くもり。おだやか。
福永未来「万引き女子 <未来>の生活と意見」を読む。
タイトルのオリジナルはスターン「トリストラム・シャンディ」。
後に伊藤整による「得能五郎の生活と意見」などのシリーズも。
両親からのDVと性的虐待を受けた少女は「万引き」がやめられなくなり。
「家庭という密室の酷さ」とそれによる「病気=中毒」についてあらためて。
ところどころ「おかしな」文章はあるものの
著者の生活描写は実にリアルでついつい引き込まれる次第。
この種の「現実」はもっと知られなければならず。
よくぞ書いてくれたと思うことしきり。
彼女が「万引き衝動」から解放されるのが「今のままでいい」と思うことなのに注目。
「損」を取り戻すために続けられたという「心理的経済」がポイント。
「生まれる環境を選べない事実」は案外重要。
おそらく各地であることなので是非。
NNNドキュメント「眠れない子どもたち "睡眠障害"という病」を観る。
スマホやゲームはもちろんのこと親の働き方によっても生まれる「障害」について。
この事実ももっと広く知られる必要がありそう。
「病気」であるという認識が広がらないとただの「怠惰」に見えるのがコワイ。
症状の違いはあれどこれまた各地で「普通」にありそうな予感が濃厚。
「眠育」というのもどうやら必要らしい。
たいへんな時代になったものだと思うのみ。
マル激を観る。
「仮想通貨問題の本質」は「ブロックチェーン」というシステムにあることについて。
「書き換え不可能」な「記録媒体」による影響。
ネットの情報と違って「信用」を確実になものにできるそれは「真実」しか記録しないと。
もっともそこでもたらされる「真実」が従来の「権威」その他を大いに脅かすことも。
AIも含め「ルーティンワーク」をすべてそれらに任せた後で人間は何をするのか。
「自由に溺れる問題」がどうやら身近に迫っている模様。
「好きなものがない人」は退屈するだけという「選別」が日常になると。
たいていの人はそこまで好きなものがないというのに。
「テクノロジー」が「人間性」を規定するのはもはや「フィクションの世界のお話」ではない。
映画「ターミネーター」の「スカイネット」が「現実」になるのだと。
人類が地球に必要かと問われれば「ノー」。
そうした物言いがもはや「ジョーク」ではなくなってしまった模様。
さて。
「イデオロギー=無前提の正しさ」はすでに力を失って久しいと思いたいところ。
さまざまな現実をどう解決するのかの「知恵比べ」が始まらないとどうにも。
そこで「人間性」を捨てることになる「決断」を迫られた時に
われわれは「人間」であり続けるのかどうか。
福永未来「万引き女子 <未来>の生活と意見」を読む。
タイトルのオリジナルはスターン「トリストラム・シャンディ」。
後に伊藤整による「得能五郎の生活と意見」などのシリーズも。
両親からのDVと性的虐待を受けた少女は「万引き」がやめられなくなり。
「家庭という密室の酷さ」とそれによる「病気=中毒」についてあらためて。
ところどころ「おかしな」文章はあるものの
著者の生活描写は実にリアルでついつい引き込まれる次第。
この種の「現実」はもっと知られなければならず。
よくぞ書いてくれたと思うことしきり。
彼女が「万引き衝動」から解放されるのが「今のままでいい」と思うことなのに注目。
「損」を取り戻すために続けられたという「心理的経済」がポイント。
「生まれる環境を選べない事実」は案外重要。
おそらく各地であることなので是非。
NNNドキュメント「眠れない子どもたち "睡眠障害"という病」を観る。
スマホやゲームはもちろんのこと親の働き方によっても生まれる「障害」について。
この事実ももっと広く知られる必要がありそう。
「病気」であるという認識が広がらないとただの「怠惰」に見えるのがコワイ。
症状の違いはあれどこれまた各地で「普通」にありそうな予感が濃厚。
「眠育」というのもどうやら必要らしい。
たいへんな時代になったものだと思うのみ。
マル激を観る。
「仮想通貨問題の本質」は「ブロックチェーン」というシステムにあることについて。
「書き換え不可能」な「記録媒体」による影響。
ネットの情報と違って「信用」を確実になものにできるそれは「真実」しか記録しないと。
もっともそこでもたらされる「真実」が従来の「権威」その他を大いに脅かすことも。
AIも含め「ルーティンワーク」をすべてそれらに任せた後で人間は何をするのか。
「自由に溺れる問題」がどうやら身近に迫っている模様。
「好きなものがない人」は退屈するだけという「選別」が日常になると。
たいていの人はそこまで好きなものがないというのに。
「テクノロジー」が「人間性」を規定するのはもはや「フィクションの世界のお話」ではない。
映画「ターミネーター」の「スカイネット」が「現実」になるのだと。
人類が地球に必要かと問われれば「ノー」。
そうした物言いがもはや「ジョーク」ではなくなってしまった模様。
さて。
「イデオロギー=無前提の正しさ」はすでに力を失って久しいと思いたいところ。
さまざまな現実をどう解決するのかの「知恵比べ」が始まらないとどうにも。
そこで「人間性」を捨てることになる「決断」を迫られた時に
われわれは「人間」であり続けるのかどうか。