であらためて「一期一会」の意味を考えよう。
われわれは常にあらゆるものに「試されている」のだと言っていいのかも。

「世界の問いかけ」にきちんと応えられるのかどうか。
「観察者の倫理」はおそらくそこから生まれるはず。
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「複雑でたくましい女子と控えめで理想的な男子」について

2018-02-09 02:16:15 | Weblog
晴れ。夜は風なくしんしんと冷える。

武谷雄二「月経のはなし 歴史・行動・メカニズム」を読む。

「男子の知らない世界」を医学、歴史、文化の面から語る内容。
産婦人科医である著者は昔風に言うところの「男性フェミニスト」。

それにしても女性にとってこれだけ身近なものであるにもかかわらず
「実態」はさまざまで苦痛を伴う一方その「正体」がよくわかっていない模様。

「穢れ」は「気枯れ」であり「気」は「生命の源、生命力」だというのにふむふむ。
いったん「枯れて」もふたたび蘇るものでもあるらしい。

「穢れ」に関する各種の「迷信」はいまだにあるようだけれど
そのことを「女性保護」という観点から捉える視点には「賛否両論」がありそう。

もっとも著者のそれは「過酷な現在」を生きたもしくは生きる女性たちを知るゆえ。

「女性」が「自然そのもの」であることをあらためて。
だからこそ男性はかつても今もその「不可思議ぶり」をいたずらに「恐れる」。

かつて「魔女狩り」が起こったのもそのせいだろう。
実は「男性による女性不信」だったり。

郷ひろみ「HOW MANY いい顔」の歌詞を思い出してみるか。
少なくとも「処女と少女と娼婦に淑女」といった「姿」を見ているのは確か。

「誘惑されている」と思い込むのはいつもながらの「男の勘違い」。
むしろ「自らの勝手な欲望」を投影しているだけで。

いやはや。

同じ境遇に置かれたらとっくに男は死んでますな。
何しろストレスに弱いもの。

さて。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」の再放送を観る。

「漆を愛する 漆と生きる 塗師・佐藤則武」の回。
塗膜片を集め分析したり古文書を読んで参考にしたり。

やはり「優れた人」には「文系理系」などという「ちゃちなジャンル分け」など不要。
「異端児」だと呼ばれるうちやがて「重鎮」に。

文字通り「厚味のある」素敵な色彩にうっとり。
何とも言えない「深み」を知るとわが国の「漆産業」を応援したくなること間違いなし。

地道な「漆かき」の仕事についても同様。
少なくともこの分野はもっと評価されないとどうにも。

冬季オリンピックが始まるせいではないけれど
ここには「世界的評価」を確実に得られるものがあるのだから。

「400年前の仕事」を知りつつ「この先400年保つ仕事」を目指すという「スパンの長さ」よ。
おそらく「理想的な男子の典型」だと思うだが如何。
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