晴れ。あたかかい。
舛添要一「都知事失格」を読む。
著者の能力が高いことは間違いない。
ただ残念ながらその「合理性」が他の人々には「冷たさあるいはKY」だと映る。
「事実の指摘」が正しいとしても
「普通の人々」にとって一番大変なのが「事実を受け入れること」だったり。
そのあたりの機微に疎かったのがいささか問題だったかも。
新聞記者たちの「無能ぶり」も手伝って。
わが国ではメディアによる「バッシング=いじめ」が絶えたことはなく。
「売れるから」という理由で平気で人を傷つける仕事だという自覚もないまま。
その一方で「正義」を気取るのだから何ともはや。
自らが「ヤクザもしくはハイエナ」だと知ることがないのはどうにも。
少なくとも「事実」を明らかにした上で批判しないと。
戦時も平時も「煽ること」しかしないその在り様はまさに「ゲスの極み」ではないのか。
ここでも「どんな相手であろうと言い分を聞き事実を確かめる姿勢」は見当たらず。
いつまで「敵」を作って「カタルシス」を味わう「貧しさ」にすがるのか。
もちろん著者の言い分がすべて「正しい」かどうかは不明だし
おそらく「正しくない」こともあるのだろう。
政治家に「聖人君子」を要求する「愚」をあらためて。
なぜ「聖人君子」など求めるのかといえば「自分が決してなれないから」と思うくらいがマシ。
分野を問わず「仕事の中身」をきちんと見て判断したいところ。
都合よく切り取った映像や文章で世間を騙すのもいい加減にしないと。
「徹底的な取材」があった上で「判断材料」を提供するのが「ジャーナリストの本来」。
そうした「健全さ」はなぜ維持されないのだろうと思えば
われわれの「不健全さ」があらためて浮き彫りになると思われるのだが如何。
いっそ「すべての仕事の評価」をAIに任せたらどうかと思うほど。
「プログラム」には「邪念」などないから。
さて。
冬季オリンピックもようやく終了。
選手たちの活躍を「感動ポルノ」に変える作業もいい加減にしないと。
スポーツ選手にあればいいのは「素晴らしいプレイ」のみ。
「運動能力の凄さ」を味わえればそれでいい。
「イベント」が終われば「日常」がふたたび。
「生活」にとって重要なのはむしろ後者であることを忘れずに。
「ささやかな幸せ」が普通に存在する「暮らし」は各地に行き渡っていない。
その「欠落」を「イベント」でカバーしようとするのは「間違っている」わけで。
そうしたものが「身近」にありさえすれば
人はいたずらに「イベント」など求めたりしないという「事実」を噛みしめよう。
舛添要一「都知事失格」を読む。
著者の能力が高いことは間違いない。
ただ残念ながらその「合理性」が他の人々には「冷たさあるいはKY」だと映る。
「事実の指摘」が正しいとしても
「普通の人々」にとって一番大変なのが「事実を受け入れること」だったり。
そのあたりの機微に疎かったのがいささか問題だったかも。
新聞記者たちの「無能ぶり」も手伝って。
わが国ではメディアによる「バッシング=いじめ」が絶えたことはなく。
「売れるから」という理由で平気で人を傷つける仕事だという自覚もないまま。
その一方で「正義」を気取るのだから何ともはや。
自らが「ヤクザもしくはハイエナ」だと知ることがないのはどうにも。
少なくとも「事実」を明らかにした上で批判しないと。
戦時も平時も「煽ること」しかしないその在り様はまさに「ゲスの極み」ではないのか。
ここでも「どんな相手であろうと言い分を聞き事実を確かめる姿勢」は見当たらず。
いつまで「敵」を作って「カタルシス」を味わう「貧しさ」にすがるのか。
もちろん著者の言い分がすべて「正しい」かどうかは不明だし
おそらく「正しくない」こともあるのだろう。
政治家に「聖人君子」を要求する「愚」をあらためて。
なぜ「聖人君子」など求めるのかといえば「自分が決してなれないから」と思うくらいがマシ。
分野を問わず「仕事の中身」をきちんと見て判断したいところ。
都合よく切り取った映像や文章で世間を騙すのもいい加減にしないと。
「徹底的な取材」があった上で「判断材料」を提供するのが「ジャーナリストの本来」。
そうした「健全さ」はなぜ維持されないのだろうと思えば
われわれの「不健全さ」があらためて浮き彫りになると思われるのだが如何。
いっそ「すべての仕事の評価」をAIに任せたらどうかと思うほど。
「プログラム」には「邪念」などないから。
さて。
冬季オリンピックもようやく終了。
選手たちの活躍を「感動ポルノ」に変える作業もいい加減にしないと。
スポーツ選手にあればいいのは「素晴らしいプレイ」のみ。
「運動能力の凄さ」を味わえればそれでいい。
「イベント」が終われば「日常」がふたたび。
「生活」にとって重要なのはむしろ後者であることを忘れずに。
「ささやかな幸せ」が普通に存在する「暮らし」は各地に行き渡っていない。
その「欠落」を「イベント」でカバーしようとするのは「間違っている」わけで。
そうしたものが「身近」にありさえすれば
人はいたずらに「イベント」など求めたりしないという「事実」を噛みしめよう。